上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2006.12.28 産声
 1990年 12月28日未明 独逸連邦共和国 フランクフルト・アム・マイン 某病院にて
 冷たく静かなコンクリートの廊下に、コツコツと響き渡る靴音。
 仕切りに顎鬚を弄りながら、幾度も幾度も廊下を行き来している一人の男。
 廊下には明かりがついているも、遅い冬の朝日の所為で、やはり灰暗い。
 その灰暗い廊下を男は幾度も幾度も行き来している。
 【Entbindungszimmer】(分娩室)と灯った部屋の前を。
 黒い丸眼鏡を鼻先に乗せた顔に浮かぶのは、何とも言えない苦渋の面。
 丸眼鏡ごしにちらりちらりと扉を見ては、またコツコツと靴音を鳴らして歩む。
 男は思う。
 遅い、と。
 一年前に生まれ、今は友人のベルンシュタイン宅に預けている長女はもっと早かった。
 こんな額に汗滲ませて心配する事等無く、まるでこちらを安心させるかの様に楽に生まれてくれた。
 その娘と同じ、周りから評判の病院で、優秀な女医に頼んだのだから、そちらの方に不都合はあるまい。
 よもや、今度の子…男だと聞いているが…には病気でもあるのだろうか。
 半ば頓珍漢。実際に産む訳では無い父親らしき苦悩。
 しかし、それ故に、男の苦悩は極限に達していた。
 彼はコッコッと廊下を歩く脚を早めた。
 一度は落ち着かせる為に、部屋の前に置かれたベンチに座って見た。
 だが、直ぐにコッコッと所謂貧乏揺すりが起こり出し、結局男は立ち上がった。
 再度の歩みは、前よりも間隔を短く、扉の前を往復する。
 ちらり、と壁に置かれた時計を見れば、今は七時を少々過ぎた頃。
 かれこれ、2時間、3時間、下手をすればもっとこうしている事になる。
 全く、何をやっているのだ。
 妻では無く、今だ生まれて来ない息子に問う。
 これ程までに母を苦しめて。
 これ程までに父を悩ませて。
 これ程までに愛されていると言うのに、何故生まれて来ない。
 まさか。
 死産、では無かろうか。
 脳裏に浮かんだ想像は生々しく、男はぶんぶんと頭を降った。
 大丈夫だ。大丈夫。きっと、大丈夫。多分、大丈夫。恐らく、大丈夫。大丈夫な筈だろう神よっ。
 その時である。
 ちかっ、とフラッシュを焚いた様な閃光が眼に飛び込んだ。
 男は思わず目を細めた。
 光が来た方を薄眼で見る。
 朝日であった。
 独逸の遅い冬の朝日が、ゆっくりと登り始めていたのだ。
 黒一面であった空に、白と言う色が足され、黒から紺、紺から青へと色彩は変わる。
 やがて、白の回りに、赤が灯され、青は紫となった。
 轟々と音を立てて登り行く朝日は、しかし夜の闇を許さない。
 紫は更に容赦無い紅で照らされ、そして世界は輝ける一色に染まった。
 始まりの朝に染まった、無数の家々並ぶ都市の姿。
 それは、言ってしまえばどうと言う事も無い自然現象。
 男がその生涯において何度も見て来たありふれた景色。
 だが、今日と言う日を特別と思うその心が、その風景を神々しきものとした。
「おぉ……。」
 思いもせず、男は足を止め、窓枠に描かれた光景に感嘆の言葉を吐いた。
 何処かで教会の鐘がカンカンと高く、だが厳かに響いている。
 それが鳴り始めるとほぼ同時に、甲高い泣き声が部屋の奥から響き渡った。

「産まれたのかっ!!!!」
 助産婦に呼ばれ、そう叫びながら男は部屋に入った。
 雑多な器具を慎重に、しかし素早く掻き分け、妻が居るベッドの前に。
「あなた……。」
 汗を浮かべ、顔面蒼白の妻は、しかしやり遂げた満足を笑みで浮かべた。
「産めた、んだな。」
「えぇ……。」
「……そうか……よくやったな。」
 男の傍らで、女医がタオルに包まれた赤子を差し出した。
「元気な男の子ですよ。」
 そう言って微笑む彼女の額には、薄らと汗と疲れが浮かんでいた。
 男は、誘われる様にふぅと笑った。
 我が子ながら、他人様にまで迷惑掛けおって。
 一体、どれ程の人間がお前が生まれて来るのを望んだ事か、解っているのかな?
 そう思いながら、震える手で抱き締めた我が子の顔を見る。
 一瞬で解った。
 これは、俺の子だと。
 輪郭から鼻筋、目元まで瓜二つである。
 重さは……3000グラム位だろうか。
 だが、両手に感じるこの重みは、ずっしりとして確かだ。
 思わず抱く手に力が篭る。
「ねぇ……。」
「ん、どうしたい。」
 はぁはぁと軽く息を整えながら妻が問うた。
「……名前……その子の……決めて、ある……?」
 ん、と少し考えた後、男は笑った。
 事前に準備して来た名前はある。
 だがしかし、今となってはその名前のどれもしっくり来るものでは無い。
 登り行く朝と共に生まれて来たこの子。
 美しき暁の頃に、生まれて来た我が子。
 あの素晴らしき瞬間と共にあれ、その様に育てようと言う願いを込めて。
 男は応えた。
「あぁ、ちゃんと決めてある。この子の名前は……









 かくして 彼は 暁と共に 生まれた 

 誕生と出会いは 死亡と別れへの始まり

 されど その時までは 嗚呼 その時までは 

 我等が その歩みを 共に出来る事を願って

                    塩森 光太郎 
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://tasogaremignon.blog79.fc2.com/tb.php/143-8d2b4f05
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。