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2007.01.02 Ghost in the Shell
 先の記事関連のBlogを見ていた所、ネット参拝の是非が問われていた。
 ネット上のHPにて参拝する、と言う行為に神社本庁が否と言ってきたそうな。理由は、『ネット上に神霊は存在しない』他色々であるが、これが一番大きい様である。

 まるで500年前の独逸、マルティン・ルターから始まった宗教改革とその後の新教、旧教に各国家の利権が絡みまくった三十年戦争を思い起こさせる内容である。日本でこの様な話題が上るとは、意外と言えば意外である。

 さて、個人的意見を言うが、ネット参拝自体には全く持って問題はあるまい。

 リンク先の記事でも言っているが、日本には八百万の神々が居る。これは比喩で、実際には全ての存在に神が宿ると言う多神教こそが、日本と日本人の本質であろう。つまりは、ネットにすら神は居るのである。妥当なのは、オモイカネ辺りか。オモイカネデヴァイス。えーりん。
 
 そしてもう一つは、果たして神社に神は居るのか、と言う問題だ。いや、それは居るだろう。ならばネット上の神社においてもまた同様では無いのか。しかし後者は違うと言う。その違いは何か。

 その違いは、言ってしまえば物質か否か、である。しかし、物質か否かで神が居るか居ないかの是非を問うのは違うだろう。神は概念にすら宿るものであるのだから。

 逆に言えば、物質が無ければそこに神は居ない、とする人々に、信仰心はあると言えるのだろうか。煌びやかな、とは言わなくとも、荘厳な雰囲気を醸し出す境内においてでしか、宗教的心情を抱けないと言うのなら、それは真の信仰心では無い。

 同時に、日本人であればふとした瞬間に神々の存在を感じた事がある筈だ。神々、等と示されたものでは無くても、何か言い知れぬ存在の気配を、言葉に出来ない感覚を得た事がある筈だ。自分なんかは黄昏時に道を歩いている最中に空を見ながらその様な風に思う時がある。神社で無くとも、神はまた居るのである。

 結論を述べれば言ってしまえば、本人の心持ちなのであろうな。確かに形式と言うのは大事であるが、しかし本人に神々を憂う信仰心があると言うのであれば、違った形式もまた認めてあげるべきでは無かろうか。

 その意味では、病院や施設から出られぬ人々、海外に住む人々でも参拝する事が可能であるネット神社はどんどんやるべきだし、上が何と言おうと続けるべきだ。宗教改革は免罪符等と言う紙切れと、それに支払われる金によって人は救われる等と言う迷信じみた上の行為に反旗を翻して行われたものであるし、そもそもキリスト教からしてユダヤ教への反抗から生まれたものなのである。世界宗教でそうなのだから、何ら問題はあるまい。

 まぁ心の持ち様だとすると、全く信仰心が無くただご利益の為(大半の日本人はそうだろう)に面倒だからネットで参拝する、と言うのは頂けない。しかしながら、リンク先のコメントで見たが、『四萬六千日』なる制度がある。その日にお参りすれば文字通りに46000日参った事になると言う。つまり、そう言った少々手抜き的なものは昔からあった訳で、これも含めて、ネット参拝は全く問題無いと思う次第。

 とは言え、自分は神社に詣でるつもりである。残念ながら、実際にやってみてどうもいまいち感じが出なかった。いや、一応は相応の信仰心を持っていなくも無いのだが(言うのもどうかと思うが)そこまで強い宗教心等持ち合わせていないのである。

 俗な言い方をすれば、ありがたみが感じられなかった。この言い方は凄いご利益のみが目当ての浅ましい考え方なのだが、しかし宗教とはご利益を得る為のものでもあるのだからな。

 上の宗教心はまたこうとも言い換えられる。即ち何処でも何時でも神々の存在を感じられるかと言う事である。だが悲しいかな、その辺り自分は真に日本人なのであり、まだまだ物質に囚われた俗物に過ぎない様だ。まあ義体化が進めば、また解らないだろうがな。
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