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 第九章第十章:決意の日
「ここでいい、ここで降ろしてくれ。」
 そう言って御者を呼び止めると、ヴィルヘルム・グルムバッハは若干の色を付けて金を手渡し、馬車から降りた。
 足掛けを揺らし地面に靴を付ければ、目の前には沈みかけの太陽によって赤く染まった木々が聳え立っている。 彼が今居るのは解鎮絃(ゲッティンゲン)の入口に近い、郊外の森の半ば程の所だ。
 土壱(ドイツ)、もとい皇路覇(ヨーロッパ)の都市と言うのは、街とその外と言う風に厳格に隔てられている。何処から何処までが街で、何処から何処までが外なのか、容易に判断する事が出来るのだ。
 そんな明らかに街の外で降りたのは、先程まで居た監獄の空気を一刻も早く肺から吐き出したかった為である。
 先程逢ってきた死刑囚ヴォルフ・ティークの居た監獄の奥底は、死に行く者達の陰鬱な吐息に満たされていた。生者の居るべき場所では断じて無い。長く居れば、体も心も腐り果ててしまうだろう。勿論どちらも望んでいない。
 ヴィルヘルムは、街の方へと走り去って行く馬車を見ながら、ふぅと軽く深呼吸をした。
 森の空気はあの墓所とも、街のそれとも違う。常に新鮮であり、清涼感に満ちている。美味いと言ってもいい。
 だが、それでも彼の思考は今だ暗く、淀んだままだった。
 それは皮肉にも、この森と言う場所、そして夕方と言う時刻に起因した。
 沈み行く意識の中で、眼前に広がる風景は、忌まわしきあの日へと繋げた。
 六年前の鐘琳(ベルリン)の森に。
 あの時辺りを朱に染めていたのは叡知の砦から噴出した禁忌の焔であった。
 今は生命の根源がその役割をしている。
 その太陽がぐりんと周り、青白い眼がこちらを見た。
 全て一切合財が黄昏に染まった世界の中で、びくりとヴィルヘルムの体は硬直する。
 脈打つ心臓を軽く押さえ、瞑った瞳を静かに開ければ、そこには何ら変わりない夕日があった。
 ただの幻影だ。太陽は恒星であり、眼球等では断じて無い。
 そんな事、わざわざ言わなくとも解っている事だ。
 だが、その様な幻影を見てしまったのだ、と言うのもまた事実である。
 ヴィルヘルムは立ち止まり、肩を震わせながら深く息を吸い込む。
 もう六年も前の事だ。感情を整理させるには充分な時間である。普段であればこんな風にはならないだろう。
 どうやら監獄の空気は、想像以上に脳の皺に染み込んでしまっている様だ。
 吸い込んだ時と同じ様に深く吐き出しながら、ヴィルヘルムの思考は兄ヤーコプ・グルムバッハへと向かう。
 ギムナジウム時代から文武に優秀だった兄。
 研究者として、自分よりも余程卓越していた兄。
 何をしても敵わなかった。
 そんな自分を、彼は一体どんな風に思っていたのだろうか。
 それはもう解らないが、自分にとっては尊敬すべき目標であり、同時に高く雄雄しき壁であった。
 何時か超えなくては、と思いながらも、決して超える事が出来ない存在。
 その兄が、自分の前に崩れ落ち、胸元を赤く染めながら、こちらを見つめている。
 幻影が呼び起こした空想にぴくんと右手の人差し指が痙攣する様に動いた。
 ありもしない拳銃の引金だ、当然弾丸も出る筈が無い。
 かすかに震える右手の平を見つめながら、ヤーコプの空想を破棄するべく、ヴィルヘルムは首を横に振った。
 あれはもう済んだ事。あの日、兄に向けて回転式拳銃の引金を引いた時に、事は全て終わったのだ。
 そう。彼は死んだ。いや殺したのだ、この自らの手で。
 それはオットーの指示であったとは言え、手を下したのは自分において他ならない。
 あの瞬間、彼の中で全てに片が付いた。
 今更彼が生きていた所で一体何の関係があると言うのだろう。
 自分はもう七人教授では無い。解鎮絃に住む、一介の義体職人に過ぎない。
 ヴォルフの話で、兄が生きている事は解った。元々死んでいるとも思っていなかったが。
 だがたとえそれが解り、そして彼があの時の続きをしていたとしても……それを止める資格等自分には無い。
 何故なら、自分には彼を止めるだけの覚悟等無いのだから。
 もう一度引金を引く事なんて、とても出来る事では無いのだ。
 ヴィルヘルムは、震える指をぎゅっと握り締めながらそう思った。
 視線を前に向ければ、現実の太陽とその下に照らされる解鎮絃の街並みが見える。彼はもうこの街から離れる気等無かった。残りの一生をここで過ごし、ひっそりと人々の為に義体を造りながら……そのままに没したかった。
 そんな風に考えながら歩いていた時、彼は街の入口に立つ一つの人影に気が付いた。
 思わず声が漏れる。
「……ドルトヒェン……。」
「今日は……あ、今晩はかしら?まぁ、どちらでもいいわね……お帰りなさい、ヴィルヘルム。」
 斜陽の影に包まれて、ドルトヒェン・ヴィルトは麗しき少女の顔に意地の悪そうな少年の笑みを浮かべて応えた。

「街の外の方から馬車がやってきたから。もしかしたら、って思ったの。」
 二人は横に並びながら、石畳の街路を歩いて行く。教会と市庁舎の前の広場を通るも、既に人数は少ない。その僅かな者達も多くは家路に着こうとしている所だ。広場の一角で、人形を革鞄に詰めている中年の人形師が印象的であった。
「……そうか……突然留守にして悪かったな。」
「いいえ大丈夫だったわ……ベルトルトとも楽しくお話出来たしね。」
 ヴィルヘルムの言葉に、ドルトヒェンはそう応えた。彼は横を歩く彼女の顔を見るのが怖かった。あの二人が仲睦まじく会話する光景が、どうしても思い浮かべる事が出来なかったからだ。
 そしてその原因の一端は自分にあるのである。
「……そうか。」「そうよ。」
 その事が解っているからこそ、ヴィルヘルムはただその一言しか言えなかった。ドルトヒェンも一言で返す。
 それから二人は、一切の会話を交わらす事無く、帰途を急いだ。夕刻の建物達は赤い光に照らされて、影を石畳の上に落す。ヴィルヘルムの白い服は光を反射させ、ドルトヒェンの深紅のドレスは光の中に溶け込んだ。
 ふと、ドルトヒェンの義脚が停止し、その歩みを止める。
「……どうした?」
 暫く歩んでからそれに気付き、ヴィルヘルムも立ち止まった。
 ドルトヒェンは、真剣な顔付きで彼の左右で少し色の違う眼を見つめながら、
「……貴方の過去の話を聞いたわ、ベルトルトから。」
 徐にそう言った。
 ぴくりとヴィルヘルムの眉間が微かに動く。彼はすっと自分よりも余程小さいドルトヒェンを見つめ返しながら、
「……そうか。」
 と、淡々と応えた。
驚いた事には驚いたが、あの刑事が話しているだろうとは思っていたから、余り衝撃は無かった。
 ただ一つだけ気になった。彼女はそんな話題を持ち出して何を言うつもりなのだろうか、と。
「えぇ……貴方のお兄さんの事とか、色々とね。」
 自分よりも頭一つも二つも大きいヴィルヘルムに見つめられ、ドルトヒェンは微かに目線を逸らした。
 彼女の顔は我知らず赤らんでいた。
 今が夕方で良かった。大事な事を話す時に視線が気になった、なんて言えない。
 こほん、と小さく咳払いをして、ドルトヒェンはヴィルヘルムの方に再び視線を戻した。
「それで……うん、余り良く無い事も聞いたの。」
「……。」
 ヴィルヘルムは無言だ。彼女が一体何を言いたいのか、計りかねていた。
 それを肯定の意と捉え、ドルトヒェンはその薄い唇を震わせて続けた。
「罪も無い人を実験に使ったとか……そのお兄さんを貴方が撃った、とか。」
 びきっと、ヴィルヘルムの眼が険しくなる。造り物の右眼が、キチキチと音を立てて彼女を睨む。ドルトヒェンが猫に睨まれた鼠の様に体を竦ませた。怯えさせたく等無かったが、それでもこの感情を抑制する事はなかなかに難しい。ベルトルトから聞いたのだろうが、しかし彼女の口から聞きたくは無かった。
「……そうだ……それで?」
 出来得るならば今直ぐ駆け出し、この場を去りたい。
 そんな気持ちを抑えながら、ヴィルヘルムはそう聞き返した。
 ドルトヒェンはぎゅっと唇を噛んだ。本心としては否定して欲しかった。だが、その望みは冷淡に潰えたのだ。それでも尚、なるべく表情を崩さない様、潤んだ瞳から滴が零れるのを賢明に堪えながら、彼女は言った。
「でもまだ……生きているかも、ですってね。それに、鐘琳で悪い事をしている、って。」
「……。」
「貴方……ヴォルフの所に行ってたんでしょ?だったら……、」
「あぁ、聞いた。そして確信している、生きている、と。そしてまだ実験を続けている、と。」
 ヴィルヘルムの口調は自分でも驚く程に険しかった。ドルトヒェンの顔が俯く。彼女のこんな表情を見るのは、あの雨の日以来だった。罪悪感が雹の雨となり、心の臓に降り注ぐ。胸が苦しい。我慢ももう限界に近い。
 ドルトヒェンは、そんなヴィルヘルムに向けてゆっくりと顔を上げた。猫を思わせる青い瞳が彼を見据える。
 そして彼女は言った。懇願する様に、或いは祈祷する様に、眼前に立つ彼を見上げながら。
「ねぇ……だったら貴方は、それをまた止めに行くのでしょう?鐘琳に。」
 その言葉を聞いた瞬間、ヴィルヘルムの中で抑えていた感情が一気に解き放たれた。
「何を馬鹿な事をっ、私は行かないぞっ!!!!」
 彼はそう吐き捨てる様に叫ぶとくるりと踵を返し、驚いて固まっているドルトヒェンを無視して早足に歩き始めた。
「え……あ、ちょっと、待ちなさいな、ヴィルヘルムっ!!!!」
 漸く我を取り戻した彼女は、静止する様叫んだ。
 だが、彼はそんな彼女の叫びを無視して、一度も振り向く事無く家路を向かう。
「待って……待ってって言ってるでしょっ!!!!」
 置いていかれぬ様、ドルトヒェンも義脚を動かし始めた。身長差がある分、歩幅が違う為、彼女は走らざるを得ない。だがヴィルヘルムの歩みは早く、殆ど走っていた。二人の距離はなかなか埋まらない。
 やがて工房に辿り付くと、ヴィルヘルムはその扉を乱暴に開け放ち、中へと入った。ドルトヒェンが締まる扉の隙間から慌てて中に入った時には、既に彼は診療所の待合室を抜けて、二階に上っている所だった。夕飯を作る為に台所に居た女中のブッフ夫人が、突然の喧騒に何事かと主に声を掛けたが、ヴィルヘルムはそれすら無視して自室へと向かう。
 何があったのでしょう、とブッフ夫人が訝しがる中、階段を一段置きに飛び越えて、ドルトヒェンが現れた。
 彼女は自室に入ろうとするヴィルヘルムに向けて、手を伸ばした。
「だからっ……待って、よっ、ヴィルヘルムッ!!!!」
 しかし、その手が彼の体に触れる事は無かった。
 ヴィルヘルムは一歩早く部屋に入ると、扉に鍵を掛けてしまった。
 扉の前に一人残されたドルトヒェンは、空しく宙を掴んだ右手の義手をぎゅっと握る。
 ブッフ夫人が心配そうに見つめる中、彼女の頬を一滴の涙がつぅっと流れて落ちた。

 そして太陽は沈み行き、月と星が顔を出す。
 整然とした部屋の中で、ヴィルヘルムは椅子に座り、書き物机に両肘を立てながら物思いに耽っていた。
 蝋燭も瓦斯灯の類も無く、カーテンに遮られる事無くたった一つだけの窓から差し込む月明かりが唯一の照明器具である。銀色の光に照らされて彼の銀髪は妖しく輝き、その顔は青褪めて見えた。
 実際の所青褪めているのだろうけれど。
 ヴィルヘルムはここ数時間、ずっと自室に篭り切りだった。
 ブッフ夫人が夕飯が出来たと告げても断り、わざわざ部屋まで持ってきてくれたが、それも無言で返した。
 その間にドルトヒェンは一度も来なかった。
 彼女には悪い事をした、と彼は心の底から思った。
 こうやって時を立てて冷静になれば、自分が一体どれ程愚かであったのか、身に染みて良く解る。
 次に逢ったら謝らなくては。彼女を哀しませる気等全く無かったと言うのに。
 だが今逢いに行く気にはなれなかった。落ち着いたとは言え、それでもまだ興奮の余波は残っているのだ。
 彼女は言った、鐘琳に行かないのか、と。兄を止めに。その非道を止める為に。
 冗談ではない、と彼の青白い右目がギチギチと動き、微かに節くれた細長い指が見えざる銃の引金を引く。
 例え如何なる理由とは言え、実の兄を撃った事実は変わらない。もう一度、なんて考えただけで怖気が走った。
 彼は右側に収まっていた、金縁の片眼鏡を外すと、それを傍らに置いて、自らは机の上に突っ伏した。
 ふぅ、と静かに息を吐き出しながら、ゆっくりと眼を瞑る。
 瞼の裏に、ヤーコプの姿が浮かび上がった。彼は笑っていた、その胸を真っ赤に染めて。
 ヴィルヘルムの眉間に皺が寄った。
 六年前の事に深い後悔が押し寄せる。こんな思いをするのであれば、あの時あんな事をしなければ良かったのだ。彼もまたある種の傍観者であったのに、それをあの宰相によって担ぎ上げられた。もう二度とご免だった。
 そんな風に考えながら、ヴィルヘルムの思考は徐々に薄らいで行く。
 考え付かれていたのだろう、やがて彼は眠り始めた。静かな吐息が、薄暗い部屋の中で木霊する。
 それから一体どれ程の時が立っただろうか。
 停止状態にあった彼の脳に、とんとんと何かを叩く音が届いた。
 はっとヴィルヘルムは目覚めると、まだ眠ったままの頭を奮い起こそうと、ぐんと降った。
 音は背後から鳴っている。そしてそれは、扉を叩いているものだった。
 一体誰か、は考えなくとも解った。時計は見えないが、既に深夜だろう。ブッフ夫人はとっくに帰っている。
 扉を叩いているのが彼女なのは明白だった。だが逢うべきか否か、ヴィルヘルムは悩んだ。また自分を制御出来ず激情し、怒鳴り声を上げてしまうのでは無かろうか。だがそうやって悩んでいては、ずっとそのままだろう。
 彼は意を決すと、鍵と扉を開けた。
 そこには予想通り、ドルトヒェンの姿があった。らしくも無く視線は下を向き、おどおどとした様子が見て取れる。
「……えぇと……入ってもいい、かしら?」
 声に抑揚が無ければ、覇気も無い。
 彼女の声を聞いて、自分の所為だ、と言う思いがヴィルヘルムの胸を穿った。
 彼はそっと彼女の肩に手を置くと、
「……勿論。どうぞ、入ってくれ。」
 そう促した。彼女の様子を見て、色々なものがすっと静まり込んだ。普段は皮肉を言う大人びた少女でも、実際はまだ十五歳の子供である事に変わりない。そんな彼女に、どうして怒鳴り散らす事が出来ると言うのか。
 ドルトヒェンはん、と頷くと、そっと部屋の中に入った。
「……呆れた。明かりもつけないでいるなんて……寝てたの?」
「嗚呼、まぁ、な……何なら明かりを持って来ようか?」
「いいえ、結構よ……この方がいいわ、きっとね。」
 そっと扉をヴィルヘルムが閉める中、ドルトヒェンはそう言って、ベッドの上に腰を下ろした。
 月明かりしか無い中で、彼女の黒髪は妖しく輝き、その横顔は祈璃社(ギリシャ)神話のヘレネを思わせた。
 思わず見惚れたヴィルヘルムだったが、すぐさま我に返ると、自分もその隣に腰を下ろす。
 それ以上二人とも何も言わなかったし、行わなかった。
 光も無く音も無い無為なる時間が、ヴィルヘルムとドルトヒェンの間に満ち、そして過ぎて行く。
 そして幾許か経った後、唇を開いたのはドルトヒェンだった。
「……さっきはごめんなさい、ヴィルヘルム。突然あんな事を言えば……怒る、わよね。」
 その言葉にヴィルヘルムは慌てふためいて返す。
「それを言うなら私の方が愚かだった。君に他意は無いのに怒鳴り散らして……すまない、と思っていた。」
「ふぅん……だったら、両思い、と言う事ね。良い事だわ。」
 彼の慌てっぷりが面白かったのだろう、ドルトヒェンはくすりと唇を吊り上げて微笑んだ。
 思わず、ヴィルヘルムの顔も綻ぶ。心配の一つが、これで解消されたのだ。
 だがドルトヒェンは直ぐにその笑みを消すと、真面目な顔で彼の方に向き直り、こう言った。
「それでも、ヴィルヘルム……やっぱり私はこう問いたいわ、貴方は鐘琳に行かないのか、って。」
 綻んだ顔もまた硬くなった。ヴィルヘルムもまた彼女の方に体を向けながら応える。
「……何故、だ。私にはもう……関係の無い事だ。」
「どうして?貴方のお兄さんでしょ。それに……彼のしている事が本当だったら、それはいけない事だわ。」
 ドルトヒェンはそう言いながら、ぎゅっと肘を掴みながら義腕を胸に抱いた。彼女が受けた屈辱。生身の腕と脚を失い、機械のそれに置き換えた痛み。それを思えば、彼女が拘る事も良く解った。
 それでもヴィルヘルムは首を横に振った。
「私にはもう……彼を止められるだけの力なんて無い。無理なのさ。」
「でも、」
 半ば諦めた様な彼の右手を、ドルトヒェンはすがり付く様に掴んだ。
 冷たい陶器の感触の中に込められた力に、ヴィルヘルムははっと身を竦める。
 そんな彼に向けて目元に涙を溜めながら、彼女は言った。
「貴方は私を助けてくれたわ。義体を造ったって事じゃない。あの雨の日にっ。だったらっ!!!!」
 それは真摯な叫びだった。あの日、復讐に急かされて殺人と言う大罪を犯しかけたドルトヒェンを、ヴィルヘルムは身を挺して過ちから救った。それを否定する事は出来ない。誰にも、彼自身にも。だがそれは、
「それは……君が私の患者だったからだ。もしそうじゃなければ、どうなっていたかは……解らない。」
 ドルトヒェンの顔が強張る。きっと失望している事だろう。だが構わなかった。
「解って欲しい、ドルトヒェン。私は君が思っている様な人間じゃない。それに、私があの時君を止めたのは、人を殺すと言う事がどう言う事なのか、解っていたからだよ。あれは……辛い。心底、な。だからこそ、君にさせたく無かったのだし、同時に私だってもう二度と……したく無いんだ。」
 それが肉親であるならば尚更に、とは言うまでも無いことだった。
 思いの内を語り終えて、ヴィルヘルムは唇を閉ざした。ドルトヒェンは腕を握ったまま、じっと彼を見つめる。
「でもそれじゃ……、」
 その時、義手に篭る力がぐんと強まった。内部の機構が温まり、陶器の肌に反映される。そこに込められた力は、大人の男性に握られているよりも強かった。想定外の出力に彼は軽く呻いたが、離してくれとは言えなかった。義体は神経糸を通して肉体と繋がれ、電気を流して意思を伝わらせる。想いが強ければ強い程に、その力も増しえるのだ。
 ドルトヒェンはヴィルヘルムの腕を握ったまま、眼を見開き、諭す様に言った。
「それじゃ、貴方が救われないわ。ねぇ気付いてる?貴方今泣くのを我慢してる子供みたいな顔してる。」
 言われて彼ははっとなった。思わず自分で自分の顔を触っていた。窓の方を見ると、月光の中に己の姿が映っている。その様相は確かにドルトヒェンの言う通りのものであった。
「ヴィルヘルム。」「……ん……。」
 自らの表情に驚くヴィルヘルムに、ドルトヒェンはぐっと顔を近づけた。同時に体をその膝の上に乗せる。触れてしまいそうな、だが僅かな間を持って決して触れはしない距離の元、二人は互いの瞳の奥を見やった。相手の心を見入る様に。
「貴方は関係無いと言う。もう殺したくないと…勿論実際はそうじゃない、んだけど…言う。でもきっと、もう遅いんじゃないかしら。貴方は既に関わってしまっていて、その手を掛けてしまっている。だからもう遅いの。どんなに眼を背けても、貴方の罪は決して消えない。このままじゃ、貴方はずっとそのままよ。忘れたふりして、片付いたふりして、でもふとした拍子に自分の罪に気付いて苦しむ……御伽噺(メルヒェン)に怯える子供みたい。哀れよヴィルヘルム。貴方は哀れだわ。」
「……それは……。」
 違う、と言う一言を喉から出ない。まだ十代も半ばの少女の言葉に、倍近く生きてきた男性が何も言えなかった。心を、魂を掻き乱されていた。それはドルトヒェンの言う事が真に正しい事であったからである。二度とご免だ、なんて言い募っても、結局もう一度はしてしまっていると言う事実を変える事は不可能なのだ。
「だから……誰かの為とか、そんなのは二の次で、貴方の為に……貴方の為に、貴方は鐘琳に行くべきなんだわ。そして、お兄さんを完全に止めなくちゃ……それが、貴方の罪が許される唯一の方法だと思うの。ヴィルヘルム、私は貴方が好きよ。だから、貴方は救われて欲しいの……。」
 そこまで言ってドルトヒェンは唇を閉ざし、ただじぃっとヴィルヘルムを見つめている。
「……私、は。」
「……。」
 彼女が語るべき事は最早何も無い。
 想いは全てぶちまけた。
 後は、彼が答えを言うのみだ。
「……私は……そうだ、逃げていた。一度犯した罪から逃げて逃げて……ただ逃げていた。罰を受けるでも無く、その罪を許されようとするでも無く……何処までも逃げていたんだ。罪を忘れる為に、自分を偽る為に、善行のつもりで行動して……だが違う、それもただの逃避に過ぎない……私はヴォルフと一緒だ。何も許されて等いない。」
 その台詞の最後ががヴィルヘルムの耳にまるで魔法の言葉の様に飛び込んできた。許されて等いない。それは決定的に破滅的で壊滅的且つ終末的言葉であり、彼の少なくとも六年間の暮らしを否定する様な言葉だったのだが、不思議とヴィルヘルムの魂は乱れなかった。寧ろそれを自覚した事で清清しい、穏やかな気持ちになって行くのが解った。
 そう、それはきっと、自分が何をするべきなのか理解出来たからだ。
「……解った、ドルトヒェン。」
 ヴィルヘルムは空いていた左手で、彼女の手を掴みながら言った。
「鐘琳に行こう。そして……兄を、ヤーコプを止めよう。君の様な者達が生まれえぬ様に、その根元から取りに行こう。それが私に出来る、ただ一つの購いならば。そして、それで君に応える事が出来得るならば。」
「嗚呼ヴィルヘルム……ッ。」
 その言葉に、ドルトヒェンの両眼から涙が零れる。
「ドルトヒェン……ん。」
 それを、ヴィルヘルムが己の舌を突き出して受け止めた。ドルトヒェンは驚きの表情を浮かべたが、拒む事は無かった。不快では無い、寧ろ心地良かった。彼女は彼を受け入れ、頬に伝わる涙を舐め取らせる。
 舐め終えると、ヴィルヘルムは顔を離し、ドルトヒェンを見つめる。その口元には笑みが篭っていた。
 彼女もまた微笑んで返す。眼を細め、軽く歯を出したその笑い方は、実に少女らしくて魅力的だった。
 二人は微笑み合った。相手の心の内を湛え合う様に、抱き合って。
 それは兄と妹の様に、幸福そうな光景だ。
 ただ、ヴィルヘルムには一つの懸念があった。
 それは恐らくベルトルトも知らない事であり、故にドルトヒェンも知らぬ事。
 つまり、ヤーコプが非道な人体実験に走ったのは一体何故なのか、と言う事である。
 ヴィルヘルムにとって、長年苦楽を共にしてきた弟にとって、それは良く解る事だった。
 だからこそ、彼は兄を止められず、行いの為に協力も出来ず、ただ見逃すしか出来なかったのである。
 嗚呼、我等が愛しき妹シャルロッテ。
 天に召されてしまった可愛いロッテ。
 彼女の為に、神にすら敵対する事を兄は、ヤーコプは誓ったのだ。
 そんな男の前に立ち、その誓約を、その意思を、止めるだけの覚悟が自分にあるのだろうか。
 再び出逢った時、彼を拒絶して、その眉間に銃口を向ける事が出来るのであろうか。
 ある、と言いたかった。だが同時に、本当にか?と疑う自分もいる。
 ヴィルヘルムは今絶えずロッテを感じている。
 その引き締まった腕の中に、胸に掛かる吐息の中に、舌にまだ残る涙の中に。
 だからこそ心の内には、ヤーコプのロッテに対する想いが、鋭い棘の付いた茨となって刺さっているのであった。
 何処までも広く、深く、心の臓腑を覆い尽くすかの様に果てしなく。

 ヴィルヘルム・グルムバッハの機巧時代 第一部 『開幕時代』 完

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