上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 第四章第五章 賢者の戯言 少年の箴言
「……。」
 ちょっとした歴史講座に義体人形制作の過程を聞かされても、アレックス・ボールドウィンはその存在を信じる事が出来なかった。確かに義体技術は世界規模で浸透しており、また実際にフィリップ・エディソン博士が造ったと言うノイラ・D・エディソンが目の前に居て先程からじっとこちらを見ているのだが、俄かには頷けない。情報として知っているのと、実際に見るのとでは大違いなのだ。
「信じられない、と言う顔をしているね。」
 フィリップが笑いながらそう言うも、その通りなのだから何とも言い返せない。
 勿論彼だって義体人形の話は知っていた。
 1873年、錘洲(スイス)の首都、雲院(ウィーン)にて開かれた万国博覧会の時、クリストフ・フォン・アッシェンバッハは、義体人形の要である歯車式人工頭脳を精巧な設計図ごと出展した。機械の頭脳が見える、硝子の頭部をした少女の姿とその詳細全てが記載された図版に、集まった人々が大いに驚いたのは有名な話である。
 同時にその話の続きも知っているからこそ、アレックスは信じる事が出来なかったのだが。
 この義体人形の公開に、一番驚愕しまた歓喜したのは義体に関わる者達だった。七人教授(セブンマスターズ)の一人が今まで秘密裏にしてきた神の技が白日の元に晒されたのである。プロメテウスの火に人々は喜びの声を上げながら集まった。だがその声は直ぐに失望のものへと変わった。実際に動くのを見、どの様に動くかが示されても、どうやって造る事が出来るのかが解らなかった。クリストフの手による人工頭脳は、グレゴール・ゲルヴィーヌスが製作した豆粒以下の歯車及び同サイズの部品を、余りの多さに発狂しかねない程駆使して構築されており、並大抵の技術と資産ではとても造れるものでは無かったのだ。

 その事に対して、公表された設計図は重要な部分が欠落しているのでは無いか、との声が上がったが、
「いやいや。あれが全てだ。私は包み隠さず公表したよ。」
 土壱(ドイツ)から至梨亜(イタリア)へと移り住んでいたアッシェンバッハ卿は、訪れた新聞記に向けてそう語った。しかしあれでは余りに難解過ぎるせめて解説の一つや二つはお願い出来ないか、と更に聞き返す記者に対し、
「おかしな事を言うものだ。
 私の進むべき道は、始め存在しなかった。
 人々が選べる二つの道も、私には当てはまらなかった。
 だからこそ私は、道無き荒野に道を作り、道標まで立てたのだ。
 後から来る者達の為に、彼等が道に迷わぬ様に、とね。
 だと言うのに、それでも諸君は不満だと言う。
 それでは諸君は一体これ以上何を望むと言うかね?
 私があれやこれやと案内せねば、一歩も脚を前へと出せない子供だとでも?
 違うだろう、諸君。私がいなくとも、皆立派にやって行けるさ。
 いいや。寧ろ私の様な老人が何時まででしゃばっていてはその妨げにすらなるだろう。」
 アッシェンバッハ卿は穏やかな笑みを浮かべながら、そんな風に返し、記者を閉口させた。その時、彼の膝の上で座っていた白金の髪の美少年が、うっそりと微笑みながらこう呟いた。
「そんな事言っちゃって。
本当は自分じゃもう駄目だから、次の人に頑張ってもらいたいんでしょ?」
「はは、ばれたか。その通り.
あんな難儀な物をまた造るなんて、狂気の沙汰だ。」
 記者が余りの言葉に唖然とする中、口髭を蓄えた老紳士は先程と変わらぬ穏やかな……しかし、今となって見れば内に何事かを含んだ胡散臭い……笑みを湛えつつ、猫の様に擦り寄る彼の幼い恋人の頭を優しく撫でた。

 アッシェンバッハ卿の腕が本当に落ちたのか、或いはただ単にそう言っているだけなのかはさて置き、考案者にして開発者がこの様な風体では、他の者達がどう言う様子であったか、容易に想像出来よう。実際、人工頭脳の開発に成功したのは両の手で数える程であり、ヤーコプ・グルムバッハと言う、とんでも無い規格外を抜かせば、完成品の数も一人に付き一つか二つという所であった。
 中には、そこらで拾ってきた浮浪児へ人形のふりをさせると言う不届き者まで出る始末である。まだまだ浸透には程遠い、珍奇な機械なのだ。
 そう考えれば、この科学万能、機械万歳の時代である十九醒紀末を生きる人間でも、その存在を疑いたくなるのは当然の事だと言えよう。
 その様な技術的理由に加えて、義体人形普及を妨げる別の理由が存在した。
 人工頭脳はその性質上、頭脳と繋がった義眼や義耳などの感覚機官による外的刺激を一切受けた事の無い状態では赤ん坊の脳味噌同然、つまり空っぽの状態にある。機官を通して頭脳が記憶や記録を行い、その結果として意思と感情らしきものを顔面と行動に反映させるのは全て、歯車と歯車の組み合わせによる階差機関によるものであるのだが、億を余裕で超える数を誇る歯車の数えたくも無い数の組み合わせが、どうなったらどう言う風な結果を生み出すのか、それは今持って解明されていなかったのだ。
 これは人工頭脳が計算機として造られたのでは無くあくまでも機械仕掛けの脳として造られた為である。本物の脳の中に置いて、意思や感情がある物質の科学的反応によって起こる事が判明されていても、何故その様な物質、そして反応が特定の意思や感情を示すのか、と言う形而上学的問題が解っていないのだから、それを元にして造られた人工の頭脳が解る訳が無かった。
 故に意図通りの性格にする為、知識を植え付ける為に手動で歯車を動かすという事は出来ず、あくまでその可動は感覚機官を通して自然な刺激を与えて、少しずつ変化させて行くしか無いのである。
 解りやすく言うと、高度な技術と法外な資金を持って造られる義体人形は、好きな格好をして産まれてくる知性の子供に過ぎないのだ。
 この手の機械に群集が求めるその使用方法は、一に労働力、二に愛玩用であり、その行為をさせる為に赤ん坊の状態からの育成が必要であるとは、コストに対して余りにも釣り合わない。それならば、普通に生身の人間を用いた方が早く、また総合的な費用も安く付いて、余程簡単な事だろう。
 何せ人間は、義体職人が義体人形一体を造ろうとする作業の全工程を、異性の相方と多少のスペース、そして一夜と十月で行ってしまうのだから。
 この様に義体人形を造る事は容易で無く、ただでさえ宗教的に五月蝿いのに、一般からの需要も少ない。造る事からして難しいと言うに、その動機も希薄となれば普及する筈も無く、製造された義体人形はあくまでも技術指標と趣味の産物として製造者の元に居るか、或いは類稀なる大富豪の玩具として扱われるかに留まっていた。その正否は兎も角、少なくとも今現在に置いては。

 →第六章 →表紙
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://tasogaremignon.blog79.fc2.com/tb.php/536-3f385641
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。