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 醒歴1889年 六月 土壱(ドイツ) ドレスデン郊外
「ここであってる、のだよな?」
「えぇ、ここであってるわ。」
 地晒しのまま、自然の歩み以外にろくに舗装されていない田舎道に、目に見える程大粒な雨の雫が容赦なく叩き込まれる。半ば泥と化してぬかるんだ道の、その至る所に池程の水溜りが出来ている。まともに歩く事も困難なその様相は、見る者に最早道と呼ぶ事すら躊躇させるだろう。
「はぁ……しかし何もこんな日に呼ばなくとも。」
「小説読まない?こんな日だからよ。」
 その道…躊躇させるだろうと書いた直ぐ後に何だが、他に書きようも無いのでそう呼ばせてもらう…は平原の中を突き抜け、小麦畑の農園が見渡せる小高い丘を越えて、黒い毛玉の様に見える林の横を通り、そして一軒の洋館に続いていた。
 煉瓦造りのそれなりに新しい館である。比較対象が周りに無いので実感は湧かないが館としては大きい部類に入るのでは無いだろうか。ただ新しい、と言っても、既に建てられて何十年かは経過していそうで、所どころ苔や茨がへばりついている。尤も土壱もとい皇路覇(ヨーロッパ)においてそれ位の年月を経た建物等珍しくも無い。
「それはそうだがね。やれやれ、あちらももうちょっとこちらの都合と言うものを考えて欲しいな。」
「ぼやかない、ぼやかない。」
 その館の前に並んで、二人の男女が立っていた。豪雨の中二人は、余り上等そうでは無い揃いの外套を身に纏い、館の前で佇んでいる。すっぽりと外套を着こんでいる為に、その顔は判別出来なかった。
 ほら行くわよ、と女が言いながら、館に向けて一歩踏み出す。男も、やれやれと肩を竦め、呟きながら、ゆっくりと歩き出した。
 進みながら男は、外套の中から懐中時計を取り出す。時刻は午後一時。指定された時間ぴったりである。
 男は満足げに頷くと、ぴしゃりと懐中時計の蓋を閉めながら、館と先に行く女の方を見た。
 開幕を告げるベルが聞こえた気がした。
 さぁ、役者は舞台に上がらなければ。
 
「ところで私、最近シャーロック・ホームズ氏の活躍が楽しみでならないのですよ。ほら助手のワトソン先生の手記を元に、コナン・ドイル氏がお書きになっている作品ですわ。中でも『バスカヴィル家の犬』が好きでしてね、いえ『四つの署名』だって好きですけど、私的にはアレが一番で。ねぇクラウス、あなたはお読みになりまして?あの作品。」
 そう言いながら多少皺の寄り始めた肉突きの良い体を持つ中年婦人ゲルト・フォン・ベルンシュタイン夫人は、まだ十代も後半に漸くなったばかりかと言うメイド・コスタが差し出した麦や大豆の代用品では無い珈琲が黒く並々と注がれたカップを片手に、にこやかに微笑んだ。天然なのか意地が悪いのか、恐らく前者であろうが、真にその神経を疑いたくなる。一昨日の夜から続く豪雨によって館に閉じ込められ、暇を持て余しているとは言え、昼食…風蘭守(フランス)帰りのコック・ハンスが作った鯰料理とジャガイモを丸めたものを入れたスープは実に美味かった…から小一時間も経って無い食後のお茶にする様な話題ではあるまい。『バスカヴィル家の犬』は血生臭い謎に満ちた詠霧趣(イギリス)富豪の一族の事件である。
「『魔犬』ですか……一応は読みましたが……あぁ、叔父さんはどうです?」
 夫人の丁度反対側の椅子に座るクラウス・フォン・ベルンシュタインは何とも言えぬ様子でその二枚目な顔に苦笑いを浮かべた。
 ゲルト夫人の神経を何故疑いたいかと言えば、クラウスに話を振った事もまた大きい。あの事件において殺されるのはバスカヴィル家の当主である。そしてクラウスは、少々頼りないながらもベルンシュタイン家の若き当主なのだ。
 そしてその殺され方も、阿附利架(アフリカ)大陸で発見された巨大な黒い犬…しばしば、十八醒紀風蘭守にて多数の被害者を出した『ジェヴォーダンの獣』と同種では無いかと言われる事があるが、真相は定かでは無い…による惨殺だったのである。
 それでも彼はベルンシュタイン家特有の琥珀色した瞳を左右に躍らせながら、何とか上手い返答が無いものかと考えだ。だが思い付かなかったらしく、叔父、つまりマリア・フォン・ベルンシュタインの夫であるゲルト・フォン・ベルンシュタインに話題を振った。
 ゲルトは右頬全体に機械を取り付けた、厳しい顔を持つ如何にも軍人然とした初老の男だ。彼の体もその妻同様、老いによる劣化が主に腹を中心に差し迫っていたが、それでも若かりし頃の遺産として、がっちりとした肩や胸は依然健在だった。
 因みに人体の機械化、代用四肢の取り付けに対する技術は十五、十六醒紀には既に存在したが、それは余り実用的とは言い難かった。転機は1870年から1871年に掛けて起こった風土戦争にある。
 この戦争の中で行われた『鉄血計画』と称される国家主導の義体開発計画は、研究者の学識及び職人達の技術力を一気に上昇させた。更に土壱帝政化に置けるビスマルク式の社会保障の一環として義体敢行が行われた事で、義体は、七十年代から八十年代にかけて、土壱においてはかなり一般に浸透した。勿論宗教的生理的、その他金銭的理由で何処かを欠損していても義体化しない者も沢山居たが。
 彼は当主としては頼りない甥の問い掛けに、顎を抱えて右頬を指で打ちながら、牛の如き力強い呻き声を出して応えた。
「うむっ。あの事件についてはワシも知っているぞ。マリアに推されて物語も読んだ。なかなかに興味深い話だったが、如何せんワシが命を掛けて体験した殿馬(デンマーク)翁巣禽(オーストリア)風蘭守との戦争に比べれば現実味が無い。真に人の感情に訴えかけるのは闘争において他ならない。そもそもワシがそれを体験したのは、丁度お前と同じ頃でな。その頃はこの顔にも機械をつけてはおらなんだのだが――」
 ゲルトの武勇伝が始まって、クラウスは浮かび上がろうとする安堵の笑みを必死に抑えた。彼の話は一度始まるとなかなか終わらない事で有名であり、普段は苦痛であるそれも話題を逸らすには打って付けだった。
 とは言え、余りに長いのも考え物だ、と思われた所に、上手い具合に静止が入った。クラウスの若き妻、エーリカ・フォン・ベルンシュタインが、夫の隣に座っていた所をしゅるりと抜け出し、ゲルトの腕に抱き付いた。彼の顔がすっと緩み、それを見たマリアの顔が逆に鋭くなる。
「まぁ叔父様。勇ましい戦争の話も宜しいですが、でもそれは何度も聞いておりますわ。もっと他に、面白い話はありません事?ほら、アルフレートも退屈そうですわよ。」
 彼女をして、胸部に掛けての発育が大変宜しい体躯に南方的な余りに明る過ぎる性格、流れる黒髪を一本の縄の様に纏めた姿がまるでジプシー女だな、と常々思っていたクラウスの兄、アルフレート・フォン・ベルンシュタインはその当人から予想外にしなかった話題を降られ、一瞬言葉を詰まらせた。だが機転の利く兄は直ぐに穏やかな笑みを作って、
「いや、ゲルト叔父さんの話は何時聞いても、何度聞いても面白いものですよ。僕は一度も戦争に参加した事はありませんが、やはり男子たる者、戦う事に興奮を覚えるらしい。叔父さんの勇敢な戦いぶりを聞く度何時も心震える思いで、もし機会があれば叔父さんと共に是非戦いたいものだと常々考えております。まぁ、彼の鉄血宰相ビスマルクが首相をしている内は、その機会もほぼ無いと言って良いと思いますけどね。」
「それは勇ましい事。私のクラウスにも見習って欲しいですわ。ねぇ貴方?」
 アルフレートの言葉にそう応えて、エーリカはゲルトの腕から離れた。クラウスの隣に戻って来ると、叔父にした事を今度は夫に、全く同じ風に行う。
 押し当てられた柔らかい感触にクラウスは色の白い顔に朱を点しつつ、それをエーリカから逸らした。その様子にマリアが微笑み、ゲルトは土壱男子がその様な体たらくで、と自分を棚に上げて苦言を漏らす。
 アルフレートもまた弟の態度に声を上げて笑った。
 しかしその心の中で、彼は唾を吐き掛けていた。
 全く持って忌々しい、と言うのが彼の嘘偽りの無い感想であった。十九醒紀も終わりを告げようとしているのに一時代前の貴族感覚から未だに抜け出せないでいる…勿論その身分からすれば間違ってはいなかったが…世間知らずの叔母。気色の悪い機械を顔面に貼り付け、戦場こそは地上最大の愉悦に他ならないと吠え立てる野蛮な叔父。外見的な美しさ以外に何の取り柄も持たない頭の悪い雌猫。誰もがアルフレートを苛立たせた。だが、誰よりも彼を不愉快にさせたのは、弟のクラウスであった。
 そもそも本来であれば自らが父ロタールを受け継ぎ、今頃はベルンシュタイン家当主として、近代の世にあって大変稀少となったユンカー…東方的中世的土地貴族だが、土壱の近代化に伴う封建制度の崩壊によって、その多くは没落していった…として地位と領地を得ている筈だったのである。
 だが、彼がさる風蘭守人女性に恋をし、一年程の付き合いの果てに結婚を申し出た事で全ては変わった。堅苦しく古めかしい貴族の典型であるロタールには、それは許されざる行為だった。それ以前の問題として既に長男の嫁は決めてあったのである。
 父は我が子から腹立たしい風蘭守女を離すべく、金に糸目をつけずに様々な工作を行った。夫を多少なりとも諌める役を持っていた母親クララがいればそんな馬鹿げた事を止められたかもしれないが、残念な事に彼女は何年も前に他界していた。そして不運にも見事にロタールの工作は成功を収め、アルフレートと未来の妻になる筈だった女性は永遠に別れる羽目となった。   
 だが、ロタールは余りに広く、大きく、また多く手を打ち過ぎた。この別離に父が絡んでいる事は直ぐにアルフレートの耳に入り、彼の怒りは溶鉱炉の如く、燃え滾った。彼はロタールに憤然と食って掛かった。親子は壮絶な問答を繰り広げ、そして彼等の間には永遠に修復不能な溝が深々と刻まれた。
 結果としてアルフレート・フォン・ベルンシュタインはロタール・フォン・ベルンシュタインより勘当され、ただのアルフレートになってしまった。
 その彼がこの後どの様な生活を過ごしたかは、あえて書くまでもあるまい。貴族の長男が、その後ろ盾を全て失って、どう言う末路を辿ったか等少々想像力のある人間であれば容易に考え付く事だからだ。
 だがアルフレートの放浪は一年程度で終わる事となる。ロタールが急死したのだ。感情の激しい彼は、ちょっとした事でも直ぐに激怒する。コスタがお茶をその服に零したと言うただそれだけで怒り狂った彼は、鞭を持って彼女を叩き付け様とした。その瞬間、彼は小さな少女の頬では無く逆に自らの心臓へ強い衝撃を受け、そのまま帰らぬ人となったのである。長男と和解する事無く。
 遠方よりその知らせを受けたアルフレートは直ぐにベルンシュタイン家に帰還した。そこで彼は自らの代わりに当主となったクラウスと彼の妻エーリカ…初めて逢った瞬間から、彼女に対する評価は決まった…に出会い、弟の計らいによってベルンシュタイン家に舞い戻った。更に伝を頼りに、ドレスデン市の役人と言う、比較的安定した職を手に入れたのである。
 だがアルフレートは、恐らく誰かにそう言われても否定するだろうけれど、根本的に彼が忌み嫌った父親と同じ貴族的思考を持った人間である。出来の悪いと考えていた弟が当主となり、その手に掛かって放免される等屈辱以外の何物でもなかった。それ以上に父亡き後何処の馬の骨とも知れぬ女と結婚していた事が、彼にとって非常に許し難い事であった。
 こうしてアルフレートは表面上平静を装い、当主たる弟ともその妻たる義妹とも穏便に過ごしてきたのだが、心の中では憎悪の種子を芽吹かせていた。
 そしてここに至り、ついに種子は花を咲かせようと発起したのである。即ち、アルフレートはその実の弟を、彼の妻もろとも、ついでに自らの窮地に際して何もしなかった…だけでなく、自分と恋人の別離に協力すらしたと言う叔父夫妻を殺す事にしたのである。
 既にその準備は出来ていた。自らに疑いが掛からぬ様あくまで事故に見せかける為に、馬車に細工…車軸を腐った木に変えたのだ…を仕込んだのである。まずは明日…雨が止めば、の話だが…帰宅する予定の叔父夫婦が、そして次に弟夫婦がその罠に掛かって死ぬだろう。まずばれない様な細工だ。更に彼は、あのコックのハンスが人妻の女中と不貞を働いている秘密を知っている。彼等が死んだ後に秘密を種に暇を出せば、警察の眼はそちらに向くだろう。そして自分はベルンシュタイン家の当主となるのだ。
 その様な事とは露知らず、くだらない談笑を続ける彼等を、アルフレートは内心侮蔑と嫌悪を込めて眺めていたが、逆にまたその愚かさに感謝もした。嘲笑の感情が不意の微笑として表に出ない様必死に何時もの自分を保つ。後もう少しで何もかもに蹴りが付くのだ。焦ってはいけない。
 今や彼の心に巣食った魔犬は、バスカヴィル家のそれよりも強大且つ凶暴で、研ぎ澄まされた己の牙を口の中にひた隠し、哀れな得物が罠に掛かるのをじっくりと待ち構えていたのである。
「旦那様、ちょっと宜しいでしょうか。」
 と、そこに給仕ベンノが現れた。独特のしゃがれ声に当惑した様子が篭り、皆の会話を途切れさせる。一同が彼の方を向いた。アルフレートも冷ややかに彼を見つめる。この男は、自分が勘当されたあの事件の時も居たくせに、何もしなかったのである。尤も、一介の給仕に激動した主人達をなだめ、止める事が出来たのかと考えると、それは大変微妙な訳だが。
「何だいベンノ。何か用事でも?」
 会話を中断され、少し苛立った視線を向けながらそう言うクラウスに、ベンノははぁと軽い溜息の様な吐息を漏らしながら、おずおずと用件を言った。
 男女二人連れの旅人が宿を求めて見られている、と。


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