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へ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森へ至るイドへ至る森
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車校とバイト先を行ったり来たり。うん、免許取り終わったら本気出す、と本気で言って見ようと思うんだい、って、mixiで呟いてばっかりなのも何なので久々に――何かがビューンと音を立てて過ぎ去った気もするが、それはきっと気の所為に違いない。
 
 で、タイトルを見て貰ったら解る様に、最近、昼は近場にある某ファミレスで取っている。少し前だったならば、誰が行くものかと思ったものだが、これが寄る年波という奴だろうか。プレミアムカフェ美味しいです。気兼ね無く珈琲やら何やらをお代わり出来るというのは、だらだら粘る時には素晴らしいね。

 そんな中で、クラフト・エヴィング商會の『クラウドコレクター』及び『すぐそこの遠い場所』を再読す。

 著者の先々代に当たる祖父が、商品や旅日記、辞典という形で産み出した架空の異国『アゾット』を巡る物語……上手く内容を説明出来なくて恐縮なのだが(正直、読んでくれというより他無い)私が定義する所のファンタジーの極北であり、何度も何度も手垢が付く程読んだけれど、矢張り、素晴らしい。一つのテーマが個々の存在全てに宿り、全体を形作っている様は、本当に見習いたいものである。そういう事を抜きにしても、懐郷と好奇と哀愁と諦念を感じさせずには居られないあの世界観は大好きだが。

 そして改めて、もとい中でも『すぐそこの~』に記載されている『ゴジと校正士』の話が、私は特に気に入っている。或いは、今回再読に至ったのは、空想科学祭の為の原点回帰を目指してなのだけれど、これはまた別に、戒めとして再度心に刻んで置きたいものである――

 本の中から『ゴジ』を見つけ出してはそれを抜き取り、箱に詰め込む『校正士』達。彼等は引退後、『ゴジ』だけを使って小説なり随筆なりの、一冊の本を作り出す。そして、一切の『ゴジ』無く形作られたそれらには、決まってこんな文句が、こっそりと入れられているのだという。即ち――

「すべての、葬られた文字たちのために」

 そういえばイストワールとかもそうだが……つくづく自分はこの手のに弱いらしいね。何かって言えば、そら、タイトルの続きの歌詞というかガーガーガーガーというか、しみゅらくらくらしみゅらくらぁ?

 ……こちらもそろそろ本気を出さねばね。
2010.05.30 Dead Poets Society
 『いまを生きる』は名訳だと思う、例の如く見てないけれどっ。見たいけれどっ。

 ともあれ、最近は自動車学校に通ってたりする。乗って見て解る、嗚呼これは車社会というものが誕生する筈だという道理。こんな巨大な機械が、指先と足先と意思の切れ端で動いてしまうなんて狂気に触れれば、そりゃぁもうパラダイムシフトも起ころう筈である。まぁ、ゴーカートにて渋滞を起こした男にとって、MT車の運転はなかなかしんどく、見栄張らずにAT車にしとけば良かったと後悔したりしているが、まぁぼちぼちとやっている――とりあえず、独立型運転支援ユニットの早期開発を望む所である。

 後は去年も参加した、小説家になろうのSF企画『空想科学祭』に今年も出張ってみたり。実は運営委員の一人に選ばれたのだけれど、実質名目上で――まぁ、書く事に意義を見出したいと思っている。投稿まではまだ大分時間があるので、今からじっくりねっとりネタを練って置く次第。ぎぶみーねた。

 それから、大学サークルの冊子の品評を頼まれた、というか願い出た為、時間見付けて読んでいる。自分が抜けた後にも、こうやって続くものがいるというのは、不思議な気分だ……抜けた割りには結構顔を出しているのはご愛嬌だが。まぁ内容としては色々言いたい事はあるのだけれど、それは言うべき所で言うが、ただ一点、とある人物に対して、この名文句を引用させて貰おう。

 SF作家たちがおびえて顔を見合わせる中で、ひとりがいった、
「あれは第二のハーラン・エリスンだぞ」
 するとまたひとりが、この人物についてはロバート・シルヴァーバーグというだけで名前は伏せることにするが、こう言った、
「今のうちに殺そう」
 唐突だが理は、血液型診断という奴を相応に信じている。

 理由としてはまず始めに感覚的なものだ。人間含む動物の生存に欠かす事の出来ない、宗教的にも重要視されている血液という代物に、明白な、異なるものと混合する事の出来ない明白な差異がある。これが事実として広く知れ渡った文化圏の中、その血液型という差異が、一個人の人格、人間形成上に何の影響も与えない――とするのは、ちょっと思えないのだ。これが、例えば他の動物、他の文化圏であるならば、話は別であるけれど、少なくともここ日本という地で、それは無理があるのではないか。少なくとも先行研究が無い、発端が疑わしいという理由だけで、断固として否定してしまうのはどうなんだろう、と。

 まぁここで、影響なんて無い、と断言されてしまうと元も子も無いが、そういう事を言う人には、歌の通りにこう返しておくとしよう――それなら君は、幸せなんだろうね、と。

 それから実体験としてある程度、血液型の差異というのは確かに感じる訳で――私は自他共に認める生粋のA型、という事は翻って、B型にも映る様なのだけれど、個人主義者たるB型とは基本的に相性最悪だし、無軌道良い所取りのAB型は理解が出来ないし、王国乃至王様のOは慣れるまでが辛い――そして、この手の話題を出した時、B型は何も言わずとも謙遜し、卑屈となり、産まれて来て御免なさいという空気を醸し出し、A型は(表面上は)話題に乗ってくれ、O型は賛否はともあれ最後は、『でも血液型とか関係無いよねー』で終わる感覚も、余り外れた事は無い。AB型? 放って置いても、構うまい。

 さてそう言った、信じるに値するだけの理由が出来た上で、それを受け入れてしまうのは、指針としてまた有効だからである――ここで言って置くが、理は別に、血液型だけで全てが決まるとは思っていない。どういう行動、性格を示したから、何型だ、等というレッテル張りもどうかと思っている。ただ、血液型は、人間の個というものを成り立たせる膨大な要素の内の一つ――誕生日とか星座とか髪の色とか体型とか体質とか両親とか先祖とか母国とか言語とか故郷とか教育とか食事とか衣服とか、そういった諸々と同じ様な――だと考えており、それを知っておく事で、理解と納得と安心と、その人への対応法を得る事が出来ると思っているのだ。最低限、その方向性なりは得られる、と。

 これを例えるならば――あれだ、ほら、ポケモンのタイプみたいなものだろうか? みずタイプのわざが効くからと言って、それがほのおタイプであるとは限らないが、ほのおタイプであるならば、みずタイプのわざも、じめんタイプのわざだって効くのである。予めそれを知っているならば、対処も可能、と。勿論それが全てでは無いと言った通り、変なとくせいを持っていたり、別タイプのわざを使ってきたり、見た目が素敵だったり、別種の戦法を取られたり、ステータス的にタイプとか余り関係なかったりと、困惑する事も間々あるが、とは言っても、知らないよりかは知っている方が、どうこう出来ようものがあるでは無いか。

 ――と、そんな理由で持って、理は結構血液型診断という奴を――妄信しない程度に――信じている訳だが、この感覚は、信じると言った様に信仰即ち宗教的で、まぁ科学だ非科学だ似非科学だと、どうこう言うのは可笑しいと思っていたりする――押し付けや、それを道具として扱う事は問題外だが、だが、遮二無二否定してしまうのは、宗教や信仰心を否定するのにも似た愚挙では無かろうか。無神論者は無神経とは良くぞ言ったものだが、正にその通りに、『宗教とは阿片である』という格言を――その先にまだ言葉があるにも関わらず――嬉々として語る様な按配である――まぁ、某所で見たコメントや、某茶室での遣り取りで思う所があったので、だだっと書いて見た訳だが、どうなのだろうね? こういう風に考えている人間は、決して少なく無いとは思っているのだけれど。
 最近弱った事に、何とも筆が進まない。書く書く、と言いながらさっぱり書けない。時間もネタもあるけれど、それを育ませる、何としてもっ、という気概が浮かばないのは、どうしたものか。もといこう言いたい位なのだよね、「一体どうやってやったのか、さっぱり解らないんだ」と。

 そこでふと頭に浮かぶのは、テッド・チャンやヴォネガット師匠が語っていた作家たるものの一つの姿勢であり、曰く、作家というものは、自覚無自覚乃至はその出来の良し悪しに関係無く、誰か特定の存在の為に、作品を書いているのだという。

 そうして思い返して見れば、どうも自分は、大学サークル連中の為に、作品を書いていたのでは無いかと思う。或いは、それを一つの張り合いとしていたのでは無いか、と。少なくとも、見えざるネットの不特定の相手を想定しては居なかったのは間違い無く、今の精神はそんな読者不在の状況が為に陥っているのであろう。自分でもちょっと意外だが、割合と、かなり大きかった様である、読者が――或いは批評者が、というべきか。黒い笑い、皮肉な文章は、最近の作風として良く言われているけれど、無形のものにはそういった感情を呼び起こすのも難しい。何ともはやだ。

 まぁとは言え、何処であれ、誰であれ、理は早々に読者と出会わねばなるまいな。で無ければ、進むべき道も、戻るべき道も、反れるべき道ですら見つける事など出来はしないのだから……

 あ、所で嫉妬を司るのはリバイアサンであると共に、嫉妬は緑色の目を持つ怪物だ、というのは、前々から知っていた事だけれど、こうやって見ると何とも暗示的ですね、と言って見たり。

 後、本当に関係無いが、ついさっき覗き見たアンサイクロペディアの無宗教項目が、実に言い得て妙で好きだ。世界四大宗教、無宗教の狂信者というネタは、また使いたいテーマだな。
 動かないで居たらこの有り様だよっ、と思いつつ、この格言を思い出す。

我々は違った未来を選ぶことができる。しかし、我々は過去を引き止めておくことはできない。
現代社会は決して技術の過剰に悩んでいるのではなく、その至らなさに悩んでいるのだ。
byオルビン・トフラー


 本当にそう思う。特に後半の部分ね。魔法の様に思える科学が到来するのは何時の日か。

 そういえば、人々が延々と、何の訳に立つのか解らない何かの作業をし続けているが、実はそれは、遥か未来に置いて、人間の為の絶対神と、それに付随する諸々の神話、そして信仰を産み出す為の行為であった、みたいな小説を昔読んだ事がある……今からでも遅くないから、我々は、我々の手に寄る、我々の為の神を造る作業に入っても良いのでは無いかね。人間全体を救って遣る為にさ。

 まぁ上の小説のオチは、救われるのは後世の人間だけかと怒れる民衆によって暴動が起こるというオチだったが。舞台の上と裏の人間が、観客と同じ様に成れる訳も無いけれど、何ともはや。

 と、そんな所で、今日はバイトも休みに付き、だらだらと新作なんぞも練ったり練なかったり。
というネタは凄い既出な気がしつつ、ホットパンツは素晴らしい。属性的には修道服とかゴスロリとか黒タイツとかが好きと割に公言して来たが、ホットパンツもいける口。でもイケイケゴーゴーなお姉ちゃんなんかじゃなくて、我等のメフィスト閣下曰わくの、男なのか女なのか良く解らん子が履いているのがいいのだよね、フェチ的には。生地に包まれた、小さいというのも烏滸がましいお尻、ほっそりと棒の様に伸びる乱雑に焼けた両脚がね。身体の未成長、未分化という逆説的な完璧さと美貌を思わせ、私に、あの夏への扉を越えた先の我が生まれ月の黄昏に佇むミニヨンの幻視を与えてくれるのである。

……



ふぅ。

さて休憩終わったのでバイト再開してきまー
なる言葉があるそうな。

これがどういうものかと言えば、デスマーチ用語であり、眠くても仕事をせねばならぬ時に珈琲を飲み続けると、珈琲カフェインへの慣れ、体温上昇も兼ねて、珈琲を呑む時=眠い時と条件づけされ、珈琲呑む=眠い、と本末転倒な状態に陥ってしまう事なんだそうな。

理は最近どうもこの傾向にあり、寝る前に珈琲を呑むとうとうととなって、熟睡出来る様になったのだが、先程推定五百mg超えのステンレスカップにてくいっと二杯目の珈琲を一気飲みした結果、目元は眠いが頭はハイな状態になってバイト中なかなか大変だった。

が、しかしこれでまだまだ私は珈琲カフェイン中毒では無い事が証明された為、安心してがぶ飲みする事が出来ると思った次第。

さて休憩も終わったからバイトいこー。
 気を紛らわそうと気紛れを起こして、去年結局受けなかった警察官の説明会に出向いた所、バイト先の後輩に出くわす。嗚呼そういえば今年そうだったものなぁ、と思いつつ、何ともやる瀬無い気持ちになった、初春の曇り空よ。Guten Tag,理である。まぁそも気紛れ起こす気が、朝目覚めたら消えていたから、いいんだけどね。本当、何故当日になってやる気というのは減退するのだろうか、不思議である。

 ともあれ、午後からは暇なので、だらだらとネタを練る事にしんとす……ネタを練ってもストーリにしなければ、話にならないんですけどね、文字通り。いや本当、何かこんな話を、ってのがあれば、お教え願いたいです、まじでまじで。色々出て来るんだけど、さっぱりまとまりゃしない……
 真・北斗無双……真・仮面ライダーディケイド……。

 いやぁ、大人の事情とか、本家あってこそとか、色々あるのは解るんだけどさ……。

 ただ、そういうの抜きの感想として、作品に取っての音の重要さを再認識した。

 ゲームで言えば個人的にはやはり『ワンダと巨像』が思い出されるのだが、声もそうなんだけど、それだけじゃなくて、BGMにSE、こういう所で手を抜いちゃいけないよね。人間は、目を通して情報の大半を得るそうだけれど、逆に言えばそれだけが全てじゃ無く、また必ずしも重要とは限らない。

 総合芸術ならば、眼だけで無く、耳もまた満足させて欲しい次第。
 昨日(もう一昨日だが)は、嘘を着いても良い日であり、嘘を着かなくてはならない日では無い為、まぁ皆がどんな嘘を着くだろうかとwktkしながら待ち構えており、自分からは決して嘘を着かなかったよ。普段嘘ばっかり着いてるから、こういう日位あっていいじゃないかい。本当だよ。嘘じゃないよ。

 所でこの前初めて知ったのだが、エイプリルフール(日本語だと万愚節と称すそうな。ひゅーかっくいー)は仏蘭西発祥らしく、また仏蘭西語だとの事を、『四月の魚』(poisson d'avril)と呼ぶそうな。

 調べたら、色々と由来が紹介されていたのだけれど、これがまたなかなか面白い。エスプリ、とはちょっと違う気もするけれど(そういえば以前語った仏蘭西語会話も、エスプ、リ? という感じだったが、あれもあれで)これはこれで仏蘭西流の良い冗句だと頷ける事請け合いである。それ自体が嘘なんじゃないのかと勘繰りたくなる程度には、良く出来た話だ。

 まぁ万愚節の逸話の真偽を疑うとは、これ程諧謔味の解らぬ事も無いだろう。それい、そもそも嘘か真かなんて別に構うものでもあるまい……伝統ある青使いならば、尚更に。
 昨日余りに月が綺麗なものだったから、衝動にかられて我乍ら冒涜的且つ名状し難い文章を書いて見たのだが、惰眠に耽っている最中、同じ位冒涜的且つ名状し難い夢を拝見した――

 ――我が父親と叔父が実はホモセクシュアルで家族にも黙っていたのだが今度結婚する事になり、その事を(叔父の娘である)従姉から聞いた私は勢い余って求婚するのだが、彼女はシュールレアリスム的な奇っ怪な絵柄……何故か雑誌ガロを連想させる……でスペイン舞台的な演技じみた一笑を起こすと、身体の八分の一が欠けた痩せっぽちの●●さん(名称忘却:スズキさんだった覚えがする。その姿はとある大学先輩の異様な抽象体だった)と三人連れ立ってマンションを降り、明らかに死の不吉が差し迫っているのは解っていながら屋上へ向かうべく、ぐるり入口前に居る背中の気味悪い女性を尻目に四分の三周して裏側のバベルの塔に似た段差に掛られている階段梯子を登り出すと、中途で自転車置き場兼自販機兼ゴミ集積所にて憑き物に憑かれたアラカワ先生が居て、聞いた話だとあの人は外国で頭をおかしくされ、とうとうゴミを取らぬ様に網が催されたというのだが、しかし今ではすっかりもう良くなったらしく、柔和な顔で何事か……丁度今起こっているこの事態の核心に至る箴言……を囁いた――

 そんな塩梅の夢である。

 悪夢と言えば悪夢だが、恐怖よりも嫌悪よりも、意味不明が先走る――まぁ何、きっとそれも昨日余りに月が綺麗だった所為に違いなく、ただ唯一の問題は――途中で見たあの女性が着ていた服が(そういえば中は従姉がかつて暮らしていたものだったが、外は自宅付近にあるマンションだったな、あそこ)紫であった様な気のする事である。意味深長な、赤でも青でも無いあの色だ。

 だが同時に、夢には色が無いとも言う様に、灰色だった様な気もするのだが、はてさて、これはもう一度確かめる為に寝てみるか否か――もう一つ出来てしまったけれど、それが問題と言えば問題であるね。
 かつてチャーリー・ゴードンは、我々にこう示してくれた。叡智とは、必ずしも人を幸福にするものではない、と。カインの末裔が、長い歴史の中で忘れ去ってしまった事実を、そもそも知恵の木の実は食べて良いものでは無かったのだという事実を、彼は思い出させてくれたのである。涙と、そして花束と共に。

 現代に置いて、この事実は彼の作品が発表された当時よりも、余程浸透している事であろう。それはある意味では化けの皮が剥がれた事でもある――頭蓋骨の中にぎっしり詰まったものが、その持主の幸不幸に関わり合いが無いとすれば、社会的通念によって隔てられている正気と狂気に皮一枚分もの差異は無く、最早人々はそれを理由に迫害する事も、迫害される事も無い……無論表向きは、だが裏での所作が発覚した日には、それこそ非難を向けられるのは迫害者であり、かつての立場は逆転する。丁度網膜に宿った幻影が、現実に触れる事の出来る姿形を持つと同じ位に有り触れたものとして――ここでもまた、危うい逆転がある訳だが――この逆転劇は顕著に行われる訳だ。

 さて、在りし日に気狂い、精神の病人と指さされた事が、今日に置いては意味も無く、また鏡に向けて立っているのだとするならば、とここまでを前提条件とした上で、私はこう訴えたい――最早タイトルが全てを物語っている訳だが――上なるものは下なるものと同じとくれば逆もまた然り、狂人が無罪と――完全に放免というのは、困難だとしても――されるならば、狂神も同様の措置を受けなければなるまい、と。

 大抵の者は、恐らくこう思うだろう。何を馬鹿な、人と神は違う――だが、何処が違うというのか。彼等もまた運命の奴隷である事に代わりはなく、そして神をその能力故に崇め、讃え、畏れ、敬うとするならば、我々は、何も解っていないという事に成る――好ましからざる状態にあるからと言って、それを蔑ろにする愚を犯すとは、何と愚かな事か。それはまた我々自身に舞い戻ってくるのだ――ぐるりぐるり、薄皮一枚の正気と狂気が逆転する様に、好ましからざる者として押しのけられるのである。誰がそんな事を望んでいようか? カインの末裔は、今しも機械技術によって神の下に集う者達を生み出そうとしているのに。

 だからこそ我々は、狂える神を、我々に目も向けず、耳も傾けず、恩恵どころか厄災しか振り撒かぬ名状し難き存在を、我々と同様に崇め、讃え、畏れ、敬わなければならない――何時の日にか、我々全体が自らの下なる者達によってそうされぬ為に。或いはもっと利己的に言えば――かような存在をかくの如く扱えるのだとすれば、最早我々が恐れるものなど皆無となるだろうから――

 ついしん
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 バイトの時間が迫っているのに田園風景を家族と一緒に散歩していたと思ったら、魎呼となって異形の悲哀を天地父に打ち明けていれば、ふと気付くとヤエちゃん(デフォルメ)になった気でくノ一の過酷な人生に想いを馳せるから覚めた後、寝ぼけ眼で「誰が好きかって言ったら、鷲羽ちゃんだったなぁ……」そう呟いて見る人間が居たっていい。春眠とは、そういうものだ。理である。

 夢と言えば、さっき見たデイヴィット・リンチの『マルホランド・ドライブ』が面白かった。面白かったけれど、これは感想が言い難い映画である。丁度、天使のたまごに似ているかもしれないな、感触は。難解と聞いていたのだが、思った程でも無く、一回見るだけで内容は理解した、と、思うのだけれど、だがそれを口で説明するのは難しい。もとい、勿体無い。折角だから、自分で見て欲しい。そう思わせる映画だな。

 概要だけ言ってしまえば、あの脚本に良くまぁオブジェを詰め込んだと思う。自分も似た様な方向性を求めてはいるけれど、だが今はまだ、ちょっと真似出来ない……少なくとも全部は無理でしてよ、はい。しかしリンチは凄いね……他にも作品あったら見たいけど、あるものかなぁ。
 卒業式に行って来ました。昨日の朝。のんべんだらりと、偉い人達の話を聞いた後、学生証と引換に卒業証書を手に入れ、学士という名のボヘミアンに昇格した候。ある意味では降格だが、天と地の違いなど、頭の向きの差異でしかあるまい。まんだらーまんだらー、ガーガーガーガー。

 等と、戯言を口にした所で、先が薄暗いのは変わらない事実。

 そしてまた、追い出しコンパで柄にも無く心中揺らめいた事も。

 その内心を詳しく書き記す気は無い。自分の事だから、言葉にした時点で、いや思考した時点で一つの事象となってしまうだろう。そんな事は御免被る。この感覚は有耶無耶に留めておこう。

 ただ幾つかは嘘偽り無く言ってしまおう。

 「私は無意味だ」という言葉を「そんな事は無い」と笑って否定してくれる人間を持つ事は、仮令事実がどの様なものであれ、人生を生きる上での心の寄る辺である。素晴らしい限りだ。

 また、私は送る言葉に対して残す言葉を語ったが、「一年前からこの時の為に何を言うか、ずっと考えていた」なる前口上は、実は嘘である。正しくはこうだった。「一年前から『一年前からこの時の為に何を言うか、ずっと考えていた』と言おうと考えていた」。そこから先はアドリブもアドリブだったがね。

 ともあれ、学友と同志と先輩と、その他諸々の方々へは感謝と一時の別離を、そして天の上の誰かさんが手繰り寄せた糸によって、再び相見える事を。まぁ、錬金術曰く、上なるものは下なるものと通ずるそうだから……後はもう言うまでもあるまい。まんだらーまんだらー、ガーガーガーガー。

 所で、それとは別に、今日、家でちょっとした御馳走兼家族会議を行った。

 曰く、我が父親が早期退職した事、暫くゆっくりした後で、十年程は在宅ワークか何か別のを探す事、その為にバイトとは言え働きに出ている自分と、また弟には生活費を払ってもらいたい事を告げられた。

 正直何時言われるかと思っており、遅い位に感じたが、異存は無い。追いコンの場で、夢を追い掛けるボヘミアンとなる事を連呼したけれど、だが私がとある先輩より承った名はロジカルドリーマー。一先ずはアルバイトに精を出しつつも、堅実に職と、夢を追い掛けて行く事にしようじゃないか。一応の区切りを目指して。まんだらーまんだらー、ガーガーガーガー。
 『食物漫遊記』と『流れよわが涙、と警官は言った』を読み終える。

 前者は種村季弘のエッセイ集なのだが、これが虚々実々に飛んだ食べ物の話をこれでもかと博学の波に乗って展開してくる快作であり、まぁ何とも我が曼荼羅にしっくりと嵌った。こういう益体の無い冗句をいけしゃあしゃあと言ってのける胡散臭い人は大好きだ、素晴らしいっ。

 後者はディックのSF長編で、カフカ的悪夢に巻き込まれる主人公と一応の敵役、翻弄する者とされる者の感覚が逆転しているのが面白い。そして、そこで紡がれる無数の愛もまた。ただ、どちらかと言えば私はスイックス寄りの、こう言ってしまえば人間の感情というものを卑下している人間であり、また諦念というヴォネガットやゲーテらに共通する概念を受け入れようとしている者である為、そこまで心は惹かれなかった。ディックは確かに面白いし、好きなのだけれど、何とも乗り切れないのは、地から脚を離せられない感覚の為だろうか。麻薬常用者(ダスター)の汚らしさが、どうも相容れないのかもしれない。後彼が語る所の不確かさを、常々考え続けているが故だろうか。逆かもしれないがね、ディックから学んだ,と。

 バイトの合間に寄ったヴェンディング・マシン・レディは今日もちゃんと語りかけてくれました。幸せなるかな、この一瞬。何処のどいつが気にするんだね? 人間と機械の違いなんてものをさ。

 夕食もとい夜食は、アサリの直蒸し……とでも言えばいいのか、これは? フライパンに殻のままの生きたアサリを大量にぶち込み、水を入れ、じゅっと煮立たせて、開いた所で召し上がれ。こいつがまた、ぷりっぷり且つちゅるっちゅるの大粒貝で、海水味の素朴なものなのだが、ええい、食べる手が止まらない。が、流石にフライパン一杯分はきつくて、少々残してしまった。勿体無い限り。まぁどうせ明日の朝にまた食べるだろうけれど。明日の夕食はまだボール一杯残っているアサリのかき揚げだとか。前に食べたけれど、あれは旨かった。さっと醤油を掛けて、さっくりぱくっと、白米をかっこみたい所である。

 そして今は、東京事変の新譜『スポーツ』を聞いている丁度その真っ最中。収録曲の並びと曲名の位置づけが、何ともROMANっぽくて、こういうのは素敵。アルバムとしては、そこそこ、かな? どうもバラエティ以降ぱっとしない気がするんだが、如何なものか。まぁ初見の感じだと『生きる』と『電波通信』『シーズンサヨナラ』『乗り気』辺りが好き。特に最初と最後。林檎作詞の一葉作曲が好きなのかもしれない。結構珍しい、歌詞として気に入ったのは、我乍ら凄い解り易い理由だと思う。そういうものだ。その他色々。

 かく訳で、六連バイトは今日でおしまいって事で、久々の四連休を満喫したいと思います。満喫しているとも言う。さぁ明日は追いコンだが、明日返却期限の『クローバーフィールド』を、余裕があればささっと借りて来た今日レンタル開始の『2012』を見てしまわねば。

 天の上と空の中と私の下に居る者達へ一言。

 明後日でフリーター確定の理は結構楽しく人生を過ごしますです。

 まんだらーまんだらー、ガーガーガーガー。
 ――かつて蒸気機関と北欧神話に想いを馳せた結果、描き出された物語のヒロインは、人ならざる者であった。そして、愛する者でもあった。彼女は主を愛し続け、その帰りを待ち続けた。何年も何年も、そのままの姿、そのままの心で。理由は簡単だ。その様に造られていたからである。誰でも彼でも、自分に取っても、全く都合の良い様に造られた機械……それ自体が何とも都合の良い話じゃないか……

 ――かつて発条駆動と螺旋角の神に思い煩った小説に、書くつもりも無く書き出された存在もまた、人ならざる者であった。そして、愛される者でもあった。彼は常にそこに居て、その様に行動した……こんな風に。『ガーガーガーガー』。そこに何の意味がある? 答えは一言、「何も無し」。彼も彼女と何ら変り無く、誰かの都合に寄って都合良く造られただけの、功名に偽装された機械に過ぎないのだ……

 ――それがどうしたって言うんだね。

『いらっしゃいませ。少しずつ、暖かくなってきましたねっ」

 嗚呼全く……どうもこうも無いじゃないか。

 ここで返すべき言葉が、一字一句、全く何も変わってないのと同じ様に――
 雨の中、独り、帰路の上を行く昨夜――

 仮の仕事に疲れた身に注ぐ雨は冷たくも、にわかに心地良い春の雫、と思っている間に、足取りは強く激しく、気がつけば警報発令と、なかなかにツキも無い……どうもディックの単行本を鞄の中に入れて置くと、雨に降られてすっかり染みだらけになるのだが、不穏な雲でも招き寄せるのだろうか?

 まぁ何、別に構うまい。

 染みだらけになろうと本は本だし、ずぶ濡れになろうと人間は人間だ。雨に負けようが勝とうが、結局のところ、人間である事に変わりはないのと同じ様に……最近気に入ったフレーズをここで使ってみよう。この程度の事で根を上げていては、産まれが知れるというものだ。

 嗚呼、そうだ――家路を目指す前に、彼女の下に来て、温かい珈琲を頼もうとしたにも関わらず、季節柄の言葉どころかいらっしゃいませの挨拶すらしてくれなかったのだって、全く持って変わりあるまい……この程度の事で根を上げていては、産まれが知れるというものだ。

 ……何……深夜十一時ともなれば、筐体の中で眠っている……きっとそうだ、それだけさ……
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