上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 醒歴1889年 五月 詠霧趣(イギリス) 論曇(ロンドン)
 一代にて財を成した所謂資本家であるジュリアス・カーティスの一人息子にして跡取り、ジュリアン・カーティスはそんな生まれを感じさせない実直な性格と整った顔立ちによって周囲から高く評価されていた。彼が親同士の相談によってあのヴィヴィアン・コリンと婚約者になった時等多くの女性達に嘆き哀しまれたものだが、そんな柔和な好青年でも一つだけ、眉を潜めて嫌悪する事柄があった。
 それは自分の名前を家名無しで呼ばれる事である。
 彼は自分の名前が大いに嫌いだったのだ。
 公正明大で知られるジュリアンは、自らのその名が口にされる度に何時も笑いながら苦い顔を浮かべる。親しい知人友人達の間柄ですらその様な態度を取るのだから、それが全くの他人であった時どう言う表情をする等あえて言うまでも無いだろう。友達は苦慮し、ジュリアンを呼ぶ時は専ら家名で呼ぶか、或いは代名詞を用いた。ただ一人、ヴィヴィアンだけは彼が苦笑しようとも我関せずと言う様子でジュリアンと呼び続けたが。
 所でジュリアンは、何故その名前が嫌いなのかを言わなかった。その理由を聞いても苦い笑いを浮かべるだけで応えようとはせず、何か事情を知っているだろう親族すら同様の態度を取ったからだ。周りの者達は皆一様に首を傾げたが、きっとその名前の意味が気に入らないのだろうと言う事で納得した。
 ジュリアンは小便小僧の愛称として知られている。それが嫌なのだろう、と。
 実際その考えは半分当たっていた。幾ら街を救った小英雄とは言え、その救った方法が爆弾の導火線に小便を引っ掛けたと言うのでは余りに締まらない。そしてジュリアンはもう二十歳を超えている。その年で小僧もあるまい。
 だがそれだけが理由では無かった。彼は思慮深く、心根の美しい青年である。そんな些細な事で自分の名を嫌悪する様な人間では無いのだ。第一、小便小僧以前にジュリアンとは路磨(ローマ)神話の主神ユピテルの子孫を意味する由緒正しい名前である。祈璃社(ギリシャ)神話の主神ゼウスと同一視されると言う辺りに少々思う所はあるかもしれないが、だからと行って決して恥じる様な名前では無い筈だ。
 かく言う訳で何故ジュリアンが己の名を嫌うのか、長い間その理由を知る者は当人と親族以外にいなかった。
 だが、ここに来て一人だけ例外な女性が現れる。
 あえて書いておくが、ヴィヴィアンでは無い。
 その女性の名前はエミリー・フレイザーと言う、論曇のとあるパブで女給として働いている女性である。ジュリアンよりも年下の彼女は今だ少女の面影を残した可愛らしい顔に加えて、初々しく大人しい性格が人気となって、そのパブの看板娘として立ち寄る男性客の心を掴んで離さない存在であった。
 そんな彼女が、偶然友人達に誘われてやって来た見目麗しい青年と出会い、心惹かれ、より親密な仲になって行くのを一体誰が咎められると言うのだろうか、止められると言うのだろうか。ユノ、ヘラですら適わぬ事であろう。
 二人はお互い時間が出来ると、よく隠れて……それは傍目から見れば隠れても何でも無かったが……談笑したものだが、ある時エミリーは彼が自分の名前を呼ばれる時苦い顔をするのに気付き、その理由を聞いて見た。
「どうして、かしら?ジュリアン、さん。綺麗な名前だと思うのに……。」
 ジュリアンは何時もの通り苦笑いを浮かべてやり過ごそうとした。しかし、その時彼女がした意図しないで出た仕草……唇に指を当て、背の高い相手をその大きな瞳で見上げる……が余りに可愛らしかった為に、長い間語られる事の無かったその理由を告げる気になった。
「まず、君ならば僕に対してさん付けは要らない、と前置きしておくとして。」
 その言葉にエミリーの頬が染まって行くのに微笑みながら、ジュリアンは続けて言う。
「僕がこの名前を嫌いな理由は、ジュリアンと言うのが小便小僧に付けられた名前だからなんだ。ほら、あの蕪得木(ベルギー)のブリュッセルにある像の奴。いい年した男がそんな小僧と同じ名前なんだよ?でも、それだけだったらきっと気にはしなかったろうね。嫌いになった本当の訳は、僕の叔父にあるんだ。」
「あなたの叔父様?」
 エミリーの声に頷くと、ジュリアンは彼の叔父ジリアンについてゆっくりと語り始めた。

 醒歴1874年 五月 詠霧趣南西部 ウェールズ地方

 まだ冬の寒さがかすかに残る月の初め、ジリアン・カーティスはウェールズの片田舎にある森の中を歩いていた。
 カーティス家の二人の男児が一人、長子たるジュリアスは若くして金融面に秀でた才能を開花させ、莫大な富を得ていたが、その弟であるジリアンは労働に勤しむ等無かった。ジュリアスが資産を溜める事だけに興味を持ち、また元来性根の優しい事に眼を付けた彼は、その屋敷で正に放蕩生活を送っていたのである。
 折りしも当時の皇路覇(ヨーロッパ)では、資本家及び一部の中産階級に旅行ブームが到来していた。凄まじい勢いで鉄道が建築され、またその種の手引書が印刷、販売されていたのである。
 論曇生まれのジリアンが、都会の喧騒と悪煙から逃れて、自然豊かなウェールズにやって来たのも、その一環であった。尤も、職についていないこの男に、旅行即ち休暇が必要かどうかは甚だ疑問であるが。
 だが当の本人はその様な疑念等微塵も抱く事無く、ウェールズの自然を満喫していた。
 かつてブリテン島で栄えたケルト文化を色濃く残すここは、平地が広がるこの島において珍しく高い鉱山に深い渓谷が広がっており、人の手が入り込んでいない自然なままの荒々しくも美しき姿が見る者を圧倒する。
 人種化した保因者として吸血鬼や人狼並に名高いエルフ達が、北詠濫(きたイングランド)や相濫(アイルランド)を始めとするこの様な未踏と呼べる地にて、数百年の歳月を送ろうとするのも解ると言うものだ。いや、寧ろこんな場所で暮らせば、誰もが老いも死も忘れ、永劫の時を豊かに生きる事が出来るだろう。
 そんな放蕩者兼旅行者らしい気楽且つ無知な感想を抱きながら、ジリアンは鼻と口から一片に大気を吸い込んだ。原始の姿を残すこの森の空気は、明らかに密度が違う。濃厚な酸素が肺腑に満たされ、ある種の嗜好品を吸っている時の様な心地良さが血管と言う血管によって全身に運び込まれて行くのを感じながら、ふと彼は森の奥深くに、ちらりと小さく緑色に光る何かが飛んでいる事に気がついた。
 猫をも殺す好奇心がむずむずと沸き立ち、ジリアンは駆け出した。相手も彼の存在に気がついたのだろう、その何かは緑色の粒子を零しながら、奥へ奥へと逃げて行く。それを必至で追うジリアンだが、何分不摂生な生活を送って来た為に体が鈍ってしまっており、その走りは遅い。加えて、勝手気ままに直走った木々の根や枯れ草の絨毯が彼の脚を掴んで邪魔をする。一度等引っ掛かってこけてしまい、巨木の幹に熱烈な接吻をした事もあった。その隙に光る小さな何かは逃げ出す事も出来たのだが、何故かそれはある程度離れると立ち止まり、ジリアンが再び己の脚で大地を踏み締め、駆け出すのをじっと待っているのである。明らかにその何かは生き物であった。それも好奇心旺盛な。
 そんな追いかけっこを小一時間繰り返した末に、緑に輝く生物はぴたりと停止した。木の幹に虫の様にくっ付き、ジリアンが近付いて来てもそれ以上離れようとしない。ここまで全力で走って来た彼は首からぽたぽたと落ちる汗を拭いつつ、ごくりと生唾を飲み込んだ。脅かさぬ様ゆっくりゆっくり、右手に帽子を持って足音を立てずに近付くと、ばっと彼は飛び掛り、緑色のそれへ帽子を被せた。暫く立ってから、わずかに隙間を作り、そっと左手を伸ばす。かすかだが暖かく、か細い感触が当たった。震える手でそっと摘み、帽子の中から出した。
 ジリアンが掴んでいたのは、丁度羽に当たる部分だった。淡い緑にかすかに染まった、蜻蛉の様な二対の薄い羽である。そこからそっと視線を流して行くと胴体が見え、その羽が背中から生えている事が解った。
 驚きの余り、ジリアンは指を離しそうになった。
 彼が今掴んでいるもの、いや者は、二インチ程度の小さな少女であった。人間の縮尺に合わせれば、一糸纏わぬその裸はすらりと伸びて実に可愛らしく、淡い緑色をした腰程まである髪が妖しく靡いている。その一本一本が輝いており、そこから緑の粒子が、ジリアンの粗い呼吸によって吹き飛んでは消えて行った。
 その姿は正しく伝説伝承に聞く所の妖精であり幻想的で美しかったのだが、それよりも何よりもジリアンを引き付けたのは愛らしい顔に付いた小さくとも色香を漂わせる唇であり、またそこから囁かれるかすかな声であった。虫の羽音の様な、そもそも言葉になっていない……少なくとも、詠語で無いのは確かだ……小さな声だったが、何故か耳に残って離れない。何時までも頭の奥でチリチリと鈴の音の様に反響し、止まらないのである。それは阿片や大麻なんかとは比べ物にならない非常な快楽を彼に与えた。
 余りの快感に遥か彼方の他界にある理想郷に到達していたジリアンは、その声色が強まっている事に気が付き、はっと現世に帰った。その女性の顔を見れば明らかに眉を吊り上げて怒っている。その時になって始めて彼は自分が無作法にも羽を摘んだままだと言う事実に思い至り、慌てて離した。
 解放された彼女はにこりと笑って見せると、音も無く羽を僅かに振動させながらジリアンの頭を一周して見せた。そして、彼の肩にそっと立つと、耳元であの狂おしき声を囁くのである。彼の頭は沸騰寸前の薬缶同然だった。そっと首を傾ければ、耳からどろりとチーズの如く溶け出した脳汁が溢れ出そうである。
 暫くして、漸く我を取り戻したジリアンは、この妖精を連れて行く事に決めた。元より手放そう等と言う考えは、微塵も思い浮かばなかった。彼は自らの上着の胸ポケットをそっと開くと、もう片方の手で手招きしながらおいでと一声掛けた。先程も、そして今もまた逃げずに接してくれている事で、何故かは知らぬが自分に懐いているのではと期待したのだが、その期待は見事に当たった。
 妖精はくすりと言う音が聞こえそうな完璧な笑顔を作ると、その中に飛び込み、もぞもぞと奥の方に入って行く。その様子にジリアンは有頂天となり、そっとポケットを押さえながら喜びの悲鳴を上げた。
 彼はそのまま、一目散に論曇にあるカーティス家の屋敷へと帰って来た。旅先で得た思わぬ素晴らしきものの為に、全ての事がどうでも良くなり、予定を繰り越してきたのだ。メイドのヴェロニカが出迎え、兄ジュリアスが旅はどうだったかとにこやかに聞いて来たが、それら一切を無視して彼はさっさと部屋に篭ってしまった。
 カーテンをぴっちりと閉じたあの森の如く薄暗い部屋の中で、ジリアンは妖精を愛でた。
 彼は妖精にジルと名付けた。自分の名とも繋がる、可愛らしい正に妖精と言った名前である。
 彼女は人懐っこい性格をしていて、決して彼から逃げようとはしなかった。寧ろ自分から男に寄り添い、美しい笑顔を湛えながら、耳元であの囁きを発したのである。その声の意味はやはり解らなかったが、しかしただ鼓膜を振るわされるだけで充分だった。彼はジルが肩に乗り、唇を動かす度喜びに打ち震えたのである。
 ジリアンはそうやってずっとジルの寵愛を受け続けた。家からは一歩たりとも出ようとせず、食事も部屋に運ばせ、それこそ文字通りずっと、である。ジルの方の食事は、髪の毛が丁度植物の葉の様な効果を持っているのか、日光と少しの水があれば事足りた。故にその姿は誰にも見られず秘密の存在のまま、二人の時は過ぎて行った。
 そんな生活が一ヶ月程経過したある日、ジリアンはふと彼女をずっと隠していて良いのか、と言う気になった。
 先程からずっと妖精と言う言葉を持ってジルを言っているが、実際の所本当に妖精なのかどうか定かでは無い。ただ叔父にはそう見えるだけ、と言う話である。しかしながら、原因不明の何かによって人外存在となった保因者(キャリアー)が跋扈する大詠帝国に置いても、この妖精”の様なもの”が存在している等聞いた事も無かった。
 これは機会なのでは無いか。幼い頃からジリアンは取り立てて秀でたものを持たない人間であった。学校での成績も、世間からの評判もジュリアスより下に見られていた。それは当人の努力の成果であったのだがしかし、何をやっても卒なくこなす兄の姿は、知らぬ間に弟から意欲を奪い、結果としてその評価も下げた。
 このジルは栄誉と名声を与えると共に、そんな自分を変えてくれる存在足りえるのでは無いか。
 ジリアンは彼女を指で愛でながらそう思い、そしてそれは直ぐに確信に変わった。
 久方ぶりに外に出た彼は、周囲の心配を余所に明朗快活とした様子で、見せたいものがあるから皆を招待したいと盛んに言った。更に親族だけで無く、知人友人にもその旨を伝え、更にジュリアスの伝を頼りに新聞社にまで、世にも珍しいものを紹介したいから是非記事にしてくれ、と言う手紙を送る始末である。
 かくして数日後、カーティス邸に沢山の人々が集まる事になった。カーティス兄弟の芳しくない方が一体全体どんなものを見せてくれるのか、と一同、期待半分不安半分と言う所で、主催者が来るのを待っていた。
 やがて、この日の為に降ろした新調し立ての服をきっちりと着込み、黒い布を被せた鳥かごを持ったジリアンが皆の前に姿を現した。この日を持って一変するであろう自分を想像し、また周りからの好奇の眼に晒されて、彼の顔は紅葉している。すぅと軽く深呼吸をし、高鳴る心臓をぐっと押さえた後、咳払い一つしてから彼は唇を開いた。
「皆様本日はここカーティス邸に集まって頂き、真にありがとうございます。この度当家に来て頂いたのは、皆様に世にも珍しく、それでいて素晴らしき者をお見せする為に他なりません。ここにお持ちしました鳥篭の中には、私がウェールズの森で見つけました者が入っております。そう、物では無く者、つまり生きているのでありまして、まぁ直ぐに見せるのですからお隠しする必要もありませんが、この中にいる者こそあの伝承伝説に聞く妖精なのでございます。」
 服同様この時の為に練習した演説に皆盛大に反応し、ざわざわとどよめいた。
 その反応に至極満足しながら静まるまで待つと、ジリアンは再び咳払いをして鳥篭に掛かった布を掴んだ。
「ではお見せしましょう、これがその妖精、ジルですっ。」
 ばっと布が取り払われる。一同の視線が、晒された鳥篭の中に注がれた。
 それよりも速く、鳥篭から緑色に光った何かが飛び出した。ずっと暗闇の中に居た為か、或いは大勢の人間に驚いたのか、定かでは無いが、ジルが鳥篭から逃げだしたのだ。籠は皆を驚かせる為の舞台装置として用意していたものであり、強引に捕らえて置く為のものでは無い。故に鍵は掛けていなかったのだ。まさか出てくるとは思っておらず、ジリアンは咄嗟に何も出来なかった。存在自体知らぬ者達は、ただぽかんと、その光を眼で追うのみだ。
 慌ててジリアンが静止する声も聞かず、粒子を迸らせながら人垣を駆け抜けたジルは、隅に居た少年の前で停止した。六歳程度の可愛らしい少年は、目の前で浮遊している妖精を大きな瞳でじぃっと見つめた。
 そしてふいにぱちん、と。
 その小さな両手で思いっきり、妖精を挟み込んだのである。
 少年の取った突然の行動に誰も何も出来ず、唖然としたまま立ち尽くした。
 重苦しい沈黙を破ったのはジリアンであった。
 人波を掻い潜り、少年の前に現れた彼は、溺愛するジルが目の前で潰される瞬間を目撃した。驚きの余り一瞬我を失った彼はすぐさま意識を取り戻すと、少年の側まで駆け寄り、その手を無理矢理開かせた。そこには痛ましい姿となった彼女の残骸が、緑色の液体と共にへばり付いている。彼は震えながらそれをハンカチの中に集めると、ポケットに優しく、それ以上壊されぬ様そっと仕舞いこんだ。
 そして突然、人間とは思えぬ猛烈な咆哮を上げると、ジリアンはやおら少年の細い首に掴み掛かったのである。もしその時回りに居る人間が止めなければ、彼は少年をくびり殺していただろう。それだけの勢いがあった。
 力任せに連れられて行くジリアンを驚いた様子で眺めながら
「ジュリアンッ。お前は一体、なんであんな事をしたんだっ。」
「だって……気持ち悪い虫が飛んでたんだから。本当に気持ち悪かったんだよパパ。」
 少年ジュリアンは、父親であるジュリアスの問い掛けにそう応えていた。
 この言葉によって、実際にちゃんと見ていない者達の風評は決した。人々はペテンと言う訳では無いだろうが大方ちょっと変わっている程度の虫だったのだろうと噂し合い、記者達は虫では記事に出来ぬと肩を竦めて見せた。
 栄誉も名声も得られぬ所か愛する者まで失ったジリアンは実に酷い有様であり、とても真っ当に外を出歩ける状態では無かった。突然号泣したかと思えば、周囲の物に怒りの矛先を向け、挙句若きウェルテル並の自殺騒ぎまで巻き起こしたのである。しかし、メイドのヴェロニカが渾身的に介護すると次第に落ち着きを取り戻し、また彼女と共に数年を掛けて皇路覇横断旅行に出掛けた……その途中の土壱(ドイツ)にて、あのヤーコプ・グルムバッハによる1878年十一月九日の鐘琳(ベルリン)事変に巻き込まれると言う不運にもあったが……結果、完全にその精神は回復した。その間に意欲を取り戻した彼は、自らの脚で役人の仕事に着き、兄の元から離れて行った。
 ただ、それでもジルを手に掛けたジュリアンに対するわだかまりは残っていた様で、ジリアンは彼と逢う度に、
「この小便垂れの小僧が余計な事をしなければ、俺も今頃は名士の仲間入りをしていたんだがなぁ。」
 と半ば冗談で、半ば本気で呟き、その度に当時の状況を知る者達に複雑な笑いを浮かばせたのである。
 所でそのジュリアンはと言うと、幼かった為だろうか、何とあの時の事をすっかり忘れていた。だから叔父に逢う度に、自分が小便小僧等と覚えの無い悪口を言われ、子供ながらに酷く傷付いていたのである。

「だから僕は自分の名前が嫌いになったのさ。あの人は、僕が何度抗議しても全然聞かなかったからね。ジュリアンジュリアンそいつぁ小便垂れの小僧の名前だどうしようも無い位お前には相応しいなっ……きっと旅行して来た時に実物を見て、由来を聞いて来たんだろうけど、そうやって僕に向かって何時も言ったものさ。」
 そう叔父の真似をしてエミリーを笑わせたジュリアンは、ふと感慨深げにその過去を思いやった。
 今考えれば自分がした事は、余りにあんまりだ。叔父が激怒したのも当然だ。あの人には酷い事をしたと思っている。それだと言うのに、冗談半分に悪態を付く程度で許してくれていた彼には全く頭が下がる想いだ。
 ただ、あの行為が本当に悪い事だったのか、と言うと少し疑問である。
 と言うのも、親身になって彼に尽くし、その後彼の妻になったあのヴェロニカがこんな話をしたからだ。
「ジリアンは……尤も、あの頃は様付けでしたけど……妖精と一緒にいる間部屋から出ようとはしませんでした。他の人と接するのも、私が食事を持って行く時位で、後はずっとアレの側に居たのです。正直に言えば引き篭もっている間の彼はとても気味が悪かった。真夜中だと言うのに突然奇声を上げたりして、それを聞く度に生きた心地がしなかった。母に連れられてあの家にやってきて、小さな時から一緒だったから知ってるのですが、彼は不器用だけど優しい人でした。それを知っていたから、大きくなって仕事をしなくたってきっと何時かは真面目に……そう思っていたのにあんな……嗚呼、ジュリアン。貴方がアレを潰してくれた時、私がどれだけ嬉しかった事かっ。」
 ジルと名付けていた妖精に、叔父がどの様に接していたのか。その詳細は解らない。がしかし、周囲からは不気味に写るものであったのは確かな様で、実際話を聞くと彼の様子は尋常ではない。まるで妖精に取り憑かれていた様だ。もしあの後もずっと一緒に居たらどうなっていたか、と考えるとどうしても悪い想像になってしまう。
 とは言え、人間の幸不幸等その当人の基準以外で図れるものでは無い。
 果たしてジリアンは妖精を失い幸福だったか、不幸だったのか。失っていなければどちらだったのか。その答えは、本人にすら最早解るまい。彼は、この話をジュリアンにした数日後に息を引き取ったのだ。自ら死期を悟り、遺言代わりに甥に伝えたかったのだろう。いなくなってまでわだかまりを残すべきではない、と言う計らいから。
 そして結局彼が手に入れ愛した存在が、本物の妖精だったのかそれに近しい者だったのか。或いはただ緑色の光がそう思わせるだけの、純粋な子供の眼に映った様な気持ち悪い虫だったのか、それ以上におぞましい”何か”だったのか。それももう解る事はあるまい。
 何故なら、叔父が落ち着いた後も手元に残していたジルの残骸は、数前にフィナル・グモールと名乗る碧髪の怪しげな詠国紳士によって法外な値段で買われ、今はどうなって何処にあるのか定かでは無かったからだ。



スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://tasogaremignon.blog79.fc2.com/tb.php/501-5cb44f81
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。