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 第二十五章第二十六章 君、微笑んだ時 
 醒歴1888年 九月 詠霧趣(イギリス) 論曇(ロンドン)

 霧の都と呼ばれるここ論曇では珍しい快晴に、道行く人々の顔は明るかった。
 直ぐに冬がやって来る。いや、既に来ていると言っても良いかもしれない。もう外套が無ければ出歩けない様な風が吹いているからだ。そんな季節にあって貴重な今日の如き日を、市民達は精一杯享受しようとしている。
 素晴らしい事だと、通りの真ん中をゆっくり抜けて行く馬車の中で、アレックス・ボールドウィンは彼等をそう微笑ましく見守っていた。その右手には吸血鬼が好みそうな真っ赤な薔薇……ただし造花……の花束が握られており、逆の手には彼の妹から貰った大切な銀の懐中時計が、パチンパチンと小気味良くその蓋を開け閉めされている。
 手を止めながら、蓋を開きながら、アレックスは時計の針を見た。
 針が指し示している時刻は彼が約束した時間よりも大分先を指している。
 それはこの人通りの所為であるが、しかしアレックスは一向に構わなかった。
 もう充分に待ったのだ。今更少し待たした所で罰も当たるまい。
 彼はそう微笑みながら、これから行く先の場所での一年前の出来事を回想した。

「……君の判断は適切だったと言わざるを得まいな、アレックス君。」
 白衣に薄手の手袋を嵌めた、博士の呼び名に相応しい格好をしているフィリップ・エディソンは、ベッドに横たわる己の娘を眺めつつ、彼女を連れて来た相手に向けてそう語った。その顔は汗に塗れ、披露が垣間見えている。
「……と言うと……彼女は大丈夫なんですよね?」
 アレックスは、胸に鋭い穴を開けて死んだ様に眼を閉じているノイラをじっと眺めながら、そう返した。
 博士が応える。
「生きているか死んでいるか、という意味で大丈夫かと言えば、安心するがいい。
 大丈夫だ。かなり危うかったがね。」
「ならば何故彼女は起きないんですかっ?」
 その彼へと、アレックスは真っ赤に充血した眼を半ば睨む様に向けた。
 フィリップは首を軽く振りながら、語り始める。
「君は義体と、それで形作られた義体人形の原理を知っているな?
 それは基本的に人体、人間と変わらないんだ。
 ただ、その体を作るものが違うというだけでね。
 各部位は神経を通して脳へと繋がり、そしてその脳は各部位を統治しているという事実は一緒なのだよ。
 しかし義体人形、少なくとも彼女の場合は少しだけ違う。
 擬似神経である神経糸は人工頭脳から義体の首を通り、そして胸へと至ってから全身へと走っているのだ。
 つまり彼女の心臓は、文字通りの人体の中心にある。
 その部位をベーコンとやらに刺された彼女は、意思を義体各部に伝える事が出来ず、倒れてしまったのさ。」
「……だったら、その神経を繋ぎ直せばいい。何の問題があるのですか。」
「話はまだ途中だ。君は少し落ち着いた方がいいな。」
 ほら深呼吸深呼吸と、話を中断された博士は、今にも食って掛からんとする警部にそう諭した。するまで話さないという様子に、アレックスはしぶしぶ動じると、言われた通りに深く息を吸い、そして吐く。
「……深呼吸しました。」「宜しい。」
 そう言うとフィリップは、再び話の続きを言い始めた。
「確かに君の言う通りだ。
 義体人形の魂は人工頭脳に宿る。
 そこを壊されぬ限り、彼女達は不滅と言えよう。
 胸を刺された所でまた直せばいい。
 しかし、今回の場合それは違う。
 聞けば彼女は、君を守るべく暗殺者の間に入り込み、あまつさえその腕を掴んで離さなかったそうじゃないか。
 だが、ノイラに本来そんな力は無いんだ。」
「どう言う事です?現に彼女はベーコンを抑えていた。」
 アレックスの言葉に、フィリップはノイラ・D・エディソンの。緩みきった指を掴みつつ、その解説を始めた。
「火事場の底力と言う概念がある。
 絶対の危機を感じた時、人は己が普段封じている全力を発揮するそうなんだ。
 つまり、意思が肉体を動かすのだけれど、それは義体の場合顕著に現れる。
 何せ、元々自分のものでは無いそれを動かしているのは、動かしたいという意思以外の何物でも無いからね。
 解り易い例を挙げると、そうだな、ヴィルヘルム・グルムバッハの愛妻、史上最強最高の義体遣いと呼ばれるドロテーア・ヴィルトが1878年十一月九日の『鐘琳(ベルリン)事変』で見せた活躍が良いケースだろうな。
 いやあれはもう伝説、神話と呼ぶべきか。四肢が義体である彼女は、恋人と土壱の為に、ヤーコプ率いる戦闘用の義体遣い総勢二百体の荒くれ者どもをたった一人で悉くぶちのめしたらしいからね。当時十五歳の小さな女の子が、戦闘用では無い通常の義体を使って、だよ。」
 尤も幾らか誇張も入っているだろうがね。
 そう付け加えながら、博士はその指を離した。
 アレックスの脳裏で、ノイラに似た少女がハリソン・バウチャーやセヴラン・モガールそっくりの男達を文字通り千切っては投げ千切っては投げるという形容し難い光景が浮かんだが、直ぐに消えした。
 今向けるべき関心は、そんな所には無いのだ。
「ノイラが君を庇った時も同じだったんだと思うよ。
 君を守りたい、その一念が動かしたんだろうね。
 見るといい、この弛緩しきった指を。正に魂が体を凌駕した証拠だよ。
 だが、その想いはまた彼女を傷つけた。
 胸を突かれ、神経糸を傷つけられた事で、義体を動かせなくなったこの子は、その滾る想いを発する事が出来なくなった。それは彼女の中で深い絶望となりまだ神経糸が繋がっている筈の顔部の義体をも鈍らせ、やがて人工頭脳の停止、即ち義体人形の精神的死を齎したのさ……だがそれは仮初だ。落ち着きたまえ若者よ。」
 死と言う言葉に強く反応したアレックスをフィリップは何とか抑えて言った。
「本当に死んだという訳じゃない。
 そもそも物理的死は存在しない訳だからね。
 体を動かせず、想いを伝える事が出来なくなったから、そう思い込んでいるだけなんだよ。
 事実、彼女の人工頭脳は静かだがまだ動いている。
 もし、体を動かせぬままだったら、それも完全に停止しただろう。
 がしかし、今私が治したから、そこの心配はしなくていい。ただ、」
「ただ?……ただ、どうなんですかっ。」
 心配するなと言いつつ、口を閉ざした博士をアレックスは激しく聞き返した。
 最早抑える事は不可能と判断し、そのままにする事にしたフィリップは応える。
「何時目覚めるかは解らない。
 人工頭脳は科学の神秘が詰まった魔法の機械だから。
 製造した張本人たるアッシェンバッハ卿自身が解っていなかったのだからな。まぁ本当にそうかは知らないが。
 だから、彼女が今ここに確かに生きているのだと実感する事が出来ない限りは、ずっとこのままだろう。
 でもね。」
 すっとノイラの銀の髪に触れながら、博士は言う。
 にやりと笑みを浮かべながら。
「君がそんな事を黙って見ている筈は無いし。
 またどうすればいいのかも解っている……そうだろうアレックス君?」
「……勿論、です。」
 その言葉に力強く頷いて、アレックスは応じた。
 その瞳は、揺らぐ事の無い意思で満ちている。
 と、その時ある疑問が浮かび上がり、彼はそれを口に出した。
「所で博士。」
「ん?どうした。他に何か聞きたい事でもあるかい?」
「いや、大した事でも無いのですが……。
 博士は何故義体人形を造ろうと考えたんです?」
 その問い掛けに、フィリップは小首を傾げて聞き返す。
「それは前にも話したと思うがな。人間に対する単純な好奇心さ。」
 アレックスはその言葉に、しかし、と更に返した。
「好奇心を抱く前に何か理由がある筈です。
 或いはきっかけとなったものが。別に義体人形で無くたって、その好奇心を満たす為のものがあった筈だ。
 それなのに彼女を造った。
 その代え難き訳とは一体何なのですか?」
「……君はまるでノイラみたいな事を言うね。
 惚れた女に男は似ると言う奴かね。」
 眼を丸くさせながらそう言うフィリップに対し、アレックスは赤く染まる頬をどうにも出来なかった。
 博士はごめんごめんと謝りながら、暫し自己について考えて、こう言った。
「そうだな……私は人間という存在が好きで好きでたまらなくて……それをずっと残して置きたくなったんだろうね。」
「残す?」
「うん。人間は変わって行く存在だ、時の流れに従って、ね。
 そして何時かは死に、忘却の中へと消えて行く……。
 だが、そんな人々の存在を記録し、自身そんな彼等の様に永遠を生き続ける者が居たならば、それは人々が生きたという永遠の証そのものになるんじゃないか、それは素敵な者では無いか……私はそう考えるんだ。
 だから、寿命と言う終わりの無い体に、変化と成長を続ける人間性を備えた存在を作ろうと思ったんだろう……それがノイラという訳だ。」
 さらさらと彼女の前髪を撫でながら、フィリップは語る。
 その瞳に僅かな憂いを湛えながら。
「今死を感じている彼女が目覚めた時。
 彼女は、私が思い描いていた存在に近づいている事だろう。
 この後も彼女は知識と経験を刻みながらずっとずっと前へと進みながら生きて行くのさ。
 彼女の体が、外的要因によって滅びぬ限りね。
 その隣には私も、君も最早いないだろうが何、それでも彼女は生き続ける。
 そう信じているのだよ、私は。」
 その言葉にアレックスは思う所があったが、今はそれを口にはしなかった。
「ですが博士、」
「ん?」
 その代わりに、こんな言葉を紡ぐ事にした。
「今この時ならば貴方も、そして……俺も。
 彼女の側に居ます。
 共に生きているんですよ。」
 例え眠っていようとも。
 と微笑みながら語る青年に、フィリップは「そうだな」と同意した後に、
「まぁ、私は君より早く別れる事になるだろうが、な。
 何、何時までも老人が居座っていても仕方が無い。
 私が去った後は君を含めた次の者達に、頑張って貰いたいものだ。」
 そう、かつてクリストフ・フォン・アッシェンバッハと彼の恋人が言った台詞を語るのだった。

 こうしてアレックスはずっと待ち続けた、ノイラが目覚めるその瞬間を。
 決して枯れぬ、しかし内に秘められた意味は絶えず代わって行く造花を抱いて。
 そして待つ事一年余り。
 ついにその瞬間が訪れたのであるっ。

 あの人形の如く思えたエディソン邸のメイドが、感極まった様子でその事実をアレックスに伝えると、彼は彼女を熱烈な抱擁で迎えた。そして頬を染めてうろたえる女性を残し、先に購入していた造花を手に取るとそのまま馬車へと乗り込み、一路彼女の元へと向かっているのである。
 彼の心はこの論曇の天気の様な陽気に満ちていた。
 今ならば、何をされても怒る事は無いだろう。
 その時、馬車の外で聞き慣れた男の叫び声がした。
 アレックスが外を見ると、そこにはあのセヴラン・モガールの姿があった。
「待ってくれヴィヴィアン。後生だから、もう他の女には手を出さないから、な?」
「お黙り腐乱素(フランス)人。あんたに何かもう用は無いんだから。」
 その頬は、ヴィヴィアンと呼んだ少女に引っ叩かれたのだろう、真っ赤に腫れている。彼は、尚も彼女の足にすがり、行かないでくれと叫ぶがしかし、既にその心は離れてしまっているのは誰から見ても明らかだ
 。ヴィヴィアンは、馬の様に後ろ蹴りにその顔面に靴底を叩き込むと、向こうから歩いてくる青年に向けて「ジュリアーン」と黄色い声を上げながら小走りに駆けて行った。
 盛大に鼻血を噴出し、石畳の上に倒れている哀れなモガールを見て、アレックスは苦笑した。
 この男は全く変わっていないな、と。
 だが考えて見れば、この一年の間で変わった事は余りに多くない。
 身近から上げると、ディルク・シュナイダーがヤードから姿を消した。
 アレックス達が去り救援が駆けつけるまでに、彼はハリソンの血を吸う事で気を持ち応え、一命を取り留めた。
 しかしどうもその血が体に合わなかったらしく、後日倒れてしまったのである。
 本人曰く、ある種の性的な病に感染した様なもので、若い吸血鬼を中心に普遍的に起こるものだと言う。それなりに若くも無く、更に悪食であるディルクがその様な状態になった事にアレックスは軽い驚きを感じたが、弱っていた上であの不健康そうな中年の血を吸ったのだと思うと、変調の理由も解る気がした。もし自分が吸血鬼になったとしても、あの男の血だけは決して飲むまい。
 そして彼は土壱(ドイツ)の有名な保養地、バーデン・イン・バーデンへと旅立った。
 心身ともに敏感な吸血鬼にとって、生まれた国の気候風土が最も肌に合い療養に適しているのだそうで、本家本元のナポレオンに追われて以来、実に数十年ぶりの帰還であると言う。
 それにしても、吸血鬼と温泉にはミスマッチにも程があるが、
「代謝は無い訳じゃない、殆ど無いだけさ。熱いのは苦手だけど。
 ま、気分だよ気分。
 僕達吸血鬼は、それが全てなんだよ。」
 自宅である、ヘンリー・ウェストの死体安置所(モルグ)の様な薄暗い地下室にて、ディルクはグラスにたっぷりと注がれた血を恍惚な表情で飲み終えると、うっそりとした様子でそう言った。
 約束とは言えかなりの量の血を抜かれた為に、上手く回らない頭を抑えながら、アレックスは己の血を舐めた。
 何の事は無い、ただの血の味である。
「これも気分か?」
「それも気分だね。」
 アレックスが疑わしそうに聞くと、ディルクは笑ってそう応えるのだった。
 そう語った彼が詠国を後にしてから早一年が経つが、未だに帰って来ていない。
 体調の方はもうすっかり良くなっている筈なのだが、折角だからという理由で土壱中を見て回っているらしい。
 全く持って結構な身分である。
 土壱と言えばドッペルゲンガーの最後の被害者、ハルトマン夫妻の一子、アナベル・ハルトマンは、あのゲオルク・フォン・ボルクと共に本当に捜査をしていたらしい。その後、犯人と判明したハリソンが殺されたという事実に眉を潜めながらも、アレックスに礼を告げ、本国へと帰って行った。
 ただ、それでもやはり両親を奪った犯罪者達は許せず、あの青年と共に何と探偵稼業を始めるという。
 それもかなり特殊なものだそうだ。
 ディルクを通してなので何処まで本当かは解らない。
 しかし、それでもアレックスは二人に声援の手紙を送る事にした。
 熱意と能力があるならば、何者であろうと社会へ貢献すべきである。
 そのハリソンを殺した者、二代目透明人間クリスチャン・ベーコンは、まだ見つかって、いや捕らえられていない。
 その特性もあるが、初代と違い、欲望の赴くままにでは無く、あくまで命令によって行動している為である。
 その命令者は、今回の事件だけで無く、詠国犯罪界の頂点に君臨する男だ。
 困難を極めるだろうが、是が非でも逮捕し、蜘蛛の巣を手繰る手掛かりにしたい。
 だが、それはまた当分先の事だろう。
 今の論曇は、流星の如く現れたある殺人鬼の話題で持ち切りだからである。
「くそ……おいアレックス、見てみろ。また娼婦が殺されたぞ、バラバラだっ。」
 新聞にでかでかと掲載された記事を読み終えるとグラント・ヒル警視は、娼婦ばかりを残忍極まりなくも鮮やかな切り口によって殺して行く正体不明の殺人鬼『ヒューレス』へ怒りの声を上げていた。
 何年にも及ぶドッペルゲンガー事件が解決したというのに難儀なものである。
 尤も、この男が怒っていない時の方が珍しいのだが。
 ヒューレスという名前は、被害者達の凄惨な状況から、こんな事が出来るのは人間では無い、人でなしだ、という理由で付けられた名称である。
 『人間性(Humannity)を欠いた(Less)者』名前の様に略して『Huless』という訳だ。
 しかしその命名理由はもう一つあった。
 この血みどろの殺人鬼の正体が、透明人間以上に不透明であったからだ。
 噂にだ、『教授』を頂点とする悪党どもやルフィナ・モルグの如き化物連中すら素性を掴めておらず、仕事に影響を与え、差別を助長するこの存在(娼婦の一人は保因者(キャリアー)だった)を、血眼になって捜しているという。
 アレックスは一度、市街を何か捜している様な目付きで歩き回っているルイスの姿を見た事がある。その腰にはあの刺突剣(レイピア)だけで無く、銃も帯びていた。それもただの銃では無く、銀製の、矢鱈口径の大きい銃だった。恐らく刃の方も銀メッキが施されているだろう。彼自身保因者なのだろうが、銀が効かないのかもしれない。或いは分厚い篭手でも嵌めるのか。
 どちらにせよ、保因者達は自分達の同胞とも考えている様だ。
 また王室や議会、貴族の方でも慌しい動きが見られている。何か思い当たる節があるらしい。
 下々の者にそれが何なのかは解る筈も無かったが。
 ついでに新聞記者達は自分達の飯の種として、嘘か真か解らないあらゆる噂を書きとめ、それを元にくだらないゴシップを書き、無知な者達を騒がせている。
 この様に様々な組織がそれぞれに暗躍する中で、論曇市民は感じていた。
 これはただの猟奇殺人事件では無い、裏にもっと何か、陰謀めいた何かがあるに違いない、と。
 今はまだその疑心も小さなものだが、やがてそれは大いなる恐怖となり、霧となってこの都を覆い尽くすだろう。
 そんな確信めいた予感が辺りに漂っていた。
 こうして見ると数は少ないが、変化は確かにあった。
 特に社会的意味合いとして大きなそれは。
 だが、とアレックスは思う。
 どれだけ変化が置きようと。
 論曇という都市自体は変わり無く存在するのではないか。
 意味が、中身が驚く程変わろうと。
 その外見が、大枠が変わる事は無いのではないか。
 まるであの少女の様に。
 彼はそう思った。
 自分でも理由はよく解らなかったが。
 そんな事を考えている内に、馬車は目的の場所へと到着した。

「来たね、待っていたよ。」
 エディソン邸の扉を叩くと、直ぐに主、フィリップが顔を出した。
「えぇ、連絡を受けて……彼女は何処です?」
「部屋で待っているよ。直ぐに行ってやるといい。」
 博士は、造花の花束を握るアレックスの姿を穏やかな様子で笑いながら、奥の部屋を指差した。アレックスは、
「ありがとうございます、それでは。」
 挨拶もそこそこに、彼女が待っている所に向かって廊下を進んで行く。
 歩いている間に心臓が早まり、体温が上がるのが感じられた。
 緊張しているのだろうか、手から汗が滲む。
 部屋の前へと辿り付くと、ズボンで掌を拭った。
 溜まっていた空気を肺から一気に吐き出す。
 それでもまだ心は落ち着かない。
 頭の整理が付かない。
 この一年、ずっと見舞って来た。
 眠り続ける彼女を訪れ、花を飾り、話を聞かせた。
 そんな彼女が目覚めた今、真っ先にするべき事は何だろうか。
 一年前にアレックスを悩ませた問いが。
 形を僅かに変えてその胸中を渦巻いている。
 彼は再び深呼吸をすると、その問いを根本から無視する事に決めた。
 それは彼女にあってから決めればいい。
 そう考えたのである。
 アレックスは、更にもう一度深く息を吸い、そして吐くと、徐に扉を叩いた。
 同時に、彼女の名前を呼ぶ。
「……ノイラ。」
「……どうぞ。鍵は開いています。」
 返って来たのは、一年前と変わらぬ、そして待ち望んでいた声だった。
「では……失礼するよ。」
 思わず競り上がってきた笑みを空咳で打ち消し、アレックスはぐいっと扉を開けると、中へと入る。直ぐに彼の青い瞳に飛び込んできたのは、簡素な部屋の床一面に広がる造花の花畑だった。
 匂いは無かったが、その人の手によって造られた薔薇は、水も土も日も与えていないのに決して枯れず、変わらぬ美しさを保っている。アレックスが訪れる度に持って来た、その日からずっとそのままに。その一つ一つに、訪れた日々の想いが篭ったそれは、同じものなど断じて無かった。
 その中にあって、変わっているものがある。ベッドが空になっていた。
 そこでずっと寝ていた主は今、赤い花々に囲まれて、窓の外を眺めている。
 アレックスの方にその背を見せて。
「……ノイラ。」
 足元まで達する銀色の髪を眺めながら、アレックスは彼女の名前を言い、その言葉に自分で驚いた。
 余りにも震えていた為である。
 ノイラは暫しの間応えようとせず、ただじっと佇んでいた。
 そして、徐に口を開いた。
「……こんな事を口にするのは変かもしれませんが……。
 私はずっと、夢を見ていました。」
「……どんな夢を、だい?」
 人形に夢が見られるのかなどという無粋極まりない台詞は最早その喉からは決して出て来ず。
 代わりにアレックスはそう言うと、すっと唇を閉ざした。
 純粋な興味と、そしてまた愛情を持って。
 少女は鈴の様な可憐な声で、何処か愉しげに語って行く。
「私は、何処から暗い所に居ました。
 何にも見えなくて、何にも触れられない様な……そんな場所です。
 私はそこから抜け出そうと歩き続け、でも出来なくて……。
 とうとう諦めて、その場に倒れ込んでしまいました。
 嗚呼、もういいかな、と……。
 そして闇の中で……どれだけ待った事でしょう。
 声が、聞こえたのです。小さく、おぼろげで……。
 私はそれが何と言っているのかも、誰の声なのかも、思い出す事が出来ませんでした……。
 でも、不思議と懐かしく、聞き覚えのある声でした。
 やがて……それと一緒に、赤い光が私の周りに灯り始めました。
 最初はかすかで、そして一つだけでしたが、それも少しずつ増えて行き……。
 声が私の名を呼んでいるのだと気付く頃には、その赤い光も沢山になって……私は目覚めたのです。」
 言い終えて、振り向いたノイラは一輪の薔薇を握っていた。くるりくるりと、その茎を回転させながら。
 水晶の様に済んだ青い瞳がその赤い花びらからアレックスへと移動すると、彼女は言った。
「お早う……そしてお久しぶりです、アレックス。」
 その顔に、うっそりとした微笑みを浮かべて。
 アレックスは暫く何も言えなかった。
 初めて、そうだ今まで見た事が無かったノイラの笑みを見た彼のあらゆる細胞は、喜びに打ち震え、その嬉しき衝撃は電流となって神経を伝い、全身を巡った。実際には眼と唇と、その二つが僅かに変わっただけである。しかし僅かにそれだけで、それだけでこれ程までに魂を揺さぶらされる顔が産まれるとはっ。彼はもしこの場に、この少女を造りたもうた神、即ちフィリップ博士が居たならば、靴底にだって接吻したに違いない。
「……?……どうしました、アレックス。何か、おかしな事でも?」
 その様子にノイラの微笑みは僅かに曇り、それによって漸くアレックスは美の監獄から脱出する事に成功した。
 危ない所である。
「あ、あぁ、いや、大丈夫……大丈夫だ、ノイラ。」
 慌てて我を戻し、彼はかつかつと近付くと、手に持った花束を差し出した。
 無言で、だが微笑みながら受け取ると、じぃと赤という色を愛しそうに眺める。
 そして直ぐに、その視線をアレックスへと戻した。
 二つの青い瞳が。
 光と大気を通じて重なり合う。
 体もまた重なり合うのに、時間はそれ程掛からなかった。
「……お早う、そして久しぶり、だ……ノイラ。」
「えぇアレックス……本当に。」
 腕の中で、胸の前で、二人は一年ぶりに愛する者の魂を、心を感じ合う。
 はらりと、アレックスの瞳から一滴の涙が自然に滴り落ちる。
 水滴となって首に当たるのを感じ。
 首を上げたノイラは、銀の髪を揺らしながらゆっくりと頭を降った。
「アレックス……少し、屈んでください。」
「ん……あぁ……こう、か?」
 訝しがりながら、言われた通りにする彼の頬に、目元に、瞼に、少女の唇が当たった。意外に柔らかい感触にかすかな驚きを抱きながら、アレックスは己の涙が拭い去られている事に気がつく。まるで悲しみを拭い去る様に、喜びを分かち合う様に舐め終えたノイラは、恐らく飾りだろう、小さな舌をちょこんと出しながら、こう言った。
「涙は、要りません……。
 何も、要りません……。
 今は嗚呼、ただアレックス。
 貴方が側に居てくれさえすれば。」
「そう、だな……。
 あぁ、そうだ……。
 その通りだよノイラ……。
 美しいノイラよ。」
 くすりと微笑む彼女に、彼は力強く頷いて見せる。
 そうだ今すべきは涙を流す事では無い。
 それよりも何よりも、しなければならない事がある。
 アレックスはぐっと背中と首に回した手に力を込めると、すっと顔を近づけた。    
 ノイラもまた同じく、その陶器の胸を押し付けながら顔を引き寄せる。
 瞳と瞳。
 体と体。
 そして最後に二人は。
 唇と唇を持って。
 互いのその存在を。
 その温かみを
 そしてその心を感じ合ったのである。
 あらゆる苦悩を物ともしない、人間と人形の間で生まれた、一つの確かな真実。
 時間が流れようとも、場所が移ろうとも、決して変わらない、一つの確たる感情。
 即ち愛を。

 END

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