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「何故、この様な時に……。」
 アルフレートの苦々しい呟きが、この館において彼の為に宛がわれた部屋に響く。
 太陽は見えなかったが既に日は暮れている時刻である。今頃一同は、宿泊する事となった客人二人を交えて、昼間の続きとばかりに楽しい夕食を過ごしているに違いない。真面目ぶった顔をしながら平然と間抜けな事をしでかすゲオルクは、熱いスープを飲んで舌でも火傷し、さぞや良い笑いの種を振り撒いている筈だ。
 だがアルフレートは調子が悪いと言って行かなかった。行ける筈も無かった。彼の脳裏には、ゲオルクとアナベル、あの探偵と助手と名乗った者達の事で一杯だったのである。
 彼等がいる今、計画を遂行するのは大変危険な事だ。だが今で無ければならないのだ。記録的な豪雨…今頃はエルベ川も氾濫している事だろう…が続き、どの様な証拠でも洗い流してくれる、今で無ければ。
 勿論、あんな者達が居ようと居まいと、計画自体は成功する自信があった。準備は念入りに整えてあるのだから。だが、その後が問題だ。立ち寄った先で相次いで四人も死ねば、それが事故であっても、あの探偵は怪しむのでは無いか。いや、この場合逆に事故だからと言う理由で怪しむかもしれない。
 疑心はアルフレートの心に暗鬼を見出させ、昼間に助手の小娘が語った貴族の話を思い出させる。彼は用意周到であったにも関わらず、思わぬ失敗を犯していた。同じ事が今回も起こらないとは限らない。そう言えば、あの貴族の名前は何と言っただろう。確か、聞かされていない。だが、もしや彼は、アルフレートと言う名前では無いだろうか。
「どうする…どうする…どうするべきだ…。」
 蝋燭によって映し出された影が左右に躍る。呟きながら部屋を歩き回ってみても、アルフレートに良い考えは何も浮かばなかった。
 最早全てを諦め、次の嵐が来るのを待つしかないかとも考えたが、こうと決めたらテコでも動かない真に土壱人らしい気質がそれを制した。尤も彼は、一度それによって痛い目を見ているのだが。
 耳に入って来る音が煩わしかった。
 雨の雫が窓を叩き付ける音。大きな振り子時計が時を刻む音。自ら発する靴音すら気に障る。高鳴る心音を止める為に、この右胸にナイフを突き刺したい衝動に襲われたが、何とか思いとどまった。遠くから一丸と成って聞こえてくる笑い声、部屋の前を歩いて行く靴音にその心臓は更に早まり、衝動は抑え難くなる。
 全てが自分を急き、狙っているかの様だった。
 アルフレートはますます早く部屋を行き来した。足音は倍速で速まり、吐息は荒くなってゆく。じんわりと浮き上がる脂汗が、湿った空気の中シャツに染み込んで気持ち悪い。蜘蛛の巣に掛かった哀れな羽虫の脚の様に、カタカタと指が蠢き、ざわめいている。
 必死に抑える為に、親指を口に持って来て噛んだ。咥えた位では止まらせる事は出来ない。彼は前歯に力を込めた。ガリっと柔らかい肉に歯が食い込んで、そのまま抉り取られる。ダラリと真っ赤な血が溢れ出し、ぽたぽたと床に垂れて行く。舌を出して、ねっとりとそれを舐め取ると、口中に鉄と塩を一緒くたにした様な味が広がった。反応して唾が溢れ、アルフレートはごくりとそれを飲み込む。別に美味くも無いと言うのに、体は実に正直であった。
 それでも血はまだ止まらず、彼はぺろりぺろりと己の血を舐めて行く。それはお茶会の時に出された軽いパンを抜かせば、昼食以来始めて口にしたものだった。
 やがてその舌の動きは加速して行く。彼はエイブラハム・ヴァン・ヘルシングと戦った史上最高の吸血鬼ヴラド・ツェペシュ公に咬まれた事も無ければ、今は詠霧趣に居を構える風蘭守生まれの麗しき吸血姫ジュヌヴィエーヴ・サンドリン・ド・リール・デュドネと甘美なる闇の接吻を交わした事も無い。勿論他…学術上の同類、その存在のあり方から総合して保因者と称される様な者達…とも無縁だ。だが痛みの緩和と治癒、殺菌効果を主に精神的方向から高める為に、つまりはあくまで傷から己の気を逸らす為に行い始めたその行為は、やがて彼の中で奇妙にも一つの方向性を見せ始めた。
 予測し得なかった事態に動揺する心は、血を舐める等と言う背徳的行為に熱中する事で落ち着きを取り戻し始めたのだ。奇妙な行為に耽る事で冷静さが戻る、と言うのは何とも皮肉な話ではあったが。
 こうして彼は、ひとしきり己の血を舐め続けたが、ふと何かに気付いた様にその舌を止めた。親指を口から離し、ねっとりと唇に付いた血を舐め取る。
 彼は雨水が幕となって垂れて行く窓に映った己の姿を見た。狂人と言っても差し支えない顔をしている。その姿を見ながら、彼の脳裏に、ある一つの案が思い浮かんだ。それが浮かんだ瞬間、彼は思わず呟いた。
「……ああ、何だ。簡単な事じゃないか。」
 アルフレートの中に住む魔犬が、何処か遠くにいる獲物の濃厚な血の匂いを嗅ぎ取った。今まで霧で何も見えなかったのが、その匂いに至った事で急に晴れ渡った、或いはどの様な道を辿れば獲物の元に行けるか解った。そんな清々しい気分が彼を包み込む。
 アルフレートの辿り付いた結論はある意味では至極当然のものだった。彼のやろうとしている事は要するに邪魔者の排除だ。邪魔であれば排除すればいい。
 ならば、

「彼等を先に殺してしまえばいいじゃないか。」

 その結論に至ってからのアルフレートは、実に冷静且つ慎重だった。ろくに練習した事も無い素人が弾き散らすヴァイオリンの様に猛り狂っていた彼の頭は、自分ですら驚く程に冴え渡り、熟年者が譜面に合わせながら自らの音色も織り交ぜて奏でる程の余裕すら感じていた。
 順序はこうだ。
 まず、皆が寝静まる深夜まで待つ。今日は思わぬ来客に皆はしゃいで疲れている事だろうから直ぐに寝てしまうだろう。元より土壱人の眠りは早い。使用人達については言わずもがなだ。
 そうした後で、自らこの手で彼等を殺しに行く。騒がれては不味い為、眠っている間にゲオルクの首を絞める。危険なのはこの探偵野郎だ。先に済まして置くに越した事は無い。アナベルが気付いて目覚めても、体力的に強いのはこちらの方だ。勝つのは明白である。こいつは後回しでも良い。
 それから、彼等の死体を捨てに行く。この雨が痕跡を勝手に洗い流してくれるだろう。自ら動く事を止めた体は重いと言う話だが、その場合はハンスに手伝わせるまでだ。『この探偵達は余興の戯れに君の罪を暴こうとしたのだよ』とでも言っておけば、小心者な男だ、簡単に従うに違いない。
 後は全てが終わった朝、皆に向けて、彼等は急ぎの用で早くに旅立ったと言おう。馬車を一台宛がったと言う事で、従者にドレスデンの間を往復させる必要があるが、これは金を使えばどうとでも対処出来る。
 そして全ては元に戻り、皆は死んで、己はベルンシュタイン家現当主と言う地位を得て生きるのである。一人広大な農園の向こうで、沈み行く夕陽を眺める自分の姿を夢想し、彼の股座は冷え切った脳髄の代わりにいきり立った。
 そしてアルフレートは行動に出た。皆が寝静まった頃、時刻としてはとうに明日になっている時に、彼はそっと部屋から抜け出した。
 両手には白い手袋が付けられ、また手頃な長さの縄が握られている。縄は勿論ゲオルクとアナベルの首を絞める為に、手袋はその時己の手を傷付けない為であり、また先程付けた親指の傷を悪化させない為のものだ。包帯で手当てはしてあり、何かを握り引っ張る分には大丈夫だと思うが念には念を入れて、である。
 尚この時代、指紋が殆どの人間において固有なものである事は判明されていた。だが、その存在が物的証拠として挙げられる様になるのは、まだ先の話である。
 アルフレートはぎゅっと縄を握り締めながら、コッ、コッと廊下を進んで行く。硬い床は、どれだけ慎重に歩いても音を立ててしまう。皆既に夢の中であり、当分は起きないだろうと想うが、その事実が彼を圧迫してきた。出来るならば早々に歩み去りたい、いや走り行きたかったのだが、その様な事をしては更に足音を増させるだけである。ここは自重が必要だった。
 実際は十分かそこらだろうが、心理的にはその二倍から三倍程の時間を掛けて廊下を渡り終えると、アルフレートは事前にベンノから聞いていた、ゲオルクとアナベルに宛がわれた寝室の前にやってきた。ここはベルンシュタイン家の館の中でも離れに位置している。声を出させない方法で殺すとは言え、物音や呻き声は出てしまうだろう事を考えれば、これは好都合だった。
 アルフレートは、ゆっくりと息を吸うと、同じ位時間を掛けて吐き出した。緊張や興奮と言った、これからする行為に置いて一切が無駄であるものを、抜け出して行く。すると、何だか体が軽くなった様な気がした。それは文字通り気の所為であるのだが、気分だけでも随分違うものだ。今ならば、鷲の様に自由に空を跳べるだろう。無事に着地出来るかどうかは別として。
 ドアノブを握った。なるべく音を立てない様慎重に回しながら、アルフレートは扉を引いた。中は暗く、闇に満ちている。だがここまで来るのも蝋燭無しで来た為に、瞳は黒いカーテンの先を見据える事が出来た。
 簡素な作りの部屋だ。綺麗に整えられているとは言え、家具は少なく、装飾も無い。アルフレートからして見れば、貧乏たらしかった事だろう。
 その中にベッドが二つ見えた。どちらも白いシーツが被さっていて、それがこんもりと盛り上がっている。探偵と助手と言う間柄とは言え、男女は男女。それぞれ別室に泊まるかと思ったが、どうやら性差は関係無いらしい。或いは、そう言った事が許される仲であるのか。そうは見えなかったが、しかし二人一緒であるのも都合が良い。
 誰にも見つからず騒がれてもばれ難い場所で、しかも殺すべき相手が二人とも並んでいると言う幸運。アルフレートはそれが、自らの行為を正義として認める神の思し召しでは無いかと感じた。勿論そんな事は無いのだが、既に彼と彼の中に住む魔犬は同化して、恐るべき悪を自己中心的に正当化しているのである。
 アルフレートは靴音を立てぬ様、踵から先に床に付ける歩き方で、部屋の中へと入って行く。ぐっと縄を両手で握り締め、首を掛けやすい様に円形を形作った。顔もシーツですっぽり隠されている為、どちらがゲオルクか解らなかったが、彼の体は長い。一歩一歩近付くにつれて、その全体が見て取れ、アルフレートは、彼が自分から見て右側のベッドに寝ている事を察した。
 更に近付いて行くアルフレート。ゲオルクもアナベルも、どちらも起きる気配は無い。何とも無防備な事だ。自分が何も知らないお前達を警戒した様に、お前達も何も知らない自分を警戒すべきだったな、と嘲笑しながら、彼はついに不運なる探偵の隣にやって来た。
 心臓が、何時までも騒ぎ続ける聴衆を止める為に判事が叩き込む木槌の様に、重々しく高鳴った。そんな事は無いだろうが、余りの高鳴りにこの音で起きられるのでは無いかと心配になった。先程と同じ様に、肺から空気を締め出す。完璧にとは言えないが、心音は弱まり、そしてアルフレートは真に自分が行うべき事に対する集中力を得た。魔犬が牙を出す。もう、何者であろうと、彼を止める事は適わないだろう。
 シーツにそっと手を掛ける。女性へ夜這いを掛ける時の様な背徳的感慨が背筋を駆け巡り、アルフレートはぶるりと体全体を震わせた。背徳的と言えば、殺人程背徳的である行為もあるまい。己の利己の為ならば尚更だ。
 そして彼はシーツを捲った。瞳を閉じ、浅い寝息を立てるゲオルクの顔が現れる。すっかり熟睡している様に見える。何と言う安心しきった顔だろう。これならば、ここまで来る時にあれ程警戒する必要は無かったかもしれない。だが、やはり用心に越した事は無かったかもしれない。どちらであるかは解らないが、一つだけ言える事がある。これからやる作業は非常に楽であると言う事だ。
 アルフレートは両手で縄を握ると、ぴんと引っ張った。左右から力を加えられた縄は、真っ直ぐに伸ばされる。後はこれを首に掛け、首に巻き付けてから、更に左右から力を加えるだけである。
 アルフレートはゲオルクの長身に跨ると、その女性の様な、と言う程では無いが、男性のものとも思えない細い首に縄を当てた。更にしゅるりと持ち手をずらしつつ、縄を伸ばす。そこから腕を交差させて、枕の下に滑り込ませた縄を彼の首に巻きつけると、両腕に力を込めた。巻き付いた縄が擦れて音を立てながら、彼の首を締め上げて行く。
 う、と小さな呻き声が漏れた。ゲオルクが目を覚ましたのだ。薄っすらと青い瞳を明けて、アルフレートを見ている。だがもう遅い、と殺人者の唇が三日月形に割れた。抑えていた愉悦が零れ、鋭く尖った犬歯が覗ける。そう、後少し力を入れればそれで終わりだ。
 そこでアルフレートはもう一つ気が付いた。ゲオルクが笑っている事に。額からじんわりと一滴の汗を垂らしながら。この最期に気でも狂ったか、と彼は思った。この様な状況で笑う等正気の沙汰では無い。それを言えば、彼も正気ではありえなかったが。嘲笑の微笑みを浮かべながら、アルフレートはぐっと力を込めた。縄同士擦り切れる音が千切れんばかりに増した。
 次に彼が気が付いた時、上下が逆転していた。
 床が上に、天上が下に見える。足場の感覚が無く、自分が中空に浮いている事が解る。腹の辺りには鈍い痛み。視界は徐々に回転して行き、その向こうでゲオルクの笑い顔が見えた。
 自分が彼に、どう言う技なのかは知らないが、あの状態から投げ飛ばされたのだ、と言う事実に気が付いたのは、背中から壁に激突した衝撃と騒音を感じてから約五秒後の事であった。
 がひゅぅおっと、自分のものとはとても思えない奇妙な声を発しながら、彼は空気を吐き出した。夕飯を食べてなかったのが幸いした。もし食べていたら、吐き出したのは空気だけでは無かっただろう。
 そのままずるずると、頭を下にしながら倒れて行く。何とも間抜けな格好だ。
 だが、その体勢は余り長くは続かなかった。起き上がったゲオルクがこちらに歩み寄り、アルフレートの襟首を掴んだ。その見た目から出せるとは到底思えない細身の青年の腕力によって、襲撃者は成す術も無くずるずると床に寝かされた。苦痛と驚愕に心身が麻痺して、身動きが出来ない。そこから今度は、体を反転させられ、右腕を取られた。再度鈍い痛みが右肘に感じられた。先程腹部に感じたものとは違う。ありえない方向に向けて関節が曲げられ、下手をすればそのまま外れてしまいそうな程の力に骨が悲鳴を上げているのだ。ぐぅ、と喉から声が搾り取られる。
 ゲオルクは、更に左腕を取った。同じ様に関節を押し曲げ、両腕を重ねると、自分の首に掛かっている縄を振り解き、器用にも片手でそれを腕へ巻き付けた。力を入れようにも入らない。アルフレートは完全にその動きを封じられた。
 ふとアルフレートが見ると、何時の間にか隣のベッドが空になっていた。アナベルが部屋の外に飛び出し、皆を呼んでいる叫び声と、どたばたと言う靴音が聞こえて来た。直に一同揃ってここに来るだろう。そして己を糾弾するのだ。あの時と同じ様に。何か言い逃れる為の台詞でも考えようとしたが、こんな間抜けな姿ではそれも出来ない。彼は諦めた。
 計画は完璧に失敗したのだ。
 終わった。疲労が脳天から指先までを駆け抜け、全身に襲い来る。魔犬は何処に消えた。もう何も考えたく無い。呼吸すら億劫だった。この探偵はいっそこのまま、腕だけじゃなく首の方も曲げてしまってはくれないだろうか。ありえない方向へ。
 そうアルフレートが思っていた時、ゲオルクの口が彼の耳に近付いた。そして囁いた。申し訳なさと少しの喜びが混じった、奇妙な笑みを浮かべながら。

「すみません仕事、なもので……。」

 アルフレートはその言葉を聞いた瞬間、はっとした。機転の利く男だ、察しも良い。だがこの場合、そうで無かった方がどれ程良かっただろう。
 彼は己の言葉を訂正しなくてはならない。
 終わった、のでは無い。
 終わっていたのだ、に。
 皆がやってきた。ベンノが誰よりも先に、次にエーリカでクラウス、少し遅れてゲルトとマリアが部屋に入り、その光景を見て唖然とした。
 叔父が何事かと怒りも露に喉を張り裂けて叫ぶ。それを華麗に制し、エーリカが何があったのですかと…仮にも義理の兄であるアルフレート、では無く…ゲオルクとアナベルに向けて質問した。探偵と助手が経緯を語る。皆を代表してエーリカが相槌を打った後、一つの疑問を呈した。何故この様な事をしたのか、と。他の誰かが何か言うよりも早く。
 成る程彼女だったのか、と思いながらアルフレートは疲れた笑みを浮かべる。
 どうせ弁明した所で全て無駄だろう。彼は口を開き、己の心中とその失敗した計画を語った。
 こうしてアルフレートは殺人未遂の罪で逮捕された。未遂であり、また一応名家たるベルンシュタイン家の一員である為、刑期はそれ程長く無かったが、彼が出て来ても帰る場所等存在しない。折角手に入れた役人の職も失い、また流浪の日々が始まるのだ。
 それもこれも半ば己の所為なのである。
 結局、アルフレートが己の意思を持って幸福になる等到底適わぬ夢であり、彼は低俗な喜劇の三文役者な主人公に過ぎなかったのだ。


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