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 第二十四章第二十五章 ウィーナ(The Eloi’s Heroine)
「なぁ……何を馬鹿な事を言ってるんかねぇ、このお嬢さんは。」
 まるで閉じ込められていた言葉が一気に噴出したかの様に長々と語り終え、睨みながら人差し指を突き付けた、自分の半分……実際はそれ以下……の歳月しか生きていない様な少女ノイラ・D・エディソンに対し、ハリソン・バウチャーは明らかに動揺していた。それは、口でこそ否定しているが、彼女の推理を肯定するものである。毅然とした様子で指を刺す少女とは対照的に。
 当然だ。今のノイラに対し、ハリソンでは余りに役者が違い過ぎる。
 逃げられない様扉側に立ちつつ、そう麗しき銀髪を眺めていたアレックス・ボールドウィンは、少しハリソンの事が哀れに思えて来ていた。元々大袈裟な事が出来る人間では無いのだ。こうやって少しでも……全く持って少し所では無いのだが……化けの皮が剥がれたら脆くも崩れ去ってしまう。
 無論、それは自分が齎した事。同情してもほんの少しである。
 警部は腕を組みながら正に小悪党から目線を逸らし、二階のこの小さな部屋にあってカーテンも無く、たった一つしか無い窓の外へと目を向けた。
 そこからはパブ『青猫亭』を見る事が出来た。あそことは通り一つ越えて直ぐなのである。
 眺めつつ、あの男ももう直ぐかな、と彼が思っていると、ハリソンが叫んだ。
 こちらが大体予想していた事を。
「な、長々と言ってくれたがね、あんたの話ゃちょっと無理があるぜ。
 何が一番無理のあるって、そりゃあんた時間旅行機(タイム・マシン)なんてものを出した所だよ。
 学が無ぇからって、人を騙すのは良く無いぜお嬢ちゃん。 
 んなもの、ドッペルゲンガー並にあるわきゃ無ぇ。そうだろ?え?」
「……そうでもありません。私の様な存在も居ますから。」
 中年の叫びに対し、ノイラはすっと両手で己の顔を押さえると、何事かを行った。
 途端に、ハリソンの顔が青褪めて行くのをアレックスは見る事が出来た。
 彼女が一体何を見せたのかは解らないが、それは恐らく自身が人形である事を示したものであろう。心の傷であったそれをあえて見せても、最早この少女に動揺の様子は見られない。代わりにじっと、目の前に居る男の様子を疑っている。ハリソンは真っ青な顔のまま、今見た現実を受け入れまいとする様に叫んだ。
「だ、だがねぇ機械仕掛けのお人形ちゃんよっ。
 あんたが何モンだって、本物の時間旅行機が、
 「うん、あったよ。」
 その最中、行き成り耳元に声と、そして気配を感じ、うわひゃと妙な叫び声を上げて男は飛び上がる。
 彼の背後に現れたのは、ディルク・シュナイダーであった。
 にやりと笑い、捲れた上唇からは、鋭い犬歯が突き出ている。薔薇の香料を持って己の情欲を制御していないそれは即ち、吸血鬼の能力を行使して来た証であった。昨夜も見せた様に、或いはルフィナ・モルグがそう言った様に、この吸血鬼は霧に変化する事が出来るのだ。ただ、蝙蝠になる事は血統的に出来なかったが。
 やっと来たか、と先程から彼を待ちわびていたアレックスは腕を解いて、ディルクへと向き直った。
「あったんだな、時間旅行機は。」
 その言葉に、チェックメイトの為、呼ばれた援軍は頷き返した。
「君が言った通りだったよ。青猫亭に行ったら、あったあった、奥の倉庫に。ちょっと、いやかなり解り難い姿形してたけどね。あの酒場の店主は、それが時間旅行機だって気づいて無いだろうね。何か他の物としておかされたんじゃないかな?だって、それ見た目ただの真鍮製の椅子だもん。レバーやら計測機やら色々ついてたけどね。傑作なのがさっ、僕が潜った時人影が見えたんだよ。何かな、って思ったら直ぐに消えて、そこに椅子があった。で、色々付いてるのを見る中で、どうも時計の数字を合わす様だったから恐る恐る少し前の時間にして、適当にレバーを押してみたのさ。そしたら回りの景色が僅かだがぶれた。で、その直ぐ後に人影がぶわって出て来てね、驚いたのがそれ僕だったんだよ。あっちも驚いてたけど、僕も驚いたの何のって、直ぐにレバーを元に戻したよ。そうしたら、そっちの僕は消えちゃって、時計を見たらさっき来た時間になっていた……つまり僕が見た人影って言うのは、他ならぬ僕だった訳。いやぁ、もう興奮したね、あれはっ。」
 解明されていない謎二つ目として、鏡及びそれに類するものに映らないという特性を持ったこの生まれながらの吸血鬼は、肖像画以外で初めて自分の姿を見た事に本当に興奮した様子で、長々とその時の状況を語った。
 アレックスとしては、別に興味も無いので、ただ一言「そうか」と返すのみである。
 それが気に入らなかったのか、ディルクは頬を膨らませてこう返した。
「何それ酷いな、こんな真っ昼間に人を働かせといて。君の血の1パイントでも貰いたいくらいだよ。」
「……今度吸血鬼専門の店で新鮮な豚の血でも奢ってやる。それで我慢しろ。」
 警部の言葉に吸血鬼は更に頬を膨らませて「君のがいいー」などと言っていたが、アレックスは華麗に無視した。
 そして彼はディルクから眼を背けると、再びハリソンの方へと向いた。
 こんな馬鹿げた遣り取りをしている間に、奴の顔色は蒼白から逆に赤紫へと変貌していた。それは酷い興奮によるものであろう。今までは証言のみが頼りであったが、証拠が挙がってしまえば言い逃れる事は出来まい。
 加えてここには拳闘を嗜み、武器を携えた警察官と、人間の力と常識を遥かに超えた吸血鬼が居るのだ。物理的に逃げる事も最早不可能である。
「……まぁ、そう言う訳だ、ハリソン。もうお前の逃げ道は無い。大人しく逮捕されろ。」
「……く、くくっ。」
 だと言うにも関わらず、ハリソンは笑い始めた。
「……何がおかしいのですか。」
 ノイラが眼を細めてその様子を疑い深く見るも、笑いの発作は一向に消えない。 顔を真っ赤にさせ、脂汗を垂れ流しているにも関わらず、口元は吊りあがったままなのだ。とうとう狂ってしまったかと、ノイラを下がらせながらアレックスは拳銃を取り出し、ディルクが己の右爪を刃物の如く変化させ、牽制する様にその先端を向けた。だが、それすら面白いのか、奴はとうとう突き出た腹を抱えながら、げらげらと声を立てて笑い出したのである。
 そして、三人をまるで哀れむ様に見返しながら、こう言い始めた。
「く、くくくくく……はは、はははははは……凄ぇ確かに凄ぇな探偵さんよ。
 言った通り、捕まえられちまったぜ……凄いったらありゃしねぇや。
 だがよぉ、一つ疑問じゃないかい?
 あんたら、ずっと俺を舐めてただろ、こんな小悪党ってな。
 確かにその通りさ否定はしねぇ……だがね、だったら俺一人でこんな大それた事出来ると思うかい?
 そもそもその人形の話聞いていると、鼻からあの機械を盗むつもりでサーモンさんを襲った様に聞こえるがね、どうやって俺はあんな機械の存在を知ったと思うんだい?自分んちのメイドだって知らなかった様なもんをさぁっ。」
 その言葉に、アレックスはむっと顔を顰めた。
 確かにその通りだ。彼一人にしては事が大き過ぎる様に思える。
「……共犯者……いや共に盗みを働いた連中は多分知らない。気付いてもいない。
 となると、黒幕は別、か。」
 ディルクの呟きに我が意を得たとばかりに飛び上がって、ハリソンは叫んだ。
「その通りよ化物の坊やっ……俺だけじゃぁ無理さ。
 俺は手駒なんだよ、とっても偉い偉いお人のなぁ。
 その人はただ一人あの科学者の事に気付いき、俺を使ってあの機械を盗ませ、そしてずっと実験していたのさ。
 四次元だか、時間だか、因果だか、宇宙だか、何だか知らないが、兎に角実験をな。慎重に慎重に、何年も掛けてさ、俺がやった事はそれなのよ。
 全ては更に大きな事を成す為の実験。おお、偉大なる我が国のボナパルト閣下っ。」
 化物の坊やという呼び名にディルクが眉を顰めた。
 その傍らでアレックスは、その言葉の中のある事実に気付き、慄然とした。
「ボナパルト、だと?まさかそれはジェームズ・モr、」「あのお方の名前を軽々しく言うんじゃねぇっ。」
 シャーロック・ホームズが史上最高の私立探偵と称され、市民や同職の尊敬と尊厳を一身に浴びている様に、悪党達の中にも親玉的人物が存在する。『犯罪界のナポレオン』或いは『教授』とも呼ばれているその男は、特に著名な存在であり、最悪の詠国人が一人に数え上げられている。
 アレックスが驚き、そしてハリソンが叫んだのも無理は無い。
 ホームズの宿敵として名高いあの男がよもや絡んでいようとは。
 いや、詠国中の犯罪者達と蜘蛛の糸の如く繋がりを持つ様な男であるから、その名前が出てもおかしくは無いのだが、しかしその様な大物中の大物の名が出て来るとは流石に予想していなかった。
 ふぅふぅと息を荒げながら、アレックスらの動揺を楽しむ様に、ハリソンは高笑いを上げた。呼吸が困難となり、急き込む様に身を崩す程に。やがて落ち着いた彼は唐突に顔を上げると、疲れた風な様子でこう言い始めた。
「……ま、名前が出た所で痛くも痒くも無いんだろうけどな。
 何せ、複雑だからねぇ、関係が。
 一体何処でどんな風に、何処まで繋がってるのやら……。
 辿って行っても途中で切られるし、なぁ…………こんな風によ。」
 そう言うとハリソンは、くいっと親指を窓の外の方へと向けた。
 瞬間、青猫亭は爆発した。
「なっ。」
 粉塵が舞い上がり、ぱらぱらと木組の雨が周囲へと飛び散って行くのがアレックスの眼にも見える。
 通り掛かった者達は、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らす様に逃げて行く。
 後には跡形も無く吹き飛んだ瓦礫の山が残されていた。
 これで証拠は消えてしまった。
「何と言う事だ……。」
「心配しなさんなって……こうなっちゃ、もうおしまいだぁ。」
 アレックスの嘆きに対し、ハリソンは自嘲気味に唇を吊り上げながら言った。
「それは、一体どう言う事ですか?」
 ノイラが尋ねる。
「重要なのはあの時を移動する機械の方さ。
 俺なんて、別に死のうが消えようがどうでももいいんだよ……あんた達の事なんかぁ全部筒抜けだからな。あんたらがここに来た瞬間から俺がどうなるかは決まっていたと言う訳さ……。」
 それに応え終えた途端。
 今まで閉まっていた扉が、ばんと勢い良く開け放たれた。
 アレックスはノイラを庇う様に腕で覆い、そちらの方へと銃口を向ける。
 だが、そこには誰も居なかった。
 ただきぃきぃと扉が傾げており。
 その向こうには薄暗い廊下がぽっかりと広がっているだけである。
「アレックス、退いてっ。」
 だが、吸血鬼の鋭敏な感覚は、そこに何者かの気配を感じ取っていた。
 ディルクは、右手に生やした爪を、左腕の脇の下へ構えると、床を蹴って廊下へと跳ぶ。衝撃で床が抜ける。跳躍している間に彼の顔は捕食者のそれへと変化しアレックスの目の前を外れそうな程に開かれ、無数の刃の如く鋭い牙を生やした顎が通り抜けて行く。距離が縮まり、ディルクはその右手を体ごと回転させ、思いっきり逆袈裟に振り切った。ひゅんという軽快な風切り音が響く。
 だが、それだけだ。
 変化は寧ろディルクに起こった。光も無く音も無く、宙を跳ぶディルクの喉に赤い線が刻まれる。直ぐにそこから夥しい量の血が噴出し、至る所に染みを付けながら、受身を取る事も出来ずに彼は壁をぶち抜けた。
「ディルクッ。」「しま……かは……再生……ぐ、くぅ。」
 埃と瓦礫に埋もれた中で、ディルクは喉から溢れ出る血を抑えようとのたくる。
 吸血鬼の再生能力は、個体差こそあれ凄まじいものがあり、銀製品や大蒜を染み込ませたもの、若しくは火傷以外による傷は大抵直ぐ元通りになってしまう。四肢を切断されても、一ヶ月あればまた生えて来るのだ。
 だがそれは夜の間のみである。
 紫外線が屋内にも容赦なく降り注ぎ、体温よりも遥かに高い気温となる日中では、その能力も激減してしまう。どうやらディルクの傷は銀で負ったものでも、大蒜で負ったものでも無い様だが、人間で言えば致命傷だ。死にはしないが、こんな状態ではとても動く事など出来まい。
 アレックスは、不安げに見つめるノイラを壁際に下がらせつつ、廊下の下の方へと拳銃を向ける。どうやらあの辺りに何か居るらしい。だが、それが何なのか、もしくは誰なのかは全く解らない。そこには、ディルクが飛び散らした血痕が、子供の落書き見たく付いた壁や床が見えるだけで、何処にもおかしな所は無い。
 いや、一点のみだが、おかしな所があった。
 壁の染みの一つが、僅かに揺らいだ、気がしたのである。いや、それは正確では無。血痕は、壁になどついてはいない。それは宙に浮いていたのだ。まるでそこに透明な硝子でもあるかの様に。
 硝子、という己の思考にアレックスは凍り付いた。
 相手の正体が解ってしまったからだ。
 ホーレイ・グリフィン。
 詠国人なら名は知らぬとも、その存在自体を知らぬ者はいない狂科学者(マッドサイエンティスト)。その昔、ある特殊な作用を齎す薬を発明した事で吸血鬼よりも恐るべき怪物へと変貌し、詠国を恐怖の渦に陥れた男。
 そこに居るのは奴に違いない。
 だが本人は、もう何年も前に死んでいる。ここに来ているのはもう一人の方であろう。
 盗み出したグリフィンの薬によって産まれた新たな怪物――
 その時、宙に浮いていた血痕がぐらりと動いた。腰から足首の高さまで一気に下がったそれは、諦めた様に笑っているハリソンの方を向くと、猛然と突き進んだのである。
 不味い、とアレックスは思い、その先へと銃弾を撃ち込んだ。一発、二発と放たれた銀の弾丸はいづれも外れ、床へ穴を作るのみだ。そしてその染みは、まっしぐらにハリソンの胸へと向かい、そのまま中へと吸い込まれる。
 瞬間、ぶしゅりと血が迸り、げふりと中年の口から赤い塊が零れ出る。それは地面に堕ちる事無く、目の前に居る存在へと当たり、白い三日月を浮き上がらせた。
 ごほごほと塊の如き血を吐き出しながら、赤く染まった唇を歪ませながらハリソンは、
「二代目透明人間(クリスチャン・ベーコン)……け……裸の男が俺の……死神たぁ……なぁ……ぐふっ。」
 そう言って、ぶしゃぁと胸から血を噴出しながら、ばたりと倒れた。
 三年に渡る間、仮初だが時を行き来して、人々の命と金を奪って来た。そんな男の、呆気ない最期だった。
「ハリソン……。」
 アレックスは、ずっと追い掛けていた男が息を引き取るのを見つめていたが、直ぐにそれを中に浮かぶ三日月、いや透明な人間の不適な笑みへと向けた。
 本来ならば光を通さぬその体は所どころ血に汚れて、おぼろげながらその輪郭を把握する事が出来る。
 ディルクの喉をその手に握った硝子製のナイフで切り裂き、今またハリソンの口を封じたこの男が、自分とノイラを放って置く筈が無い。身を守る為には弾丸を当てねばならぬが、そのチャンスは今しかなかった。
 血を拭き取られてしまえばもうそれでおしまいである。
 『教授』お気に入りの懐剣として知られるベーコンは元軍人であり、それなりに肉体派だが本職は科学者であったグリフィンとは違って、その特異な性質と卓越したナイフ捌きにより、狙った獲物は逃さない一流の暗殺者であると聞く。透明で無くとも勝ち目の無い男だ、ハンデがある内に必ずしとめねばなるまい。
 つぅとアレックスの頬から汗が滴り落ちる。こんな奴を相手にする羽目になるとは、完全に想定の範囲外であった。頼みの綱のディルクも虫の息だ。彼は、せめて拳銃よりライフルを持ってくるべきだったと激しく後悔した。
 対するベーコンは、余裕綽々といった様子である。自らの存在意義である筈の透明能力が損なわれていると言うのに、血を拭こうともしない。既に獲物は片付け、残すはデザートのみ、という所だろう。完全に舐められていた。
 だが、付け入るならその油断しか無い。
 アレックスは銃口を奴の額に向けたまま微塵も動かす事無く、
「ノイラ。」
 と、そう己の影に隠れている少女へと囁いた。
「……何ですか。」
 と、ノイラは応える。汗や涙を流す機構は無かったが、その上擦った声、揺れる青い瞳、そして先程から僅かに震えながら服を握っている手を見れば、彼女が今どう思っているかなど、手に取るように解った。
 アレックスの胸がぐっと締め付けられる。
 結果的に巻き込んでしまったのだ、彼女だけは助けねば。
「ノイラ、いいか。今から一発奴へとぶち込む。その時、」
 にたにたとした笑みを崩さずに、ゆっくりとやってくるベーコンを見ながら、彼はノイラへと囁く。そして、
「当たっても当たらなくても……全力でここから逃げろっ。」
 彼女が応えるより速く、アレックスは弾丸を、邪悪なる三日月へと叩き込んだ。
 三日月はまるで宙に張り付いた様にそのままで、くんと行き成り下降した。
 銀の閃光は窓を通り、空の向こうへと飛んで行く。
 外した、と思うなり、アレックスは再び撃鉄を起こすと、銃口を下に向けて引金を引いた。
 二発目、総じて四発目の弾丸はしかし、またしても当たらない。
 まるで獣の様に、ベーコンは顔を床すれすれの高さまで下げると、そのままの状態で前へと駆け出したのだ。
 無為に弾を消費してしまった。
 残りは後二発しか無い。
 恐らく再装填している暇はあるまい。
 ここで仕留め切れなければ、最早それまでだ。
 そう考え、焦る余り直ぐにでも曲がってしまいそうな右手の人差し指を必死に堪えつつ、アレックスは実に狙い難い不透明な相手へと……何と言う皮肉だろうか……狙いを定める。
 まず当てる為に限界まで引き付けて。
 と、その右手に握られた拳銃に向けて、下方から一気に血片が迫った。
 見えざる剣は今、ハリソンの血に濡れてありありとその一フィート程の刃を晒している。
 だが、仮に見えたからと言っても避けきれる速度では無い。
 いや間に合えっ、と念じながら、アレックスは僅かに腕を逸らした。
 その一念が動かしたのか、紅き刃は彼の前を通り抜け、そのまま過ぎ去った。
 これが最初で最後の好奇であろう。
 撃つならば今この時において他には無い。
 ここぞとばかりににやにや笑いへ銃口を向けると、アレックスは人差し指を解き、勝利へ導く一撃を放った。
 螺旋の溝に刻まれて、真っ直ぐ白い三日月へと向かって行くべき弾丸はしかし、銃身から抜け出る瞬間、硬質な音と共にそれごと逸らされ、ベーコンに当たる事は無かった。
 更に強い力が加えられ、無情にも右手から離れた拳銃は、在らぬ方向へと回転しながら飛んで行く。
 そして同時に、激痛が右足の腱を貫いた。
 思わず片膝を付き、見上げた先にはあの邪悪な三日月が浮いていた。
 奴は透明人間、不透明な存在である。
 血に濡れたからと言って全貌が浮き上がった訳では無い。
 故に、その手に持つ獲物も一つとは限らないのだ。
 そう知った時には、アレックスの生存の可能性は潰えていた。
 たった一つの武器を失い、更に身動きも取れなくされ。
 彼は自分の命が、魂が終わろうとしている事を悟った。
 すると昂ぶった精神が冷めた故か、先程まで高速で流れていた時間が、ゆっくりに感じられる様になる。
 本当に死を感じたその瞬間には、こんな風に時が流れるのかと驚きながら、アレックスはベーコンを見た。
 鉄の塊が床へと堕ちた音を聞くと、三日月は更に歪み、上限の月と化している。
 自分の勝利と相手の敗北を確信した、酷く醜い邪悪そのものの笑み。
 それは正に死の象徴だ。
 その象徴は微動だにせずベーコンは、紅く染まった死そのものを、アレックスへと向けた。
 嗚呼それを胸に刺され俺は死ぬのかと見つめながらも、彼の心は不思議と穏やかである。
 それは死を前にしての諦念だったが。
 それだけが理由では無かった。
 予想していなかった相手によって今死のうとしている。
 がしかし、自分は、そしてノイラは、あの怪異を遂に解き明かしたのである。
 それは讃えられて然るべき事であろう。
 特に彼女の能力は大きい。
 ノイラが居なければ、謎は謎のまま、今でもずっと続いていた事だろう。
 その場合、自分は透明人間の餌食になんてならなかった、と考えると皮肉であるが。
 だが他の多くの人々が無碍に殺されて行くならば、この方がよほど良いに違いない。
 妹は哀しむだろうか。
 だが、アレックスは、警察官として殉職出来る事を誇りに想った。
 ただ、一つだけ。
 心残りがあるとすれば、それはノイラの事である。
 出来れば仕事では無く、警部としてでは無く。
 日常のほんの一時でいい。
 一人の人間として、男性として共に過ごして見たかった。
 探偵が嫌いで、女が嫌いであった彼が、そのどちらの条件も満たして尚、更に機械の人形である少女に、一切の嘘偽り無く、本気でそう願ったのである。
 だがそれは決して叶う事の無い願望だ。
 アレックスにはただ彼女が、この見えざる魔の手から、逃れる事が出来ただけで充分だった。
 彼女が生きてくれるならば、と。
 そうして、彼はすっと瞳を閉じた。
 緩んでいた空気が一気に締まり、時の流れが元に戻って行く
 ベーコンは、抵抗をしなくなった獲物を見て僅かにその口元を弛ませた。
 が、それもアレックスの先に思想同様一瞬の事である。
 赤い空には、直ぐに、白い上弦の月が浮き上がった。透明人間はにたりにたりと笑ったまま、硝子の短剣を軽く引き絞った。そして一歩前へと踏み込みながら、瞳を瞑りじっと待つアレックスの胸へと突き込んだのである。

 襲ってくる刹那の激痛。
 そして止める事の出来ない死。

 だがそれは、永遠にアレックスの元へは訪れなかった。
 訝しがりながら、彼は瞳を開ける。
 余りにも速過ぎて、死んだと感じる暇も無かったのかありがたい事にと思ったが、それは違った。アレックスの胸には一片たりとも傷は付いておらず、今居る場所もあの汚らしいハリソンの部屋だった。
 それより先に眼へ飛び込んだのは、そよとざわめく、幾千幾万の銀色の光。
 最初雨だろうかと頓珍漢な事を思ったアレックスだったが、即座にその正体に気付き、顔色を変えた。
 馬鹿ないやそんな事はありえない。
 否定の言葉を口から出そうとするもそれは言葉にならず、代わりに別のものが紡がれた。
「ノイラ……ノイラ・D・エディソンっ。」
 自分が逃した筈の、逃げてくれた筈の少女の名前を。
 彼女は何故逃げなかったのか、この際そんな事はどうでもいい。
 ただ、今の状況のみを語るとするならば、ノイラはアレックスとベーコンの間に割り込み、自身が慕う男を死と敗北を与える一撃から身を挺して護って見せたのである。
 見えざる刃は深々と胸の中心に突き刺さっている。
 白いブラウスに出来た切れ目から肌着が、そして白磁の肌が覗け、更に良く見ればその奥に歯車や神経糸、その他良く解らない義体を構成する極小要素を垣間見る事が出来た。
「……アレ……ックス……。」
 その様な状態にあって、如何なる奇跡だろうか。
 彼女はまだ生きていた。確かに稼動していた。
 だがしかし、その声はかすれ、虫の息であると言っても過言では無い。
「ノイラ……馬鹿が、なんでこんな……糞っ。」
 込み上げる熱き感情を抑えながら、アレックスはその小さな体にすがった。
 だがノイラは、半ば無機質な瞳を彼に向けると、小さく首を横に振った。
「……違……ぅ……ア……くス……はや、……。」
 この少女はこんな時に何をっ、と彼は怒鳴りたくなった。
 だが、それは自分の勘違いであった。
 見れば彼女の両腕は伸ばされ、そしてその繊細な十本の指は何か見えざるものを掴んでいる。
 その太さは、丁度腕位のものであった。
 はっと気付いたアレックスは、素早く床に落ちていた拳銃を拾うと、下弦の月を造り、必死に彼女の腕から抜け出そうとしているベーコンに向けて、回転式弾倉に残されていた最後の弾丸を撃ち放った。
 ろくに狙いを定めずに撃ったそれは、忌々しい透明人間の頭蓋骨を粉砕する事は出来なかった。
 だが、命中させる事には成功した。
 ぎゃっという甲高い音と共に、新月の如く開かれた口の位置から察するに、当たったのは右肩だ。
 それは致死という程では無かったが、今この場から退けるには充分な一発だった。
 ぎりりと歯を軋ませながら奴は、引っ張っても抜け出せないと解ると、逆にその腕を押し込んだ。もうろくに力の残されていなかったノイラの指は簡単に外れ、アレックスを押し倒す形で倒れ伏した。
 それを見る間も無くベーコンは、避ける暇も無く踏んだハリソンの血の池で脚を濡らし、赤い跡と右肩からの血痕を残しながら、窓へと向かい、そして入って来た時とは丁度逆の位置にあるそこから外へと飛び出した。ここは二階であるが、その程度の高さならあの暗殺者に取って高さでは無いという事だろう。それに、扉側にはディルクが居た。真っ赤な水溜まりに身を浸し、床に伏せっている状態だったが、それでも通り掛かれば何をするか解るまい。
 何にせよ、嵐の様に訪れた敵は、嵐の如く過ぎ去って行ったのである。
 そしてディルクの小さな息遣いのみが聞こえる部屋に。
 アレックスの悲痛極まりない叫びが木霊した。
「く……っ……ノイラッ。」
 彼は上半身を起こすと、自らの上に倒れていた彼女を抱き起こした。
 疲れていたがそんな事は関係無い。
「あレ……くス……。」
 ノイラの状態は、端的に言って酷かった。
 胸の奥からは先程からずっとガリガリと嫌な音が聞こえており、鈴の様な声も雑音が酷くとても聞き取れたものではない。あの人を落ち着かせない程に力強い光が宿っていた水晶の如き青い瞳は、急速にその輝きは失われて行っている。アレックスの太股に触れたのは、機能の停止した腕であり、その手を握っても、何の力も返って来なかった。同時にそれは非情に冷たかった。何度もそこに触れた中で、一度もそんな風に感じた事は無かった程に。

『これが逆だとアウトね。
 冷めて静止した状態はつまり死んだって事に他ならないのだから』

 手から額へと触れたアレックスは、そこに感じた冷たさに、思わずあのルフィナが言っていた台詞を連想した。
 一体何が原因でそうなるのか彼には解らない、解る筈が無い。
 だが、胸を深く刺され彼女の状態は、人間で言えば正に瀕死に置いて他ならず、そうしている間にも彼女からはどんどん人間味が損なわれていた。それもまた機構の一つであったのだろう、人形にはとても見えないと言っていた相貌が、人形にしか見えない様な能面へと変わって行く。
 そんなノイラを見ながらじっとしていられる様な人間では、アレックスは断じてなかった。
 彼はまず袖を破り、右足へ包帯代わりに巻きつけた。立ち上がろうとすると、激しい痛みが右足を駆け抜け、思わず倒れそうになるのを壁にしがみ付いて何とか耐えた。この程度の痛みが、一体何だと言うのだ。
 何とか立ち上がると、アレックスは上半身だけの力を持って彼女を抱き抱える。
 体は、予想以上に軽かった。失礼な事だが、機械なだけに勝手に重いと思い込んでいた。あのルイスは保因者(キャリアー)だから抱えられたのだ、と。実際はどうだアレックス。このままもし落としてしまったら、そのまま簡単に砕けてしまいそうな程に軽いでは無いか。
 ぎゅっと支える様に抱き抱えると、彼は出口へと目指して歩き出した。
 とりあえず、彼女は人間では無いのだから、普通の医者でその傷を治す事は出来まい。義体技師であればまだ可能かもしれないが、彼女の様な繊細な存在を、そこらの職人がどうこう出来るとは思えなかったし、またさせたくはなかった。ならばやはり、彼女を造ったフィリップ博士の元へと連れて行く他あるまい。
 そう考え、進んで行くアレックスの歩みは、牛よりも遅い。
 痛みが絶えず襲い、ほぼ強制的に左足のみで進まねばならなかったからだ。
 だが、この歩みを止める訳には行かなかった。
 断じて、である。
 彼が廊下に出ると、そこにはディルクが居た。
 その顔を見て、アレックスの歩みがぴたりと止まる。
 この男とて、放って置いていい怪我では無い。それに、彼もまた自分を助ける為にここに来て、そして巻き込まれてしまった存在である。あれがただの硝子だったから良かったものの、もしその弱点を使って刺されていたら、今頃は間違い無く死んでいただろう。ここはやはり共に連れて行くべきか。だがそうなればノイラをエディソン邸まで連れて行くのに時間が掛かってしまう。
「……く……いいよ、アレックス。僕の事は置いて行って。」
 そんなアレックスの苦悩に気付いたのだろう。
 うつ伏せから仰向けになりながら、ディルクはにこやかに笑ってそう言った。
「いいのかお前……その傷は……。」
 綺麗な一文字に開かれた喉からは、脂肪と共に細い骨が見え隠れし、ひゅぅひゅぅと呼吸をする度に、そこに溜まった血はごぽごぽと泡を立てた。そんな死に体でありながらも、ディルクはやはり微笑んで言い返す。
「ごふ……僕より彼女、でしょ。何、心配、無いよ……く……そこにほら、新鮮な死体がある……ぐぅ……ふぅ……あれから吸えば、くぅ……失われた血は、んぅ……得られ……の力も直ぐに……戻って、来る……さ。」
「……ありがとうディルク。後で俺の血を好きなだけやるから、灰にならずに待って居ろ。」
 そんな彼へ深々と頭を下げると、アレックスは出口へと向かって歩き始めた。
「んー……それは楽しみ、だ、な……。」
 実際の所、血は栄養源にはなりえない。
 あくまでもそれは保因者を保因者足らしめる何かの因子が最も強く宿っている為に繁殖に利用されている媒体であり、飲食を必要としない吸血鬼にとっての精神的慰みに過ぎないのだ。損なった血を補う事は確かに有効ではあったが、そのまま傷の再生に繋がる訳では無い。それでも大丈夫と、去り行く背中に笑い掛けながら、ディルクはぼしゃんと己の血溜りの中に顔を埋め、そして死んだ様な眠りへと堕ちて行った。
 その水滴音を聞きながらも、アレックスは留まる事無く只管に脚を動かし、前へ前へと進んで行く。
 少しでも力を入れたら抜けてしまいそうな腐った床板を危うく超えて。
 急勾配な階段を慎重に下りながらも、着実に出口へと進んで行く。
 来る時は語る必要も無い程容易かったその道が、今はとんでも無く遠かった。
 それでも今はただ、彼女をフィリップ博士の元に連れて行くしか無い。
「……くス……。」
 そんな彼の耳に、ノイラの声とも言えぬ音が届く。
 もうその唇は動いていなかった。
 ただ発声機構が僅かばかり生きている。
 そんな状態にまで陥っているのだ。
「嗚呼ノイラ……。」
 強く噛んでいたが故にそのまま切ってしまった唇から、ぽたぽたと血の滴が滴り、これだけはずっと変わらぬ白い肌と銀の髪へと堕ちた。彼女は何の反応も示さず、半開きの口とレンズの瞳をアレックスへと向けるのみである。そんな彼女の死相を眺めながら、彼は遂に感極まり、大粒の涙を零しながら、呟く様に、囁く様に語り始める。
「ノイラ、君は……逃げろって言ったのに、逃げなかった……。
 何て聞き分けの悪い子だ、これの何処が良い子だと言うのだろう……。
 本当に、馬鹿な娘だ。俺なんかを助けて……。
 そのせいで自分はこんな風になって……。
 人形だからどうにかなると?
 機械だから平気だと?
 何を根拠にそんな事を考えたんだ……なぁノイラ……。
 ちっとも大丈夫じゃないじゃないか……。
 馬鹿め……馬鹿な少女め……。
 畜生……見ろよ俺を……馬鹿な顔してるだろ……ほらっ。」
「……。」
 しかし、ノイラは応えない。応える力も残っていないのだ。
 彼は砕けてしまうのではと心配になる程歯を噛み締めて、
「まだだ……まだだぞノイラ、まだ死ぬんじゃ無い……直ぐだから……ノイラ……ノイラ……っ。」
 そう言いながら、出口に向かって必死に突き進んで行く。
 その振動の中、ぼろぼろと零れる涙の一つが、人形の瞳に入った。
 まるで本当に涙を流しているかの如く、その青い瞳から滴が流れて行った時。
 アレックスは、ノイラと共に、薄暗い建物から、光差す外へと抜け出した。

 →第二十六章 →表紙
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