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 本来ここにはまだ載せるつもりは無かったが、ちょっと予定が変わったので上げておく。
 風が頬を掠めながら、背に生えた翼の間を潜り、尾の先へと通り過ぎて行く。青色と褐色の狭間にある、ここは私の場所。私の領域。私の世界。かつて私が在った場所、這いずり回った大地とは比べる必要も無い程に自由である地。羽根を畳みながら、木々の隙間へと降りた私は、首を上へと向け、我が領地を見上げた。昔はただそうしているだけだったが今は違う。この翼を広げ、力一杯に跳び立てば、直ぐにあの天へと赴く事が出来るのだ。私は大いに満足し、休息に入るべく瞳を瞑った。それから一体どれ程の時が立ったかは解らなかったが私ははっと目覚めた。今、近くに何者かが迫っている。いや、何者かと言うのは正確では無い。それはかつて私とその仲間達を追い立て、狩って行った者達の匂いであった。馬に跨り、犬を引き連れ、火を噴く枝を持ってして、彼等は私達を倒して来たのだ。その度に皆震え、逃げ、そして死んで行った。私はそんな彼等から臆病にも背を向け、全力で森を駆け抜けた事で生き延びた者だ。自分の妻子すら置いて来た卑怯者だ。力無い弱者だ。しかしそれも既に過去の話である。あの今にも堕ちてしまいそうな星空の向こうからやって来た黒い塊によって、私は変わった。今の私は彼等の届かぬ天に属し、力在る強者となったのだ。私は抑えきれぬ怒りによって翼を広げると、勢い良く彼の者の頭上へと赴き、我が得た最大にして最強の力をその喉元から振り絞って、驚き慌てる人間の雄へ向けてそれを吐き出し、そして――

 醒歴1885年 三月 詠霧趣(イギリス) 論曇(ロンドン)

 そしてロバート・フレイザーは絶叫を上げながら目覚めると同時に、己のベッドへ吐瀉物をぶちまけた。
 ぜぇぜぇと荒い呼吸を上げながら呻いている彼の怠惰と老年によって生来から更に良く肥えた体は熱っぽく、全身から噴出した嫌な汗によってぴっちりと寝間着を貼り付けている。一日一回は剃刀を入れて整えている口髭にも、後退し今では頂上部を抜かしたその周囲にのみ力なく生えた髪の毛にも珠の様な汗が滴っており、シーツに飛び散った黄色い据えた匂いのする液体の上にぽたりぽたりと落ちては、王冠状に弾けた。
「……またあの夢が……。」
 唇から汁を、首から汗を拭いながら、忌々しげにロバートは呻いた。
 自分が自分では無い何者かになってしまう。そんな悪夢を見たのはこれで三度目である。
 一度目は何処とも知れぬ大地を駆けずり獲物を追い立て、狩人に追い立てられ必死に逃げ回る夢。二度目は妙に明るい夜空から降って来た、闇の中でもその黒さが窺い知れる何かを食し、熱病に倒れる夢だった。
 それらは全て夢であるにも関わらず、奇妙な物語性と迫真の現実味を帯び、非常な焦燥感を煽っただけでなく夜毎酷くなって行く。つまりこの三度の夢は、三日前の夜から連続してロバートを苛んでいたのである。
 彼はうんざりした様子で、口内に残った夕飯の残骸を舌で掬い取ると、べっと先に出した蕩けかけの肉や野菜の中に吐き出した。吐くのは今回が初めてだった。夢の中での自分は一体何をしようとしていたのか。薄れ行く夢の残滓の中から読み取る事は出来なかったが、ろくでも無い事だろうと予測は出来た。
 そんなろくでも無い悪夢にあって唯一の救いと言えば、何故そんな夢を見るかが解っていた事だ。最初にその理由は解らなかった。次の時、もしやと思った。そして今日、疑心は確信へと変わった。とは言え、心許ない自分の思考が変わったからと言って、他に何が変わる訳でも無かったのだが。彼ははぁと溜息を付いた。
 その時、ロバートの耳にばたばたと廊下を走って来る音が聞こえ、ばたんと扉が開け放たれた。
「大丈夫ですか、お父様っ。」
 現れたのは彼の娘のエミリーである。薄い寝間着もそのままに掛け付けて来た少女の顔は心配によって青く染まり、そちらが倒れてしまうのではないかと逆に父を不安にさせた。そして現れたのは彼女だけで、妻ケリーの姿は見当たらない。恐らく今だ眠り扱けているのだろうあの女は。夫がこんな状態にあると言うのに。
「まぁお父様。吐いてしまわれたのですね……一体どうしたと言うのですか、お顔が優れませんが。」
「……いや大丈夫。ちょっと悪酔いしただけだ。もう良いから、お前は行きなさい。」
「でも凄い汗……新しい服に着替えないと、風邪を引いてしまわれます。直ぐに服をお持ちしますね。」
「ああ、いやいや結構だ。服位自分で用意出来る。子供じゃないんだ、放っておいてくれ。」
「でもお父様……。」
 その逆にこの娘と言ったらどうだ。何時も何かに怯え、おどおどと落ち着きが無い。それは短所であり、また長所にもなっただろう。だが後者の風にロバートは取れなかった。何故なら、エミリーの性格は自分と瓜二つであったからだ。自分はその性格故に苦労して来た、いやいるのだから好きになれよう筈が無い。
 彼は深い溜息を付きながら、半ば諦めた様子で、娘に言った。
「解った。それじゃ、代えのシーツと服を取って来てくれ。」
「……はい。」
 申し付けられたエミリーは、少し安心した様子で頷くと、ぱたぱたと洋服棚へと掛けて行く。
 その背中を眼で追いながら、ロバートは再び溜息を付いた。全く、あれが少しでもケリーに似ていれば良かったのに。哀しい程に彼女は自分に寄ってしまった。それが逆では無いだけまだマシと言うのがせめてもの慰めであるがそれでももし、上手い具合に両親の心根を娘が受け継いでくれたならば、この家族もここまで酷くならなかったろうに。
 そんな事を考えながら、彼の思考は悪夢を見る様になった理由へと向けられた。

 三日前

 その日もロバートはケリーにこっ酷く言い負かされ、うんざりした気持ちで行き着けのパブに駆け込んだ。
 祖父の代から細々と営んできたフレイザー雑貨店は、堅実且つ着実な商業により大金持ちと言う訳では無かったが、長い間溜めらて来た貯蓄によって、そこそこの小金を持つに至った。ケリー・ブラウンがロバート・フレイザーと結婚したのは、自分のそれ程裕福ではない家柄と売春宿で一番になる程度の器量に見合ったそんな小財産を得る為であり、肥満気味の青年を愛していたからでは決して無かった。強いて言えば、その肉付きの良い頬にちょこんと付いた小さな目が可愛いと思った位である。従順な牧羊犬を思わせて。尤も、ロバートはロバートで、ケリーの顔と体だけしか見ておらず、その中身についてはこれっぽっちも考慮していなかったので、お互い様と言えばお互い様であったが。
 その様にして結婚した二人が上手く行く筈も無く、彼等は度々ケリーの金遣いの荒さ(夫曰く、「一体何にどう使えば、こんな一気に金庫の金が無くなると言うんだっ。」)と娘の頼りない態度(妻曰く、「こんな愚図な娘見た事無いわ、全く誰に似たのやらねっ。」)について喧嘩した。ほぼ一方的な展開となり、尚且つ毎回勝つ方が決まっているそれを喧嘩と呼ぶならば、と言う話だけれど。ともあれ、ロバートとケリーの仲は芳しく、力関係は明らかに妻の方が勝っており、夫の憩いの場所はこの論曇の何処にでもありそうな酒場のカウンター、その一番隅位である。
「マスター、もう一杯ジンをくれ。いやぁ一杯だけじゃ足りない、もっとだ、もっと遣せ。」
「そろそろ止めにして置いた方が良いんじゃないかなロブ。体に障る。奥さんや娘さんだって心配しているさ。」
「誰が心配するだって?心配?あの女が心配なんてした事があったか、えぇおい。気が回らないなマスター、まるでうちの娘みたいだ。のろくて一人じゃ何も出来やしねぇ木偶の坊さっ。あんたよぉ、あんな奴等の事を出すんじゃ無ぇぞ。出すんならさっさとジンを出せっ。勿論タダじゃねぇ、金は出す。俺の金だ、それで酒を呑んで何が悪いっ。」
 普段でもその席にて適量とは言い難いジンを呑み、体を崩し心を癒すロバートであったが、今日の量はその普段の裕に倍を超えていた。マスターは毎日毎日愚痴を言い募る彼によってその内情を知っているからこそ、こうなってしまっては何を言っても意味を成さないさと肩を竦めて、食器の片付けに取り掛かり始めた。
 ただ一人残されたロバートは、カウンターに頬をつけ、自分にしか聞こえぬ悪態を付き始める。空のジョッキに僅かに残った水滴を舐めながら、少しでも我が身を慰める為に。だが哀しいかな、口から吐き出される妻と娘への罵詈雑言も結局己の耳から、中へと戻って来る。自らの言葉によって、彼はこの上なく惨めな気持ちになった。
 俺は一体こんな所で何をやっているのだろう。いや、それは全てに言える事だ。今の自分は酷く滑稽に見えるだろう。こんな場末の酒場で沈んでいて、その主人にすら見捨てられた。家に帰っても待っているのは、十二月の炉髭吾(ロシア)よりも冷え切った関係の妻と、阿真利火(アメリカ)南部の黒んぼより使えん娘だけだ。残っているのは店と金位だが、それだって完全に俺の物とは言い難い。店は家系のもので、金は半分以上妻のものだ。そうなると、これが誰にもやれぬ俺の持ち物だと断言出来るものは、実は何にも無いと言う事になる。女房にぐだぐだ言われながら、娘のおたおたした様子を眺めつつ、汗水垂らして働いてせこせこと金を作り、だが結局ろくな使い方も出来ずあの女に横取りされて行く。俺は自分の為に、慎ましやかだが楽しく生きる為に働いているつもりだが、一つも身にはなっていないのだ。嗚呼、何と言う人生なんだろうか。
 そんな思いは小言に乗って彼の内側と外側を回って煮詰まった末に、ある一つの帰結へと向かった。即ち、
「あ~……畜生。もっとしっかりしてたらなぁ、強かったらなぁ……こんな風にはならなかったろうに……。」
 そうロバートは呟いた。それは人外の存在を生み出す大陸譲りの因子、人々を死に至らしめている恐るべき梅毒、一時の快楽の為にその後の人生を奪って行く阿片、生活には欠かせない紅茶の次位に、或いはそれと同じ程度に広まっているジンの酔いによって紡ぎ出された言葉だったが、その台詞はそれ故に嘘偽りの無い純粋な心情の表れであり、
「強くなりたいのですか?」
 その手の願いに敏感な、つまり悪魔的な者を招き寄せるだけの力を持っていた。
「……何だお前は。」
 唐突に声を掛けられ、ロバートはそう言いながらさっと振り向いた。そこには一人の男が立っている。袖の大きいな黒い東洋風の服と帽子を身に着け、丸い縁の眼鏡を掛けた姿が実に怪しい。黒い短髪と同じ色をした瞳、そして妙なイントネーションからこの男は華僑であると断定したロバートは、邪険に手を払った。
「強くなりたいのデスか?」
 その態度を全く意に介さず、男はロバートの隣に座る。彼はそのままマスターに向けてジンを一つ頼むと、店の主がじろりと見るのも気にせずにロバートの横へジョッキを置いた。一体この男は何者なのだろうか、と思いながらも、しかし目の前にある誘惑はとても抗いきれるものでは無く、彼はおずおずとジョッキを掴むと、男が頼んだそれをぐいと喉に流し込んだ。ゆっくりと生温く注ぎ込まれた無色の液体は、直ぐに心地良い熱さをロバートに与える。
「満足していただけマシタか?」
 と、その光景を硝子越しに見ていた男が笑い掛けて来た。胡散臭い事に代わりは無かったが、既に魅惑に負けて奢りを呑んでしまった為追っ払う事は出来ない。二口目を味わいながら、ロバートは男の方に向き直った。
「お前何者だ?」
「私は王文竜(ワンウェンロン)。見ての通りのしがない物売りデスよ。」
 男はそう名乗ると、ついっと帽子を胸元で抱えながら頭を下げた。
「ふーむ、それじゃウェンロンさん、お前俺に何の用だ。強くなりたいのか、って、ありゃどう言う事だい。」
 膨れた頬を赤く染め、三口目を含みながら放たれたロバートの問いに、彼は足元から皮製の小さな鞄を取り出すと、そっと開けて、中から赤錆の様な色をした液体の入った小瓶を取り出した。その色彩だけで十二分に不快であり、ロバートは顔を顰めた。反対に文竜はにやりと笑うとこう言って見せる。
「これは、私の友人が作りました、ある種の強壮剤デス。」
「強壮剤?」
 首を傾げてロバートが聞き返すと、文竜は不快な笑みもそのままに力説を始めた。
「そう。これこそは、二千年の時を生きる魔女モルグが生み出したケルトの秘薬ッ。紅き翼の雄々しき竜の血を中心に、狂おしく人を惑わす妖精の残骸、勇猛果敢なるゴブリンの王の爪の垢、老若男女誰をも惹き付ける美貌を持ったエルフの髪の毛、その他幾多の薬草を練り込ませた末に、数年間熟成させた後に生まれた稀代の霊薬ッ。これを一口でも飲めば、立ち所に体から心まで力漲り、別人と見紛う如くその者を変異させるデショ。サァ、どうデス、お一つ?」
 死体安置所(モルグ)で作られただの、竜が妖精と交わっただの、やぶ医者だってもう少しまともな文句を考えるだろうに。その余りに胡散臭過ぎる言葉と共に、こんな輩を招き寄せた自分の有様に苦笑いを浮かべるロバートだったが、何故かその薬の事が気に掛かる。東洋人風情の言う事を信じた訳では毛程も無いが、どうせ妻も無駄なものに金を使っているんだから俺だって、と酔った勢いで思った彼は、かかっと笑いながら文竜を見て、
「そりゃさぞ素晴らしいもんだな。では一つ貰おうか。で、代金は幾らだ?」
「要りマセン。」
「……何だって?」
 彼の返答に、思わず耳と脳の動きを疑った。金を貰わない押し売り等居る訳が無い。
「要りマセン、と言ったのデスよ。お代は結構、と。」
 だが、どうやらこの華僑は本気でそんなある訳の無い事を言っている様だ。疑うべきはあちらの頭であったらしい。或いは余程やばい薬なのだろうか。ロバートの中でかすかに不安が起こる中、彼の様子に気付いた文竜はにこやかに首を降りながら続けて言った。
「申し忘れマシタが、それはまだ商品としては完全ではありマセン。ですから、貴方に試して頂きたいのデスよ。あえて言えば、お代は体で、と言う訳デシテ、強いて言えば一週間後にまたここに来て頂きたい……それ位デス。」
 ますます持って信じ難い話である。ロバートは眉間に皺を寄せながら文竜を見た後、薬へと視線を移した。
「……うぅ~む。」
 だが、それでも尚この薬が気になる。この奇妙な薬が気になって仕方が無い。見た目も然る事ながら、その効能を詠った文句が非常に気になるのである。果たして、それが真実なのかどうかは不明だが、もしこの薬を飲む事で見違える様になると言うのなら、試して見る価値があるのでは無いか。何故この男が自分にそんなものを渡そうとしているかは解らないが、無料だと言うのだから損にはなるまい。
 暫く思い悩んだ後ロバートは、徐にコルクを取り外すと小瓶の中のどろりとした液体を口の中に含んだ。
 瞬間、肉の生臭さと草のえぐみが入り混じった、今まで感じた事の無い味が舌の上で踊り狂う。思わず胃の中身をぶちまけそうになった彼は慌ててジョッキを取ると、残っていたジンを一気に飲み干し、胃液をせき止めた。
 今だ舌に残る嫌な後味にロバートはげぇと舌を出して喘ぐ。その隣で、文竜はにこやかに笑っていた。
 その後マスターから貰った水を飲んでも尚拭いきれぬ気持ち悪さに居ても立っても居られず、、文竜を置いて早々に家へと帰ったロバートは、ケリーの小言も聞かずベッドに入った。だが、直ぐに得体の知れぬ火照りと、自分が自分では無い何かになって生きる悪夢、その日から脈々と続く悪夢によって飛び起きる事となる。

 そしてその悪夢は今日この日を持って、ついに三回目を迎えた。
 原因は明らかにあの華僑の商人が持って来た薬に置いて他ならない。それ以外考えられまい。
 代えの服とシーツと共に、娘が持って来た水で一息つきながら、ロバートは三日前の自分を忌々しそうに思った。
 あの日のロバート・フレイザーはどうしていたと言うのか。ちょっと考えればあんな文句嘘っぱちも甚だしいのに、そんなものに惹き付けられて毒薬を飲んでしまうなんてっ。酔っていたとは言え、ちょっとばかり酷過ぎる。
 だが、それとは別にある種の期待を感じているのも否定出来ない事実であった。
 男……ワンウェンロンは何と言っていたか。確か、商品として売れない未完成品と言っていた筈だ。なら、色々と不備があるのも当然じゃないか。それに、何かしら変化があると言うのは効果がある証拠だろう。
 彼の心の中で、そんな相反する思考が激しくぶつかり合っていた。

 激突。そう、激突だ。我が肉すら焦がしかねない温度と衝撃を保って飛んで行った息吹が、粗末な巣箱を吹き飛ばす。脆い木が、軟い石が、灰となって私の領地へと跳ね上がる。おおっ、それと共に甲高い悲鳴を上げながら空へと舞い上がって行くあの愚かな者達の姿を見よっ。小賢しい浅知恵ばかりが発達した尾も無ければ、毛も少ない猿どもめ。我が同胞を見舞った責め苦を、我が身で受ける気分はどうだ。その痛みが我等の痛みだ。その苦しみが我等の苦しみだ。その怒りが、悲しみが我等のものだ。思い知るがいい、自分達の思い上がりを。そして全身全霊に刻み込むがいい、その恐怖を。そら、誰も逃げる事等叶わぬぞ。子供であれ老人であれ、雄であれ雌であれ、我が牙から我が爪から我が尾から我が息吹から、逃れる術等ありはしないのだから。出来る事と言えば即座に飛び出て灰となるか、巣箱に隠れて諸ともに塵と砕けるか位だ。どちらでも結果は同じ、ならどちらか選ばせよう。さぁ、どちらだ。好きな方を選ぶがいい。早くしろ、直ぐに決めなければこちらが勝手に選んで――

 だが後者の考えは、嫌悪感と四日目の夜に見た悪夢によって聊か薄らいでいた。。
 今回の悪夢は前にも増して酷い。何処かの田舎の農村を、自分が暴れ、襲っていると言う光景だ。荒ぶる感情が言葉となり頭の中を攪拌し、ロバートに今が夢か現かを、それ所か自分が何者なのかすら忘れさせた。気が付けば彼はベッドの上で奇声を上げながら跳ね回っており、それをエミリーが、そして今回ばかりは起きてやって来たケリーが必死にしがみ付き、抑えている所であった。
「貴方まさか薬でもやってるんじゃないでしょうねっ、それとも酒のせいでどうかなっちゃったのかしらっ!!!!」
「い、いやまさかそんな……。」
 娘が心配して見ている最中、妻は殴って正気を取り戻させた夫に向かって、そう怒鳴り散らした。ロバートの方は一言二言反論を口にするが、やはり歯切れが悪い。何せ、薬をやった事は否定出来ない事実であるのだから。
 夜中に起こされ不機嫌そうに自室へと帰って行くケリーの背中を見ながら、彼はやはりあれは毒薬ではと疑った。
 それでも一度服用してしまった以上、もうどうしようも無いのだが。少なくとも、あの約束の日までは。

 そんな懸念とは余所に、次の日も悪夢は訪れた。
 だがしかし、それは今まで見たものとは少々趣が違った。

 下腹部に力を込め、中で造られた異物をひねり出す。ぼとりと言う音と共に私が作った巣の中に落とされたそれは、白い楕円形の卵。我が体と比べれば、一体どれ程の大きさか判断出来ようが、その卵はかなり小さい。或いは私が大きいのだろうか。それはしかし、どうでもいい。重要なのは、これを私が産んだと言う事である。それもたった一人の力で。かつて私は、同胞と番う事で子を成した。それは直接産み落とされたのだが、今は違う。これも、私の変異によるものなのだろう。私はこの姿になってから、この格好と似た同胞を見た事が無い。もしかしたら同胞は他に居らず、私一人しかいないのかもしれない。それ故に、我が中に卵が宿ったのかもしれない。なら、尚の事、この卵は重要になる。私とまだ返らぬこの子だけが、種なのだ。ならば、命を賭して守らねば。それが私の――

 うなされる事も暴れる事も無く、ロバートは自然と目を覚ました。ちょっとした粗相を起こした事……実に恥ずかしい事だが、年甲斐もなく夢精していた……を抜かせば、体も無事で心も穏やかであり、実に爽やかな朝である。
 この変化が一体何に起因するのか、それは解らなかったがしかし、心地良いのだから別に構うまい。
 彼は清々しい気分で居間へと向かうと、エミリーとケリーがたじろぐ程上機嫌に挨拶をした。ここ数日、ろくに店先に出られなかったが、今日は朝からきっちり働き、充分な稼ぎを得る事が出来た。
 だが、変化はそれだけに留まらなかった。もっと大きな変化が起こったのである。
 即ちその次の日、六日目の夜にロバートは夢を見なかった。
 目覚めも良好である所か、歴然とした力が血管の中を脈打つのを感じた。老いと酒、そして心労の中で衰えていた体が、昔に若返った様である。いや、仮に本当に十年二十年前の体になったとしたならば、こんなに溌剌とした気分になる筈が無い。余分な贅肉をたっぷり揺らす若かりし日の彼は、それに見合って活動的な事をしようとは考えもしなかったのだから。だが今の心は、体に明朗なる行動を要求している。
 素晴らしい限りだ。ロバートは小躍りしそうな様子で、実際にスキップなんかを刻みながら居間へと現れ、先に朝食を取っていた妻と娘を唖然とさせた後、何時にも増して熱心に仕事へと取り組んだ。

 そして再び夜は明け、昼は巡り、約束の日の夜が訪れた。
「いやぁ色々あったがあの薬は本物だっ。素晴らしいっ。こんなものがタダとは申し訳無い位だっ!!!!」
「それは良かった。私どもとしても、嬉しい限りデスよ。」
 例のパブのカウンターにやって来たロバートは、現れた文竜にジンと共に、多大な賛辞を送った。黒服の華僑はそれを丁重に受け取ると実に豪快な飲みっぷりを見せ、二人は……実際はロバートが今までの出来事を騒ぎ立て、それを文竜が聞いているだけなのだが……安酒場の隅で盛り上がった。
 マスターがいい加減店を閉めたそうな顔をし始めた頃、ロバートはふと最初に浮かんだ疑問を口に出した。
「そう言えばウェンロンさんよ。」
「何デショウか。」
「お前、何であの薬を俺にくれたんだ?別に、試すんだったら誰だって良かったんじゃないのか。」
 文竜は、嗚呼その事デスか、と歯を見せて笑いながら、眼鏡を煌かせつつこう応えた。
「前にも友人は同じ様なものを造り、ある男に飲ませマシタが……逆に、呑み込まれてしまったのデスよ。」
「そりゃつまり、薬にかい?」
「……そうデスね、そうとも言えマス。薬によって、余りにも彼は変わってしまいマシタ。別人、いえアレはもう人じゃ無い。強過ぎた感情が、彼を竜の様な化物に変えてしまったのデス。だから彼女は現代の人々の体に合う様調合し、そして呑む者を選ぶ事にしたのデス。程ほどな性格の人間へ、強くも無く弱くも無い感情の持ち主へ、と。」
「ふぅ~む……。」
 正直聞き終えてもロバートには何の事だかさっぱり解らなかった。何か酷く失礼な事を言われた気がするが、だが彼は恩人、些細な事で怒ろうとは思わない。ロバートはジョッキを掲げながらにやりと笑って、
「まぁ、俺なら大丈夫って事だな。見ろ、酒にだって呑まれて無いさ。」
 そう返す。事実、既にロバートは普段の彼ならとっくに潰れる量を呑んでいたが、少し頬が赤い位で全く酔った気配が無い。ろれつもしっかり回っており、ちゃんと受け答え出来る程度に思考はしっかりしていた。
 その言葉を聞くと、文竜は同じ様ににやりと笑いながら立ち上がり、
「それならば結構。では私はそろそろ……このままずっとその調子でいる事を期待してイマスよ。ずっと、ね。」
 ずっと、と言う言葉に矢鱈力を入れるのにロバートが訝しがっている間に、さっとパブの外へと出て行く。
 後には空のジョッキと、数シリングがカウンターに残されていた。
 奢りは無用、と言う事らしい。

 それから時は流れ、数ヶ月が経過した。
 ロバートは自分で感じられる程明確に、強靭なものへと変化して行く体に満足する日々を送っていた。
 以前の倍は仕事をする様になり、出不精だったのが家族を誘って小旅行じみた事まで行った。最初は何か後ろめたい事柄でもあるのだろうと疑っていた妻ケニーも、夫の変化に少しずつ態度を和らげて行く。勿論それは家計が潤い、旅行を楽しめたと言う結果が伴っているからこそ、だったが。娘のエミリーはただ家族仲が保たれている事を喜んだ。
 そんな生活が長らく続いた後のある日、商品棚を整理していたロバートは、ふと何か妙な『匂い』を感じた。
 それは何処からとも無く漂い、そして直ぐに消えてしまうのだが確かに香る。食事をしている時、接客をしている時、商品を並べている時、出かけている時、寝ている時、何時何をしていようとお構いなしに感じ取れた。何が原因なのかはさっぱり解らないのでどうする事も出来ない。では一体どの様な匂いか、と言うのを説明するのは今までに嗅いだ事が無い匂いだけに難しいが、その匂いを嗅ぐ度にロバートは言い知れぬ恐怖を感じた。匂いは日増しに強くなり、また近くから香る様な気がする。まるで誰かに追われているかの様に。
 気が付けば、その匂いを嗅ぐ度にびくりと飛び上がっている自分がいた。眠っていても感じ取れると、直ぐに起きてしまう。成る程、以前の悪夢程と言う訳では無いがしかし、恐ろしい事に変わりは無い。理解不能は恐怖に繋がる。それも今回は時が決まっていないのだ。ロバートはこの正体不明の現象に怯え、何時来るか今来るか直ぐ来るかとびくびく怯える様になり、事情を知らないケリーからはまた何時もの夫に戻ったと無視され、エミリーは過剰に心配した。
 だが、感じられる様になったのは匂いだけでは無かった。
 絶えずやって来る心労によるものだろうか、匂いと共にロバートは黒い人影を目撃する様になった。それは匂いが鼻に付く時何時でもある一定の距離を保って佇み、こちらをじぃっと伺っている。だがふと眼を背けると、その瞬間にはもう消えていた。明らかに幻覚なのだが、それにしては妙に生々しい。
 ただ、謎人物そのものよりも恐ろしかったのはその視線である。影になりながらも眼だけは良く見え、そこから迸る眼光には、憤怒の念が込められているのを確かに感じられた。だからこそ、ロバートには黒い人影が何処に居るか直ぐに解った。後ろに居たとしても、射る様な視線が背中越しに突き刺さり、即座に振り返る事が出来た。振り返ったとしても、もうそこには誰の姿も無いのであるが。
「何なんだあいつは……。」
 匂いと人影、この二つによってロバートの五感は終始張り詰められ、落ち着く暇が無い。彼の精神は擦り切れ、前にも増して夫婦喧嘩をする様になり、また酒を呑む様になった。しかし、今の体はアルコールを容易に受け付けず、呑んでも呑んでも酔う事が出来ない。何時までも素面であり、彼は幾度もジョッキを上げては空にした。

 この理解不能な恐怖は、唐突に理解可能なものへと変わった。ロバートが人影を見る様になってから数日後、店先に現れた彼は先に出ていたエミリーと、彼女が話していた男を見るや否や、憤然とした様子で怒号の如く言い放った。
「来たな狩人めっ、私と、私の子を倒しにっ。良かろう身の程知らずが、相手をしてやろ「お父様っ!!!!」
 はっと我に帰ると、父の体は娘の華奢な腕によって必死に抑えられていた。目の前にはこの店の常連客であり、近所に住む老人が腰を抜かしてあわあわと慌てふためいている。ロバートは自分が何をしようとしたのかに気付き慌ててエミリーの手を払うと客に謝罪しようとしたが、その一歩手前で更なる事実へと思い至り、慄然とした。
「おいお前っ。」
「は……はいっ?」
 彼はがばりと振り返ると、娘の二の腕をがしりと掴んだ。
 恐怖と苦痛でエミリーの目元に涙が溜まる中、ロバートは血走った眼を近付けながら叫んだ。
「俺は……俺は今何と言った、何と言ったんだっ。答えろっ。さぁ直ぐに答えるんだっ。」
「ひっ、あ……えっと、狩人がどうとか、相手をしてやるとか言いながら、行き成り飛び掛って、あっ。」
 怯える彼女の台詞を、彼は最後まで聞かなかった。いや、聞く事が出来なかった。あの悪夢で自分が成っていた者に、今現実の自分が成ろうとしている。その事実に気が付いた今、鈍臭い娘の話を悠長に聞いてなど居られるものか。
 ロバートはだっと外に出ると、その体の何処からそんな速度が出せるのかと言う勢いで猛然と走り出した。辺りを歩いていた者達が不思議そうに彼を見る中に混じって、あの黒い人影の視線を感じると、その脚はますます速く大地を蹴り上げ、粉塵を巻き上げながら突き進んで行く。
 薬の所為だ、とロバートは心の中で叫んだ。あれが彼を彼では無い何かへと変えようとしている。それはいい。だが問題なのは、その何かには敵が居ると言う事だ。幻覚だろうが何だろうが、確かにそこに感じられる時点で恐怖である事に変わり無い。あの親の敵を見る様な視線、睨み殺そうと言う様な眼光。嗚呼あの悪魔に俺(ワタシ)は殺されるっ。そんな想いが全身を貫き、体を休ませる事無く動かし続けた。
 
「はぁ、はぁ。」
 何時間走ったのか、何処まで走ったのか、既に定かでは無いが、ロバートは廃墟と化した教会の中に居た。
 建てられてから百年かそこらと言う様子を呈する石造りのこの建物にまともに近付く者は皆無の様であり、床一面に敷き詰められた埃の絨毯の厚さと至る所に張られた蜘蛛の巣がそれを証明している。
 開け放たれた扉の遥か向こうで雷が堕ち、ぽたぽたと雨が降り始めた。
 冷たい壁に背中を貼り付け、ぼふんと床に尻を付いたロバートは、その光景を眺めながら何とか落ち着こうとした。しかし、心音は先程から止む事を知らず高鳴り、呼吸も荒い。今こうして据わってられているのは、ただ単に体が付いて来れず、生理的に純粋な休息を望んだからに他ならない。で無くば、今もまた走っている事だろう、何処までも。
「どうする、どうしたらいいっ。」
 彼の者すら居ない講堂の中で、ロバートはそう叫んだ。あの黒い人影は、敵は何処までも追って来るだろう。今その視線を感じないが、きっとここにも直ぐに現れる。例え幻だと解っていても、それが恐ろしい。その恐怖だけで血管は千切れんばかりに脈打ち、心臓が弾けそうになる。彼はぐっと胸を押さえた。
 自分は何と言う者になってしまったのだろう。あの悪夢はただの予兆であり、現実として感じるこの感覚に比べれば、屁でもなかった。あれは寝て起きればそれで済んだのだから。今寝て起きても、この恐怖は変わらないのだ。
 嗚呼、とロバートは薬なんて飲まなければ良かったと今更ながらに思い、あんな薬を持ってきて飲ませた華僑を、そこまで追い込んだ我が家の女二人を恨んだ。見当違いも良い所だが、そうする事で彼の正気はぎりぎりで……既に最後の一線を越えてしまったからこそここに居るのかもしれないが……保たれていた。
 その時、二度目の落雷と共に、こつん、と言う小さいが確かな足音が彼の耳に届いた。
 瞬間、心臓が飛び出さんばかりに脈打ち、それによって体が跳ね上がる。
 今にも逃げ出したい恐怖と、逃げ出す事の出来ぬ疲労に挟まれ、全身ががたがたと震えた。
 ロバートはぎゅっと目を瞑り、匂いを嗅ぐまいと呼吸を止め、耳を塞いで丸くなった。
 だが、昂ぶる精神によって鋭敏化した感覚は、近付いてくる気配を如実に感じる。
 コツンコツン。
 ゆっくりと、伺う様にそれはやって来る。徐々に、だが確実に近付いてくる。
 その間隔が限り無く遠くなった。
 回りの時間が遅くなった様な気がしたが、それは気の所為だ。
 実際は自分の方が早くなったのである。
 ドクンドクンと鳴り響く心臓が、足音を聞く度にドクドクドクと速度を速めた。
 頭へと大量の血が送られ、額が焦げる様に熱くなる。
 それがずっと続く耐え難い状況の中で、彼は内なる声を聞いた。
 殺せ、と。
 狩人を殺してしまえ、と。
 何故なら、狩人は私と我が子を殺すからだ、と。

 ……そうだ、その通りだっ。
 彼は思った。
 逃げられないのであれば。
 今ここで迎え撃ってしまえ。
 それが、私とあの子を守る為になるのならばっ。
 それがやるべき事である。

 鈍痛の様な恐怖が、激烈なる蛮勇へと変わった。
 心臓が超蒸機関のピストン運動の如く爆音を立て。
 滾る血液が硬直していた体に活力を与える。

 そして。

 ロバートは瞳を開けると、目の前で雨傘(やり)を握って立つ娘(きし)へ雄叫びを上げながら襲い掛かり――

 醒歴1885年 四月 詠霧趣 論曇

「どうしても見せたいものがあると言うから来たのに、それがまさかただの中年の死体とはな。」
「また死体が動いたとでも思ったかい?警部よ。あんな事がしょっちゅうあったらこの都は終わりだよ。」
「そうは言ってもな、こんな死体だったら嫌と言う程見てる。わざわざ呼ぶ程の事も無いじゃないか。」
 やれやれと呟きながら、論曇警視庁、所謂スコットランドヤードの警部、アレックス・ボールドウィンは頭を振った。彼は今、多くの私立探偵が匙を投げた『ドッペルゲンガー事件』を捜査している。常識の方法ではまず不可能な犯行に数ヶ月前から幾度も悩まされており、油を売っている暇など正直無いのであった。
 それでも時間を割いてここ、ヤードから一区画も離れていない死体安置所まで足を運んだのは、三十年来の親友であると共に重要な仕事仲間でもあるヘンリー・ウェストたっての頼みだからに他ならない。およそ医学と死体以外に興味を持たないこの男だからこそ、その方面に対しては鋭い観察力と推理力を持っているのだ。故に彼が呼んだからには何か凄いものが飛び出したに違いない、とアレックスは思ったのだが、今回は的が外れた様である。地下室に篭った黴の湿った臭いと強烈な腐敗臭が混じり合った空気等、普段ならまず間違いなく吸いたくない。
「いやいや、これがなかなか曲者でね。」
 そんな風に顔をしかめる刑事の心情を察したのだろう、ヘンリーは手袋を嵌めた手で死体を触った。
 硬い石の寝床で横たえられているその死体は、ロバート・フレイザーのものだった。
「この男……外見は何処にでも居る太鼓腹の中年親父だが、実は違う。」
「それじゃ、中身はどうなってるんだ?」
 アレックスの疑問を受けてヘンリーは、一糸纏わぬロバートの切り裂かれた胸部を触れながら応えた。ぱっくりと花の様に開かれたそこには、何も無かった。ただ、千切った茎の断面の様に、肋骨の断面が見える。
「この男、家族は知らなかった様だが保因者(キャリアー)だ。間違い無い。」
「本当か?……とてもそうには見えないが。」
「そう見えない連中の方が圧倒的に多いんだよ、本当は。この都は例外だがな。」
 既に消え難い死斑が浮かび上がっているロバートの腹を軽く叩きながら、ヘンリーは続ける。
「何週間か前から様子がおかしかったらしい。夜中に突然暴れ回ったり、かと思えば急に上機嫌になったり。一時期は人が変わったみたいに明るい態度を取ったそうだ。行動も活発になってな。保因者になったのはこの辺だな。で、その後再び奇行をし始め、突如逃亡。郊外にある廃教会で隠れてた所に探してた娘が発見すると、行き成り襲い掛かりそして……そのままぽっくりだ。凄いだろ、こいつの腹。だがこれは脂肪じゃない、殆どが筋肉だ。いや筋肉に成ろうとしていると言うべきか……ともあれ、滅茶苦茶に硬い。伸び縮みしてメスが全然通らなかったのには参ったよ。仕方が無く、圧蒸式の機具で切り裂いたんだが……アレックス、そんな体を持ったこいつが、どうやって死んだと思う?」
 死者に関しては実に流暢になる親友に内心苦笑しながら、アレックスは暫し考えたが、答えは出なかった。
 無言で首を振ると、ヘンリーは肩を竦めて見せながら、正解を言った。
「心臓がこう、ポンとな。文字通り爆発してたんだよ、肋骨全てを巻き込んで。」
「何だそれは。爆弾でも仕掛けられていたと言うのか?」
「外傷は全く無し、だ。言っただろ、外見はただの中年親父だって。」
「一体何が原因でそんな事が……体が爆発する特性を持った保因者だったと言う事だろうか。」」
「解らん。だが、」
 じぃっとその死体を眺めるアレックスを余所に、ヘンリーはロバートの顔へと触れた。
「この死に顔を見れば、何と無く想像出来るってものじゃないかい?」
「……全く、だな。」
 検死官の手に誘われ、腹から顔へと視線を向けた刑事はそう頷いて見せた。
 その顔は怒りによって大きく歪み、底知れぬ闇を湛える大口からは今にも絶叫が聞こえてきそうだった。

 この後の捜査でロバートの死因がある種の事故であると断定され……近隣の者達は、ここ暫くの奇行と合わせて考え、狂い死にしたに違いないと囁きあったものだが、ともあれ……その死体は家族の元へと帰された。
 妻ケリーは稼ぎ頭が死んだ事に酷く嘆くと共に怒り、その葬儀は最低限のもので行われた。娘のエミリーだけが、最後まで自分がどう思われていたのか何をされようとしたのか知る事も無く、ただただ父親の死を嘆いた。
 母と娘だけになった家族は、何とか二人、正確にはエミリー一人の半ば強要された努力によって雑貨店を錐揉みしていたが、ロバートが死んで数年後、今度はケリーが新たな愛人との情事の最中に息を引き取った。
 死因は奇しくも彼女の妻と同じ心臓に絡んだものであり、死因急性心筋梗塞であったと言う。
 一人きりになったエミリーは親戚の家で厄介となる事になり、フレイザー雑貨店は静かにその幕を閉じた。
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