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 昨日の記事について書かれているBlogを見て回ったのだが、『ゲームゲーム、現実は現実。元々が違うもの』と言う意見が多かった。自分はこの意見はどうだろうかと思うのだ。そこの所を指摘しつつ、別の視点から昨日の話の続きをしよう。
 誤解を招きそうなので一言言っておくが、別にゲーム脳だ何だを指示している訳では無い。あんなものは、責任逃れをしたい者達と肩書きだけは立派な守銭奴の出鱈目だ、と言うのは全く持って周知の通りであろう。

 その上で言いたいのは、ではゲームは全く現実に影響を与えないのかと言う事だ。

 『ゲームゲーム、現実は現実』と相互を離してしまうのはつまりそう言う事である。暴力表現はプレイヤーに何ら影響を与えない。であるならば、如何なる表現であろうとも、何ら影響を与えないと言う事になる。

 ゲームとは、所詮その程度のものなのだろうか。そんな事はあるまい。インベイダーゲーム、テトリス、マリオ等熱狂的にプレイされ、それこそ現実社会に波紋を生んだでは無いか。またDQ欲しさに強盗を働いた者も居る。個人的には『ガンパレードマーチ』と『ワンダと巨像』には大変な影響と感銘を受けた。あのゲームが面白かったっ、感動したっと言うのは誰にでもあるだろう。対人戦からガチバトルに発展して絶好にまで至った話余りにクソゲーで、或いは内容にムカついてゲームソフト及びハードを粉砕した話は、懐かしい笑い話として良く聞くが、これこそ暴力行為では無いか。

 つまりは、ゲームに対する影響は確かにある訳である。この場合は、虚構と言った方がいい。本でも、音楽でも、絵画でも、映画でも、全ては他人と共有出来ない自己の感覚で捉えるもの。それを通して人は様々な感情を育み、何とかして他人と繋がろうとするのである。『虚構は虚構、現実は現実』と乖離してしまうのはおかしいのだ。

 影響を受けるのならば、暴力表現から暴力行為に繋がるのでは無いか、ならばゲームは危険では無いか、と思われる方もいるだろう。その危惧も解る。ゲームを差別するな、と言ったが、ゲームと言うのは他の媒体の全てを兼ね備えていると言う意味で、完璧であり、区別される。本、音楽、絵画、映画等の要素を持ち、しかもそれを自分で操作出来るのだ。それこそ善悪の区別も定かではない状況でやらせたら、能動的且つ暴力的な邪気眼持ちが大量に出現するのでは無かろうか。

 だが、そうはならない。ゲームだけの影響か解らない、と言うのも当然ある。が、それ以上に、媒体を通しての感覚よりも生身で受けた感覚の方が遥かに大きな影響を与えるからだ。赤ちゃんの頃良く触られたり抱かれた子は優しい子になる、と言う風に。

 そして決定的なのは、ゲームのみが持つ『自分で操作出来る』と言う要素だ。操作するにはルールが必要だ。どれだけやれる事を増やし、自由度と呼ばれる要素を上げ、現実に近づけたとしても、機械(媒体)を通して操作すると言うルール(それすら無いのならば、それは最早ゲームでは無い。現実と言うのだ)からは離れられない。出来ないのだ。現実であれば、それは無い。何でも出来る。ただ、結果が自らに返って来るだけだ。だからそれが虚構である事が一層感じられ、現実に惹かれる。小学校位に恐ろしい程ゲームに熱中した子が、大人になってすっかり冷めてしまっていると言うのは、そう言う事だからだと思う。

 ゲームとは、虚構とは、現実の中にあり、一つの媒体に過ぎない。それは確かに人に影響を与えるものである。が、しかし、生身の影響と比べれば、悲しいかな、嬉しいかな、その影響は微々たるものなのである。

 その上で、何故人はゲームをするのかと言う命題が残る。影響は無い無い、と言っても、今現に日がな一日ゲームをし続ける子を見れば、大丈夫かと心配するのが親だ。(色々な意味で廃れた子を持ち、自分の所為では無いと頑なに信じる親では無い。)

 端的に言えばそれは、自己実現願望投影である。

 ここで『自分で操作出来る』と言う事と、他の媒体よりもより一層虚構である事を痛感させられる事実が生きてくる。現実では無いのだから、自分に被害は無く、他人(ゲームの登場人物は、現実の存在では無い)にも被害は無く、本来ありえない事もそこには存在する。人はマリオの様に早く走れず、リンクの様に強くは無い。現実では魔物と立ち会えば恐らく瞬殺される様な一市民でも勇者の如く振る舞い、讃えられたい。ムカつくあん畜生をショットガンで、日本刀でこれでもかと言う位原形を留めない肉塊にしてやりたい。しかし出来ない。やれない。だがゲームキャラを操作する事が出来る。出来ない事を、やれない事を、ゲームを通して、ゲームキャラを通して実現する。そしてそれは、少なくとも同じゲームをプレイした者達と感情を共有する事が出来る。彼等と共に歓び、哀しみ、怒り、涙を流す楽しみ。ルールと言う制約はスポーツと一緒だ。素晴らしいプレイをした者へは相応の賞賛が贈られるのである。現実の様に。

 長々と書いたが、そろそろまとめよう。ゲームは確かに人に影響を与える。しかし、それは生身で受ける影響と比べれば殆ど無く、他のものの影響の方が強い。(だから無い様に見えるが)そしてゲームをプレイするのは、自己実現と願望投影。現実で出来ない代価行為を行う為だ。

 だから、逆なのだな。暴力的ゲームの影響、と言うが、寧ろそう言う願望を抱いているからその手のゲームをやるのである。だから、親は変にあれこれ言ってゲームを行う事に制約を設けない方がいい。現実でどうにもならない事をそこで発散しているのだから。中には、余りに強い自我と願望が故、ゲームに収まりきらず、現実にそれを向けてしまう者も居るが、それは非常に稀である。そこまでさせないのが親であり、またそう育てるのも親であろう。前回の記事で『妥当』と言ったのはこの部分で、しっかりと相互理解を行うのは重要だと思うのである。

 まぁぶっちゃけそんな心配する必要もあるまい。どうせ数年も立てば冷めるものだ。自分の様に。
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