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2007.07.04 文学に光あれ
 ライトノベルの定義を人々に聞くと、返って来る答えは恐らくそれぞれで違うだろう。
 それだけ懐が深いと言うか、何でもありなのがライトノベルとも言える。ただ今の所、多くの人はライトノベルレーベルで出版されているものをそう定義付けしている様だ。

 しかし、そのレーベルで出版されたからライトノベル、と言うのは、では電撃文庫で舞姫が出版されたらアレはラノベと言う事になる。何故舞姫を上げたかと言えば、正直かなり通用しそうな内容だと思うからだが、しかし実際出版されたとしても誰もライトノベルとは思うまい。

 それは既に評価が決まっているからと言う事もあるし、文体が違うと言う事もあるだろうが、そうなると最初に万人が認める定義であるライトノベルレーベルからの出版が意味を成さなくなる。

 それを踏まえた上で、自分なりにライトノベルとは何かを考えてみたのだが、ライトノベルとは限り無く人間中心主義に直走った小説と言えなくは無いだろうか。

 この場合の人間とは、登場人物であり、つまりはキャラクターだ。世界も設定も物語もあくまでキャラクター中心に作られ、そしてテーマもまた、作品全体よりもキャラクターから語られる。そう言う在り方が究極まで達したのがライトノベルと言うものでは無いか、と思うのである。

 文学を書くのも人間であり、それを読むのも人間であるならば、この在り方は確かに正しいのだと思う。そして、だからこそライトノベルは解り易い。成る程、中高年に受ける訳だ。ただ単に解り易いだけでなく、受ける様娯楽性に富んでいるのもまた大きい。

 だがしかし、そこで一つ物申したい。本当にそれで、それだけで良いのだろうかと。

 確かに人間、キャラクターを中心としたならば、理解はし易いだろうし、面白いだろう。だがそれだけで良いのか。キャラが格好良ければ、可愛ければ、立っていればいいのか。愉快痛快な娯楽のみを追及すればいいのか。

 自分はそれに違うと応えたい。その証拠に、世間一般のライトノベルの評価は文学のそれでは無い。中二病ところか高二病、大二病を同時に発症したお餓鬼様の読み物、と言う感じである(勿論異論は大いにあるだろうが)。

 個人的に言えば、在り方としては正しい、良いと思うのである。だが、解り易さや娯楽性を求める所で止まってしまうのが問題なのだ。ただただ軽いだけの読み物に終わってしまう。一過性の娯楽であり、一度読めば捨てられてしまうだけの使い捨ての商品になってしまう。

 実に勿体無い。解り易く、面白いと言う長所がありながら、それで終わりでは余りに勿体無い。そう言ったものは通過点過ぎないのだ。読み易さ、面白さも大事だが、それはあくまでも表現だ。重要なのはそこから先では無いのか。つまり、多くのライトノベルにはテーマや思想や哲学と言った、物が絶対的に足りていないのではないか、と思うのである。

 こう言う事を言うと、読者を楽しませるのがテーマであればいいでは無いか、と返す者もいる。確かに一理ある。だが、その作者は、本当にただそれだけで良いのか、面白ければいいのか、と小一時間問い詰めた時、胸を張って頷きながら、逆にそこまで頭でっかちに考える必要があるのか、と問い返してくる位の気概を持っているだろうか。実際やって見る事は無いので何とも、だが余りいないのでは無かろうか。


 そう、物語を書くならば、それ位の覚悟は必要では、と思うのである。そう言った感情が、思考が物語に深みを与え、ただの一過性の娯楽では無く、読者の心に読み終わった後でも尚影響を発し続ける文学になると、自分は考える。その時ライトノベルは光に満ち、現代小説の形態に置いて正しき文学の一つとして、広く認められる様になるのでは無いか。

 以上の様な事を、最近友人と文学について論じながら考えた結果であり、また同時に自分が余りライトノベルを読まない理由でもある。まぁ、ぶっちゃけキノとブギーと都市シリーズ(奈須きのこ作品や戯言の一巻も読んだ事があるので、それも含めようか)位しか読んでない自分がラノベを語るな、と言われそうだがな。

 もとい、読み返すとこの文章、ネウロの切れて自己弁論始めた犯人の屁理屈にクリソツだな。自重せねば。
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