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 幕間第六章:平穏的幕間或いは幕間的平穏
 醒歴1878年 六月 土壱(ドイツ) 解鎮絃(ゲッティンゲン)

 ヴィルヘルム・グルムバッハは凄まじい眩暈と頭痛を感じ、浅い眠りから眼を覚ました。
 少し動くだけでも気だるさを感じるが、何とかシーツを払い除け、ベッドの上に体を起こす。
 この疲労感の理由は解っていた。
 彼の右の眼孔に収まった淡い青色の義眼が、まるで別の生き物の様にヴィルヘルムの意思に関係無く周囲を眺め回しているのだ。眩暈と頭痛が機械仕掛けの眼球の奥の方から感じられる所からすると、寝ている間に勝手に起動していたらしい。そう言う時、大抵彼は夢…どんなものかは覚えていないが、良い夢であった試しは無い…を見ている。体が休んでいる間に、夢を見る脳の無意識の作用によって義眼が起動するのだろう、と彼は考えていた。尤も、それが正しいにせよ間違っているにせよ、無意識下での作用等どうにもする事は出来ないのだから、彼の考察に意味等無かった。そこにあるのは、眼の酷使による抗いきれない疲労のみである。
 ただ、この義眼に秘められた機能、視界に入る存在全てを瞬時に、限り無く細部まで見通す事が出来る恐るべき眼力が発動していなかっただけまだましと言えようか。もし発動していたなら、長時間の使用による脳の負荷が凄まじい機能だ、眼を開いているにも関わらず二度と目覚める事は無かっただろう。
 しかしながら、苦痛と言う点を差し引きすれば、結局どちらも大差無い事ではあったが。
 ヴィルヘルムは軽く溜息を漏らしながら、右目に手をやった。寝ていた自分に腹が立った。どの様な夢を見ていたかは知らないが、夢なら夢で現実に影響をもたらして欲しくは無い。そう思いながら、右目に意識をやる。神経糸を通して意思と言う名の電流が脳から眼に向けて直走り、信号を受けた幾千幾万の極小の歯車が、近くで耳でも立てなければ聞こえない程僅かな音を立てながら回転して行く。
 やがて右目の義眼は無意味な暴走を止めて、何時もどおり眼球にぴたりと嵌った。安堵の吐息が零れる。
 まだ眩暈と頭痛は残ったままで、恐らく今日一日ずっと引く事は無いだろうが、ともあれこれで一息付く事が出来た。ヴィルヘルムは気を落ち着かせる為に、左右で若干色の違う瞳を持って、周囲をゆっくり見回した。
 そこは見慣れた自分の部屋である。工房の二階にある一室で、広くも無く狭くも無い。一つだけ付いた窓からは、土壱の短い夏を感じさせる心地良い風が入り込み、白いカーテンを揺らしている。カーテン越しに見える空は、ゆっくりと雲が流れる晴天であった。
 部屋は適度に整理され、また選りすぐられた必要最低限の家具が置かれている。ヴィルヘルムが乗っている白いシーツが掛かったベッド、木製の書き物机に椅子。同じく木製の衣装箪笥があり、その横には一際大きな本棚があった。設計図か診療録だと思われる紐で括られた書類束に辞書から手引書、教本や小説等が整然と置かれている。どれも装飾はされておらず、実用一点張りと言う所か。
 鳥獣が己の巣で安らぎを見出す様に無心で自室を眺めたヴィルヘルムは、すっかり落ち着きを取り戻すとベッドから起き上がり、天上に向けて腕と、それに合わせて体を伸ばした。骨が引き伸ばされ、離れた所で再び嵌り込む様な何とも心地良い音が響く。実際の所余り健康に良くは無いのだが、彼は続ける
 他にも軽く体を折り曲げ、伸ばし、柔軟を済ませたヴィルヘルムは立ち上がると、寝間着から衣類棚より取り出した白いシャツ、黒のベスト、ズボンの一式に手早く着替えた。
 そして机の上に置いてある金縁の片眼鏡を手に取ると、右目に向けて取り付けた。眼鏡のレンズに度は入っていない。これは義眼の僅かな色の違いを隠す為のものであり、伊達であった。ヴィルヘルム唯一のファッションと言ってもいいかもしれない。
 身嗜みを整えたヴィルヘルムは、顔を洗うべく部屋を出た。扉を出ると、彼の耳にピアノの音が飛び込んで来た。恐らく部屋に居る時も奏でられていたのだろうが、他の事にかまけていたので気付けなかったのだ。
 その曲は穏やかな旋律を繰り返す、実に心地良い音色のものであったが、ヴィルヘルムが知る限り、こんな曲は存在しなかった。奏者が鍵盤を叩きながら、即興で曲を作り上げているのだと思われる。
 大した腕だと思いながら、ヴィルヘルムは洗面室では無く、居間へと向かった。
 地下が工房で一階が診療所になっているこの家の生活空間は、二階に集中している。廊下を踏み締めながら進んで行けば、下へと伸びる階段の隣に居間があった。居間は流石にヴィルヘルムの部屋より広く、ある程度の人数を許容出来そうだった。中央には四人掛けの机が置かれ、上には小型のパンが数個にハムとチーズ、ゆで卵と言う朝食が載せられている。女中兼看護婦であるブッフ夫人の手によるものなのだろう。珈琲は置いていない。壁際を見れば棚の他に古めかしい振り子時計がコツコツと時間を刻んでいる。見ると、時刻は既に十時近くになろうとしていた。朝の早い土壱人にしては考えられない寝坊と言えよう。
「初めて見たわね、」
 と、そんなヴィルヘルムに声が掛かった。
 愛くるしい少女の声だ。その主は部屋の隅、窓際に置かれた小さな木製のピアノの前に座っていた。肩よりやや長い程度に伸ばされた黒髪は美しい波を打ち、つり目がちな青い瞳は鍵盤の上で軽やかに動く陶器で出来た己の指に注がれている。その視線を彼女は振り返り、居間の入口に立つヴィルヘルムの方に向けた。年齢にして十五歳、まだまだあどけないけれど美しい少女の顔が彼の瞳に映る。
「貴方がこんな遅くに起きるなんて。幾ら日曜日だからって、余り褒められたものじゃないわ。」
 そう言いながら少女、ドルトヒェン・ヴィルトは口元を吊り上げ、意地の悪い少年の様な笑みを浮かべた。
 後に、土壱史上最初の猟奇殺人事件と言われる様になる『ヴィルト家の惨劇』によって身寄りを無くした彼女は、当人たっての希望もあってヴィルヘルムの家で暮らす事となったのである。
 共に暮らし始めてから早一ヶ月。彼女はすっかりこの生活に打ち解けていた。
 それは良い傾向である。年端も行かない少女が受けた傷は深く、それがドルトヒェンを凶行に走らせた。だがここ一ヶ月過ごして来た今、その傾向は見られない。前の様に狂気を潜ませている訳でも無く…時々物憂げな表情を見せる事もあったが…純粋に暮らしを楽しんでいる様だった。医者として、保護者として、嬉しく思う。
 ただ元々そう言った性格なのだろう、皮肉を向けてくるのが少々困りものだった。
 ヴィルヘルムは肩をすくませて苦笑を浮かべるた。
「昨日は遅くまで仕事に掛かっていたからな。しかし、私も始めて見たよ。」
 続けて言う。
「そのピアノをそこまで弾く事が出来る人間はね。」
「あら褒めたって何も出ないわよ。」
「ありのままを言っただけだ。」
 ヴィルヘルムは満更でも無さそうに微笑むドルトヒェンの隣まで行くと、すっと長細く、かすかに節くれだった指を鍵盤へと伸ばした。何をしたいのか察した彼女は、彼が入れる様体を左に退かした。
 鍵盤の上で、少女の指と青年の指が踊る様に重低音を刻む。連弾と呼ばれる二人掛かりの奏法だ。
 ドルトヒェンに比べると、ヴィルヘルムの演奏は少々拙い。楽譜も無く、彼女の白く輝く指とそれが奏でる音のみを頼りに演奏していると考えれば充分かもしれないが、それでもその動きは何処かぎこちない。
 そんな彼を支える様にドルトヒェンの陶器の指はゆっくりと鍵盤を叩く。かつて乱暴に扱った為に皹割れ、砕けた義手は完全に修復されていた。その動きは生身の指よりも遥かに滑らかであり、白磁の肌や関節から覗ける機械を見なければ、とても機械仕掛けには思えない。
「君は優秀な義体遣いだな。」
 十本の指それぞれが見せる華麗な動作を眺めながら、ヴィルヘルムはそう言った。
「土壱中を探したって、君程巧みに義体を操れる人間はいまい。」
「買いかぶりと過小評価と思うわ。」
 ドルトヒェンはくすりと笑うと、突然指を鍵盤から離し、ヴィルヘルムの手に絡ませた。
 稼動によって薄っすらと熱を帯びたすべらかな肌の感触に、彼はどきりとして指を止めた。
 彼女の方を見れば、上目遣いにこちらを見詰める意思の強そうな青い瞳と視線があった。
「この手を作ったのは貴方。だから褒められるべきは貴方よ。私じゃないわ。」
 そう言って美しく微笑むドルトヒェンに、ヴィルヘルムは手を握られた以上の衝撃を受けた。
「ロッテ……」
「……?……どうしたの、ヴィルヘルム。」
 ぴしりと体を強張らせる彼に、ドルトヒェンは小首を傾げ、心配そうに覗き込んだ。
 それに気付いたヴィルヘルムは、はっと我に帰って言った。
「……いや何でも無い。少し、眩暈がしただけだ。」
「何よそれ。私に手を握られたからって貴方動揺し過ぎよ。」
「そうだな。」
 ついっと口元を吊り上げて笑うドルトヒェンに、ヴィルヘルムも応え、二人で笑い合う。
 だがまだヴィルヘルムの動揺は残っていた。
 最初に逢った時は何も感じなかった。しかし一緒に過ごし始めてから、彼は目の前にいる少女の中に、別の少女の面影を見る時がある。それも幾度も。何故なのかを説明するのは難しい。年齢も違えば見た目も違う。性格すら似ているとは言い難い。だが雰囲気、もっと言ってしまえば魂。そう言ったものが似ていると思われた。
 接する者達の魂を惹き付け、掻き乱し、彼女の為に何かしないではいられなくする――魂の持ち主。
 ヴィルヘルムは僅かに首を横に振った。非科学的妄想に過ぎない。まだ朝の夢を引き摺っているのだ。
 彼は自らの思考をそう切捨て、それ以上その事について考える事は無かった。
 代わりにまたピアノに姿勢を向けたドルトヒェンへ声を掛けた。
「なぁドルトヒェン。ちょっと外を歩かないか?」
「まぁっ、貴方の口からそんな言葉が出るなんて。何処に連れて行ってくれるのかしら?」
 ヴィルヘルムの声にくるりと振り返ったドルトヒェンは嬉々としてそう言った。意図的な勘違いをしているのは目に見えて明らかである。彼はテーブルに座り、遅い朝食に手をつけ始めながら苦笑い気味に、
「別に……何処と言う明確な目的地は無い。ただの散歩さ。」
 そう応えた。ドルトヒェンはぷくりと頬を膨らませて言う。
「何だつまんない。何時も普通にしている事じゃないよ。」
 ヴィルヘルムはその子供らしい行為に声を立てて笑いながら続けた。
「それもそうか……そうだな、折角だし散歩の後は美味いものでも食べに行くか。」
「本当っ?」「あぁ本当だ。」
 簡単に折れてしまった。高く付きそうだがたまには良いだろう。そう思った。
「そうと決まれば”膳”は急げ、よ。支度してくるから、貴方も早くそれ食べ終えてね。」
 にたぁと笑いながら、ドルトヒェンはパンと手を打って、ヴィルヘルムを指差しながら、自分に宛がわれた部屋に向けてはしたなくも走り出した。途中、ヴィルヘルムの声に彼が起きた事を知ったブッフ婦人が珈琲ポットを持ってやって来た所に危うく当たりそうになるが事無きを得た。
「元気ですね。」
 自分にもあの年齢位の息子が居る中年の女性は微笑ましそうにそう言いながら、ヴィルヘルムのカップに濃く入れられた珈琲を注ぐ。彼は砂糖も牛乳も入れず、深淵を湛えるカップの縁に口を付けながら、
「お腹を空かそうとしているのさ、昼食の為にね。」
 そう言って、女中と笑い合った。
 遅い朝食を済ませると、ヴィルヘルムとドルトヒェンは外に出た。
 心地良い空気が大気に満ち溢れ、日差しも柔らかく暖かい。
 ヴィルヘルムは先の格好の上から白いフロックコートを羽織り、揃いの色に合わせた山高帽を被っている。
 ドルトヒェンは、少し派手な赤いドレス姿だ。頭にはベルベットの帽子を被っている。
 二人は馬車には乗らず、中央にある広場に向けて街路を歩いて行った。
 こう言う散歩を二人は良くしていた。それはヴィルヘルムの言い付けであり、義脚の訓練の為であった。尤もスカートの影に隠れて見えないその義脚は、義手同様彼女の体そのものとなっていたが。
 『ヴィルト家の惨劇』を引き起こした犯人への暗い怨讐がもたらした結果だが、そこに類稀なる意思と才能があったのは言うまでもない。それでもまだ頻繁に行っているのは慣習となったからと、純粋に散歩を楽しんでいるからだった。土壱人は歩く事が好きな人種なのだ。
 二人が歩いていると、良く色々な人達が語り掛けてきた。ヴィルヘルムの場合、それは主に義体化を敢行した患者達とその家族だったが、ドルトヒェンの場合はそう言った頚木を置く事が出来ない程に色々な相手である。
解鎮絃は大都市と言う訳では…土壱にある都市は皆それ程大きくは無いのだが…無い。良く出入りする薬局の看板娘が悲惨な事件に巻き込まれたと言う話は新聞にも載っている所であり、皆知っていた。だからドルトヒェンの顔を知る者達は、何かにつけて話しかけてくるのである。良きお節介者、と言う所か。
 そんな彼等に、ドルトヒェンは実に愛想良く接する。ヴィルヘルムはそれも才能かと完全に蚊帳の外から微笑ましく見ているのだが、余り長い時間見ている事は無い。ふとした瞬間に、あの感慨が襲ってくるのだから。
 そうこうしている内に、二人は街路を抜けて広場へとやってきた。日曜からか市庁舎の前に活気は無く、荘厳なゴシック建築の教会の前にはミサの帰りなのだろう、人々が集まり、談笑をしている。ヴィルヘルムもドルトヒェンも、ミサには行かないので、関係の無い事だったが。
 ふと広場の一角を見ると帽子を被った中年の人形師が居て、彼の周りに人だかりが出来ていた。
 右目を中心に写真機を思わせる義体をつけた彼が今日操るのは、黒い服をきた青年の人形だ。自動蓄音機から奏でられる音に合わせて飛び跳ね、踊る姿は無邪気な少年の様である。
「上手いわね。何時もあそこにいるけど、あの人都会でもやっていけると思うわ。勿体無い。」
 ドルトヒェンはそう言いながら、人だかりの中に入って行く。
「都会に行ってしまったら、ここで見る事は出来ないだろう?」
「それもそうだけどね。」
 ヴィルヘルムもそれに続き、二人は並んで青年の人形を眺めた。
 人形師の技術は確かに高かった。もし操り糸も人形師も見えなかったならば、小さな人間だと言われても、ヴィルヘルムは信じただろう。まるで義体だ。義体は神経糸によって肉体と義体を繋ぎ、体内を流れる電気を持って意思を伝え、動かす。故に卓越した精神を持つものであれば、義体は意のままに動くかす事が出来る。実際あの人形は義体では無かろうか。そう思える程真に迫る動きがあった。
 やがて演奏は終わり、人形は胸元に手を当てながら頭を垂れた。
 拍手喝采が巻き起こる。
 群集に混じってドルトヒェンが楽しそうに両手を打ち鳴らす横で、ヴィルヘルムも拍手を送った。人形師が帽子を脱ぎ、受け皿代わりに観衆からお捻りを集めているので、彼は一マルク硬貨を中に入れてやった。
「本当、上手だったわ。」「本当にな。」
 興奮した様子で紡がれるドルトヒェンの賞賛の言葉に、ヴィルヘルムは頷いて応えた。
 だが何故だろう。
 彼には人形師の技術よりも、人形の顔の方が気になっていた。
 見た事のある顔をしている。それも最近に。だが何時、何処であったと言うのだろうか……
「いやぁなかなか面白い見世物でしたな。」
 ヴィルヘルムが己の記憶を辿っていると、隣に居た人がこちらを向きつつ、そう口を開いた。
「えぇ、確か……に。」
 振り返って応えようとしたヴィルヘルムは、隣人の顔を見て固まった。
「あんたは……。」
「お久しぶりですなぁ、ヴィルヘルム先生。一ヶ月ぶりと言う所で。彼女と宜しくやってますかな?」
 解鎮絃刑事警察刑事ベルトルト・サヴィニー。
 皇帝髭をたっぷりと蓄えた中年は、そうにんまりと笑った。

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