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 何時だったかおぼろげだが、糞餓鬼時分、つまり小学校高学年の頃、自分は国語の授業の折、好きなテーマで何か書け、と言われたので、皆の度肝を抜いてやろうと、人間の死について書いた。
 参照元:完全自殺マニュアルで。

 既にその文章は紛失している為曖昧模糊な記憶に頼るが、生命としての尊厳だ何だ等と言う高尚なものでは欠片も無く、人間死ぬなら楽に死にたいものだが、死に様など選べない。選ぶなら自殺しか無いが、ではどの様な死に方だと苦しいのか、どの様な死に方なら誰にも迷惑掛けずに楽に死ぬ事が出来るのかと言う内容であった。実に痛々しい。読む先生も辛かった事だろう。因みにオチは『だが俺は衰弱死(安楽死)がいい』と言うそれまで書いてきた内容を悉くひっくり返すものであった。

 何故行き成りこの様な話をするかと言えば、先のK国大学生による銃乱射事件やこの事件を見たからだ。

 前者はK国大学生による人為的なものであり、後者は半ば天為的、しかしここまで被害が大きくなったのは明らかに人為的である。どちらも被害者の数は32人であるのが奇妙な一致だ。

 さて、自分はこれをして、K国人死ね氏ねじゃなく死ねとか、当局に責任がある追求せよ等とは言わない。お国柄を考えればどうしようも無い事であり、精神異常者の奇行等防ごうと思って防げるものではあるまい。厨国における命の安さについても同様だ。また、これをして特定亜細亜の賎しさが露呈されたな等と喜ぶ様な人間でも無い。銃社会云々等論外。まぁ、聖人君主では無いので、その様な卑俗な感情も少々思ってしまった事も、ここに書いておく。

 ただ、それ以上に自分は死について考える。

 ある日いつも通りに大学へ向かったら、ファビョったガイキチに撃ち殺される。或いはある日いつも通りに仕事に向かったら1500℃の鉄を浴びて死ぬ。どちらも嫌な死に方だ。それも、当人達では半ばどうしようも無いのだからたちが悪い。人間誰しもそんな死に方等したくないだろう。ドMで無ければ、だが。出来るなら、楽に死にたかっただろう(後者は苦痛を感じる暇等無かっただろうが。在ったらとしたら…いや言うまい。)

 ただ、年を取り、時間も金も出来、色々と楽しみが増えた今ならばこう思う。『だが俺は衰弱死(安楽死)がいい』では無く『出来たら何時までも生きたい』と。こんな事は当たり前と言えば当たり前であり、また『何時までも』生きられないから楽に死にたい、と言う話になる(今思い出したが、先の作文もそう言う出だしだった)訳で、言っても仕方が無い事ではあるのだが、それでもそう言いたい。

 であるからして、上の二つの事件事故で死んでいった者達も楽に死にたかったでは無く、もっと生きたかっただろうな、と思う訳であり、そしてだからこそ、その冥福を深く祈りたくなった次第。それが今生きている人間の愚かな同情、憐憫であったとしても。
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