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1.黄昏都市の一日
 最初に得たのは孤独感で、次に覚えたのは喪失感だった。
 世界に存在しているのは自分ただ独りだけなのではという漠然とした不安がまず襲い、その後から、何かとても重要な……それすら忘却の彼方であって、また曖昧なのだが……記憶を、自分は失くしてしまったのでは無いかという苦い想いが迫り来る。
 そうして二つの負の感情が心臓と肺臓を頂点とする無数の内蔵を絞り込み、鈍く熱い苦痛によって浅い眠りから放り出されるのが、ハールの毎朝の情景であった。
 無論、それは今朝も変わる事は無い。
 寝具の上でゆっくりと上半身を起こし、聞き苦しい呼吸音を発しながら、額や頬に張り付く湿り気をその皺の多い手でゆっくりと拭いつつ、彼はカーテン越しに窓を見つめた。
 コットン製の気色ばんだ白いカーテンの隙間と、煤で埃っぽく汚れた硝子を通して見える外は、煉瓦造りの屋根が原に煙突の森林、そこから登る排ガスと彼方此方より漂う蒸気の混合物たる薄い雲に覆われている、何処か退廃的な感を成す空、その幕を通して尚眼に痛い朱色の光を放っている擬似太陽、そして、巨大に構築されたそれすら見劣りする程高く、長く建てられた歯車仕掛けの管理塔という、何時も通りの光景である。
 ここに来て九ヶ月と九日の間、全く変わる事の無いその姿に、同じく変化の無い心身の異常を落ち着かせて、ハールはふぅと、深い息を零した。あの街並みは、現実として確かにあるものであり、故にこそ、形の無い胸騒ぎを抑えてくれる効果がある。尤も、彼の年老いた体には、ここの主だった都市機能を支えている蒸気機関の影響も、広大且つ完全であるとは言え閉鎖されているという事実に変わり無い都市自体の環境も決して良いものでは無かったが。或いはそうだからこそ、こう目覚める度に、言い様の無い憂いを覚えるのかもしれない。もしそうであれば、実に皮肉であり、滑稽であると言わざるを得ないだろう。未だ生身のままの右眼は細まり、整えられた灰色の口髭の中で唇は吊り上がった。
「ん……ぁ、ハール……もう、朝になった、のかしら? 」
 その時、彼の背中越しに、聊か眠たげな、それでも可憐と捉えられる声が上がる。
「ん……嗚呼、そうだよ、朝だ、イドゥナ……どうやら起こしてしまった様だね、すまない。」
 ハールはそれに応えると、体を動かし、声の主の方へと向き直った。
 狭い寝具の上、もう片方の際に、一人の少女が横たわっていた。豊かに波打つ小麦色の髪に、若草の様な色合いの瞳をした美しい娘であり、体を包み込む薄いシーツからはみ出た生白い細脚が、華奢な肩が、その外見をより好ましいものにしている。
「そんな事は……ん……無いわ、もう起きるべき頃合だし、それに丁度起きようかなって思っていた所だから……って、貴方、大丈夫? 今日はまた、何時にも増して汗塗れじゃない。」
 イドゥナは、そんな可愛らしい顔を欠伸によって聊か愛嬌のあるものへと転じさせた後、枕元に置かれた時計に眼をやり、それからハールの方を向いて、彼の状態に気が付くと、そっと体と腕を伸ばし、頬へと触れた。
 彼女の白くて小さい、人形細工の如き華奢な手の感触に、老人は苦味の無い笑みを浮かべる。それはくすぐったくもまた心地の良いものであったし、同時にイドゥナの、この身を慕ってくれている少女の優しさを、確かに感じさせてくれるものであるのだから。毎朝のこの不快さも、彼女という存在があれば、何という事も無く引いて行く。
 ただ、その、代わりに、別のものが昂るのは如何ともし難い訳だが。
「まぁ大丈夫ならいいんだけど……何、どうかした? 」
 ハールの言葉に安堵の吐息を吐き出して、彼と同じ様に滲み出た汗を拭ったイドゥナは、そこで漸く、彼の視線の方向が自身を向いていないという違和感に気付いた。
 そうしてもう一つ、腕を伸ばした拍子に自分の体を覆っていたシーツが毀れ、小振りだけれどしっかりと均整の取れた、愛らしい形の良い乳房が露になっている事に。
 はっとして、顔を赤らめると、イドゥナはいそいそとシーツを持ち、胸元を隠した。それから、ばつが悪そうに頬を掻いている老人へと、少女ははにかみながらに言う。
「もう……別に珍しいものでも無いじゃない。何でそんな反応するのよ。私達、夫婦なのに。」
「悪い、ね……どうも、まだ、余り慣れて無くて。」
 彼女の反応に、ハールは更にぎこちなく頭を振った。確かに婚姻関係を結んでから数ヶ月、愛の営みに関しては幾度も行って来たけれど、だからと言って、それが普通になるという事でもあるまい。もっと時が経てばともあれ、今の状態ではどうしても、自分と彼女の年齢と、そして肉体の差に眼がいってしまう。
 実際今だって信じられない位なのだ、イドゥナと結婚したという事実に。彼女の年齢が具体的に幾つかは解らないけれど、良くて十代半ば、下手をすれば前半にすら見える。その割に精神は成熟していて、しっかりとした基盤の上に立っている様に見えるけれど、だが、若々しくも美しい身を持っている事に変わりは無いのだ。正確な数値は覚えてなどいないが、とうに五十を過ぎているだろう自分のそれとは比べくも無いのだから、ハールの動揺も頷けるだろう。
 因みに、嫌味でも自慢でも何でも無い事をここに記しておく。
 ハールがその様な思考に沈んでいると、イドゥナは体を起こして、寝具からそっと降りた。
 彼女はローブの様にシーツを巻き付けたままに、扉を開けると、
「ま、いいわ。珈琲淹れて来る……その事に関しては、また夜にじっくり、と。」
 僅かに振り向き、猫の様な扇情的視線と微笑みを残して、すっと部屋から出て行った。
 一人取り残されたハールは、やれやれとばかりに、腕を枕にして、ばふんと寝転ぶ。あれではどちらが年上か本当に解らないな、と、年季の入った天井の染みを見ながらぼんやり思った。
 だが、何時までもそうゆっくりとはしていられない。再び窓の方を見れば、明らかに擬似太陽の角度は増していて、少なくとも今が早朝から朝になろうとしている事を、繊細な長針と短針の組み合わせよりも大胆に示し出している。
 彼は視線を戻し、体を起こした。そうして、その産まれたままの姿をまずはどうにかするべく、寝具の側の小さな置物机に置かれた眼帯へと、手を伸ばした。

 衣服を着込み、一階にある居間へと下りて、イドゥナと一緒に珈琲と林檎だけの簡素な食事を口にしたハールは、少女が後片付けの後に服を着ている間に……先にそれをしてから事を成せと言っているにも関わらず、一向に治す気配が無いのが、この幼い妻の仕様が無い点だろうか……書斎へと至ると、自らの仕事場である、歯車式算譜機械(コンピュータ)が置かれた机の前に立った。
 算譜機械の脇にある小さな起動レバーを上げれば、合成樹脂製の黒いパインラインから供給される蒸気を動力源として、真鍮製の箱型本体の内部から、幾千幾万にも及ぶだろう歯車が廻り出し、絡み合う音が、ハールの耳へと届く。
 そうして完全に立ち上がるまでの間、壁際にぎっしりと、際限無く頓着無く無数の本が集められた本棚が並ぶ一角で、ハールはまるで書物から霊感を搾り出す様に、或いはたった一つしか無い天窓から降り注ぐ一条の淡い光から神託を受け取る如く、ぐっと瞳を瞑っていた。
 暫くの時が経った後、本体とは別に設置された木の額縁を持つ表示装置(モニタ)の白い背景へ、壮大な鐘の音色に閉ざされた扉の意匠化された絵と共に、セピア色のイタリック体が『二十世紀ドアーズへようこそ、ガングレリ』という文字を刻み込む。
 二十世紀ドアーズという名前や扉の絵の意味、恐らくこの算譜機械の前の所有者だったのだろうガングレリなる人物の事は全く解らなかったけれど、それが起動完了のメッセージである事だけは、ハールも解っていた。
 その文字が消え、白い初期開始画面が表示されたのを確認すると、彼は手元に置かれた有線式示唆記号操作器具(ポインティングデヴァイス)、通称『二十日鼠(マウス)』を動かした。画面上を飛び行く矢印を筆記算譜(タイプソフト)である『文字(レター)』の記号標識(アイコン)上へと持って来て、素早く点打(クリック)する。
 歯車が幾分か余計に音と熱と震えを発する内、装置の中では無限に広がり行く紙が浮かび上がると、その先頭へと矢印を動かして指示枠組(カーソル)を出して、ハールはマウスの横で幾つもの文字並べている黄銅色の打刻鍵盤(タイプボード)に手を置き、徐に文章を打刻(タイプ)し始めた。
 その指の動きは、見た目に背き、淀み無く、無駄が無い。彼は盤上をちらりとも見ずに画面のみを向いて、装置上の白亜の紙を、瞬く間に黒々とした文章の列で埋めて行く。
 この一連の作業によって、ちょっとした読み物を書き記し、新聞社へ届け出る事こそが、ハールの仕事であり、毎朝の日課であり、そしてただ一つ出来る事でもあった。

 便宜上の誕生日とされたから良く覚えているその十月十六日、彼は己に対する記憶を失った状態で、この見覚えの無い家屋の一室にて眼を覚ました。
 自分が何者なのか。何という名前なのか。何処で産まれて、何処から来たのか。
 ハールはそんな、自身に関わるもの全てを覚えていなかったのだ。
 そして、彼の側には、一人の少女が居た。
 イドゥナと名乗った彼女は、何も知らぬハールに、一から様々な事を教えてくれた。
 ここはイザヴェルという、『剣と狼の大寒波(フィンブルヴェト)』から逃れ得た者達が建てた循環型巨大地下都市であり、今居るのは自分の家である事。ハールはイザヴェルの地上にある外門の前に、倒れていた事。それを最初に見つけたのが都市を司る歯車式超大算譜塔(ウルトラコンピュータ)『恐ろしき神の愛馬(ユグドラシル)』の管理者であるイドゥナの兄ルド=ルバで、その縁により彼女の家に引き取られた事。
 はっきり言って、ハールには一体何の事なのか、さっぱり解らなかった。
 もとい行き成りフィンブルヴェトやらウルトラコンピュータやらユグドラシルやら言われて、即座に理解出来る様な人間など居る訳が無いだろう。
「嗚呼いいのよ別に、解らなくたって。正直、私達も良く解っていないのだから。」
 そんな風に頭を抱えて困惑するハールに対し、イドゥナはそっと彼を抱き込むと、
「でも悩まなくていいわ、別に。良ければずっとここにいていいのだから。何か思い出すか、安心して暮らせる様になるまで、私が面倒見てあげる。」
 母が子を、姉が弟をあやす様に、優しく諭してくれたものだ。
 その行為によって、どれ程安心し、またそれからの生活の中でどれだけ世話になったか、ハールにとってはとても推し量れるものでは無い。兄のお古だと言って着るものもくれたし、眠る場所もあつらえてくれた。食事も、簡素だが、しっかりとしたものを三食頂いていた。無い記憶を記録で埋め合わせるべく、数多の書物を持って来てくれたのだ。
 それから『片目の男』という意味の名を与えたのも、イドゥナである。名前を付けられ、由来を聞く時まで、自身の左眼がただの孔になっている事すらハールは気が付かなかったのだが。
 そうやって何もかも頂いた申し訳無さの中、彼が唯一見出したのが、この執筆であった。
 それは正しく、見出した、と言って良いだろう。この家に住む様になってから数日後、書斎へと案内されたハールは、雑務の為に置かれていた算譜機械を一目見た瞬間に起動レバーを上げると、『文字』を呼び出し、一つの掌編を綴っていたのである。
 筐体の中に納まった、眩暈が起きる程の数の歯車とその他の極小要素を持って計算するその機械の事は、彼も覚えていた。だが、それで自分が何を出来るのかまでは解っていなかった。
 故にこそ、そうして出来上がったものに酷く驚いたのであるが、
「まぁハール、これ貴方が書いたの? ……凄いじゃない、立派な作品だわっ。」
「いや……勝手に弄ってしまってすまない。ただ指が勝手に、」
「うぅん、構わないわ、いい兆候よ、記憶を思い出す為のね。きっと貴方前は作家だったのよ。いいえ、そうに違いないわ。もっと書いて見なさいよ、それで食べて行ける筈だから。」
 それ以上に、イドゥナの反応が、くすぐったくも嬉しかった。少々大袈裟では、とも感じたが、彼女の笑顔は、素直に快いと思えるものであったのだ。

 かくしてハールは、イドゥナの家のただの食客では無くなった。都市唯一の新聞屋『ストゥルルの息子(ソン)』が配達している『詩篇(エッダ)』にある種の読み物を書く契約が執り行われ、一日の半分を今の様に執筆作業へと費やしているのである。
 その為に、またイドゥナの手助けが要ったのは、心苦しい事ではあったけれど。
 イドゥナ、と、あの頃を思い返し、ハールは苦い笑みを浮かべた。
 確かに、彼女は自分に良くしてくれた。自分もまた、それに応え様と、自分もまた、くたびれた脳味噌を奮い起こし、拙い文章を綴っていった。
 それが月日を経て、好意から愛情に変わっていったのは、すこぶる当然の事だったろう。
 問題だったのは、彼の感情が、異性、恋人に対するそれであった事である。
 余りに美しい姿に宿った朗らかな心。成る程、それに惹かれるのは、男として、同じく当然の事だったに違いあるまい。その視線が、自身へと向いていたならば、尚更の事だ。
 しかし、記憶は無くとも感覚はある。自分が生物として種族を残して行くには、もしくは、人として恋愛を真に愉しむには、余りに老いている事を、ハールは良く解っていたのだ。
 だからこそ自分は、忘れている以外にも何処か脳の中におかしな所があるに違いない、と思ったものだが、事は案外と上手く行った。イドゥナの方もまたハールへと心惹き付けられていて、その二人の愛に、彼女の兄含む周囲が実に好意的だったのだから。
 それから後に、婚姻として、この都市にて崇められている女神ヴァールの前にて彼等は夫婦となったのだが、今でもハールは信じ難い思いの中にある。
 その事は先に少し書いたが、改めて上げる事はやぶさかで無い。
 本当に、余りにも全てが上手く行過ぎている様な気がしてならないのだ。まるで見えざる運命の歯車があり、その回転によって自分が滞りなく動いているかの様に。それは、イドゥナの存在によって日中は忘れ去っている孤独感や喪失感というものとはまた違う不安定さだった。
 けれど、同時に、心配し過ぎなのでは、とも思っている。予想外に事が進んでいる事に対して、心が均衡を保とうとしているのでは無いか、ともだ。
 まあつまりそれだけイドゥナは良い妻という訳か、と、聞く者が居れば苦笑するか激怒するかの二択である台詞を心の内で呟きつつ、恐るべき速度によって打刻していたハールは、ふと、表情装置の脇に置かれた置時計の二つの針が、一つの数字を刺そうとしているのに気が付いた。
 気が付けば、とうの昔に朝では無くなり、昼も昼、正午となっていた。
 極度の精神的集中は時間を縮めるというが、これもまた少しばかり極端だろうか。ハールは一層苦味を込めて笑みを浮かべると、二十日鼠を操作。現在の文章を階差機構に保存(セーブ)し、それから算譜機械を遮断(シャットダウン)した。
 今日は戦神テュールの日、即ち火曜日だ。原稿の提出は麗しの女神フレイヤを示す金曜日だから、まだ時間はある。同時に、一度途切れた集中を再び紡ぐのは難しいのだ。
 それから昼食はちゃんとイドゥナと取りたいし、午後からは彼女との出かける約束がある。
 とりあえず今日はこれまで、と打刻鍵盤から手を離すと、ハールはとんとんと、つま先を打ち鳴らし、足首を廻す。元からとはいえ、椅子を設置しないのはある種の意地であるし、立っている事は神経の糸を一本昂らせる効果を生み出すが、やはり脚には応えるものだ。
 この疲労を、今からはしっかりと癒しておきたいものだ。そう彼は考えると、向きを変え、歯車の騒音も消えて静かになった書斎を、一人後にして行くのだった。

 食堂へとやって来たハールは、殆ど間を置く事無く差し出されたイドゥナの手料理に舌鼓を打った。内実は、ジャガイモをすり潰して牛乳、バターと一緒に合わせたものに、じっくりと茹で上げられた分厚い白ソーセージ、そし度数の軽い麦酒である。多量であれば体に毒であるこの飲み物も、適量であれば妙薬となるのだ。
 朝を軽く済ませた分、昼はそれなりにしっかりと取ったハールは、短い小休止を送った後で、その愛する妻と共に、外へと出掛けて行った。

 その地下都市イザヴェルは、大別して八つの区画に分けられている。
 都市中央に位置し、正しくは中枢として機能している塔(ユグ)。その周辺、巨大階差機構に風を送って冷却する為の深い奈落。それを囲い込む壁一枚隔て、丸く円を描きながらに広が各種施設、商店街、住宅地、職人街が続き、赤煉瓦造りの外周を抜ければ農耕地へと出る。更にそのまま真っ直ぐ行くと、最終的には海、海水を溜め込んだ水堀へと至れるだろう。最深部で数千メートル、水際から擬似太陽=大照明装置が巡る天蓋、即ち地の果てまで何十キロもある様なものを、果たして水堀と呼べるとするならば、だが。
 ともあれ、こうして解る様に、イザヴェルは塔を中心に広がる円環都市である。その周辺環境もまた、イザヴェルの一つとするならば、都市というよりも国家、いや世界と述べた方がより適切だろう。かつてイドゥナがハールへと説明する時、この地を循環型と称したのはそう言う訳である。この都市は完全に、内部で完結しているのだ。
 それに対して、ハールは全く違和感を覚えないから、きっとこの時代には普遍的なものであると思われる。少なくとも、その技術水準としては。

 そんな彼、というよりもイドゥナの家は、商店街から程近い住宅地の一角にあった。似た様な家々が密集し、複雑な小路が成されているそこから彼等が向かうのは、大通りの方だ。
 大通りは縦横に二本、中央目指して十字を描く様に伸びている。尤も、その交差点には塔があるし、更にその周りには奈落が穿たれているから正確な形を象ってはいない。塔への入場は限られているから道も途中で途切れてしまっている。だから都市の反対側に行くには偉い大回りをする必要があったけれど、隣の区画へ行く位ならば、やはりここを通るのが一番早かった。
 同時に、大通りならば辻馬車が拾える。蒸気仕掛けの、馬だけで無い獣を模した機械によって引かれるそれは、最も手頃且つ身近な乗り物だった。
 が、ハールはどうもそいつらが気に入らなかった。自分達と同じ様な遊歩道者が至る所に闊歩し、その間を、白い煙を噴出しながら、金属細工の骨組みで構築された狼やら豚やら猫やらが、白い煙を吐きつつ客車を背負って過ぎて行くけれど、彼は一瞥もせずに歩く。
 その隣を行くイドゥナは、伺う様にその首根っこをハールの前面へと出して、
「ねぇやっぱり乗らないの、辻馬車。お金だって掛からないし、時間だって掛からないわ。それに今日は午後から雨が降るかもって、ヴェズルの天気予報で言っていたわよ。」
 彼女の言葉に、老人はやや気難しげに眉を潜めると、その視線を上へと見上げた。
 確かに雲は今朝よりも厚くなっており、その色合いも黒味を増している様だ。
 擬似太陽の出力変更、四季の変動こそ、塔の指揮下にあるが、天候自体は操作しようが無い。だから塔の出来る事は絶対には絶対にならない予知だけで、そういった塔の算譜結果を即座に読み取るのが、俗に『巫女』と言われる者の役目である。
 高度に複雑化したとは言え、算譜機械の大元は、歯車の凹凸の噛み具合である。その単純でありながら余りに複雑怪奇な取り組みを、逐一人語に解釈するのは時間的に無理があり、しばしば組み合わせ自体が言語として読解される。その言語は『秘譜(ルーン)』と呼ばれ、それを正確に読み取るには、多大な研鑽と、それ以上に才能を必要するのであるという。何処か抜けた性格が妙な人気を博しているあの能天気、失礼、お天気巫女(キャスター)ヴェズルも、それなりの苦労人という事か。彼女の読解率が高くなければ、鼻で笑ってしまう様な事実であるけれど。
 ただ、それをイドゥナから聞いても、ハールは一向に辻馬車を留める気配が無い。今の季節は夏で、衣服の厚みも薄い。傘も持っていない訳で、時分に関係無く老体に雨は厳しいだろうに、彼は実に頑なな様子を保っていた。
「もう、仕方が無いわね。後で乗りたいって言っても、知らないんだから。」
 イドゥナはそう言うと、体を起こし、つんとして歩き出す。ただハールは、それが決して本気では無い事を知っているから、別段何も言わずに微笑むだけだ。もし仮に、彼が倒れる様な事でもあれば、強引にでも辻馬車に押し込み、医者の所まで連れて行く。それが、イドゥナという少女である事を、ハールは良く理解しているつもりだった。
 しかし、自身の感覚に嘘は付けない。
 彼女が何と言おうと、あの辻馬車というのはどうにも好きになれないのだ。
 恐らくその原因は、あの動力部である模造動物にあるのだと思う。細い金属を編み込んだそれは、どう見ても機械であるのだけれど、しかし妙に生々しさを感じさせる。その逆行性が、ハールには耐え難いのだろう。嘘でありながらも嘘ではない、という事実は、記憶という地盤を持たぬ男にとっては、なかなか受け入れるものでもあるまい。元になった筈の生き物が、この都市に、仮に農耕地であろうと一匹たりとも居ないという事実が、それに付随される。
 そうして、ハールが耐え難いものと言えば、もう一つ存在した。
 それは外に出ると、絶えず視界の隅をちらつく存在である。こうやって、イドゥナと二人歩いている時でさえ、彼にはそれが気になって仕方が無かった。
「なぁイドゥナ。」
「うん? なぁに、ハール。」
 何時の間にか腕を組んで歩いている彼女へと、ハールは尋ねる。人垣の中、通りの曲がり角、小路への入り口、地下階段の陰などに佇む、その、黒いフード付きローブを纏った者達を。
「前にも聞いたな……矮人(ドウェルグ)だったか、あれは一体何なんだ。」
 そう言って、彼は影の方へと焦点を合わせる。矮人と呼ばれる割にはそれ程小さいという訳でも無いその存在達は、直ぐにフードで隠れた顔を上げると、ハールの片目の視線から逃れる様に、こそこそと物陰へと消えていった。外見も不気味だが、その仕草も気味が悪い。
 しかし、何よりも彼の心を煩わせたのは、
「え? やぁね、矮人は矮人よ。それ以上でもそれ以下でも無いわ。」
 とイドゥナが言う様に、この都市の者達が、あの存在を気にもしていないという事である。
 始めて矮人を見た時も、ハールは彼女に訪ねたが、帰って来たのは今と似たり寄ったりなものだった。街の連中にも聞いて回ったけれど、返って来る言葉は大体同じである。図書館に赴き、調べた事もあったが、結果は同じだった。ただ、どうもあの者達は住人達より忌み嫌われていて、言葉の上でさえ触れぬ様されているらしい、という事位は解った。それで結局正体は、と聞かれても、応え様が無かったが。
 だからこそ、余計に気になるのだ。矮人とは何者なのか、あのローブの下には、如何なる真実が隠されているのか。或いはその事実へ至れば、覚醒の度に自分を苛むもの、失われた記憶も取り戻せるのでは無いか。ハールはそう考えていた。
 それを、今だ行っていないのは、胆力が不足しているからに他ならない。確かに、それをする事で新しいものが見えてくるかもしれない。だが、暗黙の了解を破ってまで果たしてやる意味があるのか、と言われると微妙である。何よりも、それによって、今のこの快い関係や環境が壊れてしまうのではという疑問こそが問題であった。

「ほらハール? 付いたわよ、呆っとしない。」
 そこでイドゥナの声が耳元に飛び込み、彼ははっとなって前を見た。薄暗い思考の海に沈んでいる間に、辻を行く怪船に乗る事も無く、ハールは目的地へと付いてしまった様だ。
 大通りに面する商店街の片隅に佇む、古びた木の味わいが素晴らしい一軒の喫茶店(カフェ)。
 九人もの娘を持つ赤ら顔の店主ルギエが営むその店こそが、午後の遊歩の目的地である。普段であれば午後のお茶など家で行うものだけれど、今日はここがいい、と言って来たのはイドゥナだった。雰囲気も良く、旨い珈琲や菓子、言えば酒類も出すのだけれど、料金が少々お高く、財布に厳しいのが難点で、常連にはちょっとなれない。精々が、こうして時折暇を見てくるのが関の山という所だろう。それでも良いから、とイドゥナは言う。彼女は、ここで出されるアップルパイが好きなのだ。自分で作るのでも、この店のものには適わないのだと。どちらも何度か食した事があるハールにしてみれば、然程差は無かった様に感じられるけれど、そこにはまたイドゥナなりのこだわりめいたものがあるに違いない。
 そう思いつつ、ハールはそっと扉を開けた。感覚の奥深くから到来する女性第一(レディーファースト)の精神を持って、期待に胸膨らます彼女の方を先へと誘わせる。
 その時、運良くと言うべきか、運悪くと言うべきか、丁度向こうから現れる者が居た。
「おっと? これはこれは、また奇遇ですな、ハール殿、それからイドゥナ殿。」
 それはまた奇遇にも見知った顔であった、が、彼等には余り喜ばしい者では無かった。
 眉間に皺を寄せ、嫌悪感も露にさせながら、イドゥナは言う。
 扉の脇に立ってその道を塞いでいる、黒髪の青年へと向けて。
「ロプト……貴方、こんな所で油売って、何やってるのよ。仕事はどうしたの? 」
「また心外なお言葉ですなぁルド=ルバ閣下の妹君、まるで私が無碍にして無為に時間を潰しているかの様に仰られる。私とて、これでも忙しい日々に追われる哀れな者に過ぎないのです。その隙間に出来る僅かな休息を、芳しきルギエの珈琲で送ったっていいではありませんか。」
 そのイドゥナの言葉に対し、実に丁寧な物腰で、しかし無礼な心持をその薄ら笑いに込めながら、ロプトと呼ばれた青年は、やれやれという調子で肩を竦めた。
「して、そうは思いませんかな? 閣下の義弟殿。」
 彼の台詞にイドゥナがむっと険悪な表情を見せる中、ロプトは続け様にハールの方へと声を掛けた。老人は、青年の調子に聊かうんざりした様子で、片眉を上げながらに応える。
「嗚呼、確かにその通りだ。だが、それは我々とて同じなのだよ、ロプト。」
「おお、これは失礼を。」
 ロプトは、ハールの言葉に芝居がかった驚きを見せると、さっと扉から離れた。
「夫婦水入らずの一時に、とんだ邪魔を入れてしまった様ですな、申し訳無い。」
 本当にそう思っているのだろうか。そこは実に疑わしかったけれど、ハールは首を縦に振り、
「いや、別に構わんよ、こちらとしてはね。」
「然様で。それでは、また何れお逢いしましょう、灰髭の男(ハールバルズ)。」
 ロプトは紅い瞳を片方瞑ると、飛び跳ねる様に通りの向こうへと歩いて行った。
「……義兄も大変だな、あの様な男が部下であるとは。」
 ハールはその口髭を撫で付けて、去って行く青年の後姿を見送る。若々しく、そして逞しいあの男の弟とは良くぞ言ってくれたものだと、その皺が入った瞳が語っていた。
「全くよ、嫌味な男だわっ。あんな奴とこんな所で出くわすなんて。」
 イドゥナは憎悪にも似た不快感を如実に表情へと浮かべ、抗議の声を高らかに発した。

 ロプトは、彼女の兄の側近とも呼べる立場にある人物だ。
 塔の総合的な管理を行っているルド=ルバは、その役職に相応しい、公正公明な好漢であり、イドゥナと結婚する以前、知り合った当時から、ハールは良い印象を持っていた。
 が、後に彼から紹介されたあの男は、それと間逆の性質を持つ男であり、自然、ハールも好ましい感情を抱く事が出来なかった。それは今も続き、払拭しきれずに居る。あの絶えず人を小馬鹿にしている様な、ちょっとした世間話の時に置いても垣間見せる道化の如き態度は、どうしようも無く接する者を不愉快にさせるのだ。
 その感想はイドゥナも同じであった様で、彼女の口から語られるロプトは、実に酷いものである。実の兄が、あんな男と接する事自体、許せずにいるらしい。
 実際、ハールも不思議だった。何故ルド=ルバは、ロプトの様な者を側に置いているのか。
 同じにイドゥナの態度も、だ。人間性の生理的嫌悪だとか、家族に対しての想いだとか、そういったものとはまた別の理由で、彼女は彼を嫌っている節がある。それが何なのかは、やはりハールには判別付かないものであったけれど。

 ともあれ、そんな男に対して時間を割いていても致し方が無い。 気を取り直した二人は、改めて、ルギエの店へと入る。
 いらっしゃいませ、という計十一人分の声が、木の床を踏み鳴らすと共に響き渡った。
 外から見るとこじんまりとした様に見える店内は中に入ってみると、それなりに広い様に感じられる。先客が結構な数居るに関わらず、だ。実際にそうやって建てられているのか、或いは暗褐色の落ち着いた照明やきっちりと整えられた間取り、カウンターので譜刻盤(レコード)を元に、年代物(クラシカル)な楽曲を流している歯車式蓄音機(フォノグラフ)が心的な余裕を与えているのかは定かで無いけれど、悪くは無かった。寧ろ良好と言って差し支えあるまい。
 多少なりとも荒んでいた心が癒えて行くのを感じつつ、ハールとイドゥナは、ルギエの何番目かの娘である女給に誘われるかの様にして、奥のテーブル席へと向かった。店の内装に合致した卓と椅子に来て、静かに腰を下ろす二人は、直ぐに注文を命じる。
「水を一杯、それから熱い珈琲を頂けるだろうか。」
「私もお水、それからアップルティーと、アップルパイをお願いするわね。」
 その言葉に、畏まりましたと会釈すると、女給は踵を返して、カウンターへと戻って行った。
 さて、一度注文してしまうと、品が届くまでの間が暇なものである。
 ハールは再び立ち上がり、テーブルの間を通ると、盗難防止用の施錠が成された今週号の新聞を一つ……他にも幾束かあるけれど、それらは全て週を置いた詩篇である……掴み上げ、元来た道をイドゥナの元へと帰って行った。
「何か面白い記事でも見つけたの? 」
「うん……うん、ちょっと待ってくれ――」
 そんなにでも無いけれどちょっとは興味あるし聞かせてくれるならば聞いてもいいわ、という猫の視線を送る彼女に対し、ハールは椅子に座ると、ばさりと黄褐色のインクで擦られた紙を広げ、犬の如き鋭敏且つ実直な集中力を元に、文字へと目を通して行く。
 と言っても、目ぼしいものは余り無かった。
 この都市はなかなかに平和で、余り事件らしい事件というのが起きない。だから掲載されている内容も、何処其処の誰々さんが何々の事を成し遂げた(例:著名な職人が多数住んでいる事で知られるニダヴェリール通りD十二番地のブロクル氏が、中空にて七色に変色する花火の製造に成功した、等)という様な、身近のちょっとした出来事が大半である。
 ここの者達は、都市という場所に関わらず、穏やかな気性の持ち主ばかりであるらしい。とても良い事であると思う。勿論中にはロプトの様な人間も居る訳なのだが。
 因みに記事の残りは公私問わずの告知文に連載小説、そして最後に、事件事故という按配だ。
 そうしてハールは、個人販売用猪型辻馬車『タングリスニ』の発注募集広告や、自分が恥ずかしげも無く記した作品を苦笑気味にちらと見つつ、一枚捲り、酒樽を載せた辻馬車が誤って荷を崩し、ぶちまけた液体によって阿漕な酔っ払いどもの舌を愉しめたという、漸く現れた『らしい』事件に笑いながら、ふと一つの告知文を見つけて視線を止めた。
 一頁使って、今までの例に漏れぬ日常的なコメントを載せていた記事なのだが、その中の一つが、妙に彼の琴線を刺激したのである。それは僅か一行の簡潔な文で、この様なものだった。

『物事の真偽を見極めたくば大樹にて首を括れ。ただし、頭は下にしてするべし。』

 セックからサンゲタルへ

 別に大したものでも無いし、周りと浮いている訳でも無い一文である。こうした何処か謎めいた、詩的なものや格言めいたものは他にも幾らでも載っているのだ。
 だが、それでもハールは妙に気になった。何かこれは重要な事が書かれているのでは無いか。セックやサンゲタルと言った聞き覚えの無い……あのガングレリと同じだ……名前にも、隠れた意味を感じる。その感覚が、歯の奥に何か挟まった様にむず痒かった。
 ただ、これも何時もと同じで、何の根拠も無いものである。
「ハール? ハールっ? 」
 そうイドゥナに己が名を呼ばれて、ハールは漸く我に返った。
「あ、嗚呼何だ? イドゥナ。」
「何だじゃないわよ、呆っとして。疲れてるの? 前見てみなさいよ、前。」
 言われるがままに視線を向けると、何時の間にか頼んでいた品が現れていた。凝り性(アンティーク)なグラスとカップにそれぞれ入った水と珈琲が、老人の顔をその水面に映し出している。
「何時の間に……。」
「ついさっきだわ。気付いてなかったのね、やっぱり。」
「全然、だ。」
「やれやれだわ、ねっ。」
 イドゥナは額に手をやって頭を振った。
 が、直ぐに腕を伸ばすと、彼女はハールの手の中から詩篇を奪い取ってみせる。正に、あっと言う間の出来事で、成す術も無く新聞を取られた彼を尻目に、イドゥナは自身の膝の上に新聞を載せてから、きゅぅと目を細めて伺う様に、
「もう、男の人は放って置くと直ぐそうやって新聞なんかに夢中になるんだから。別に構いませんけどね? まずは目の前に居るご婦人の相手をしてくれなくちゃ困るわよ。」
 そう言ってみせるけれど、唇は笑みを浮かべていて、口振りも優しいものだった。
「成る程、確かにそれは尤もな話だ。」
 ハールもまた微笑むと、大仰な仕草を持って、肩を竦める。
「解ればいいのよ解れば。」
 イドゥナはそう応えると、前に置かれているルギエ特製のアップルパイにフォークを入れた。甘酸っぱい芳香が卓の対岸に居るハールすら鼻腔を擽るそれを食べ易い様小さく切り分け、平に乗せてそっと薄紅色の唇へと運べば、てゆっくりと、微細な成分まで味わう様に口を動かす。
 そうして灯った頬の赤らみに、緩んだ目と頬の柔らかさは、婦人というよりも年齢通りの少女であったが、これはこれでまた眼福であると、ハールは幼いその妻を見つつ珈琲を啜った。
 幾分きつい値段も、その笑顔を見られるならば安いものだと、そう思いながら。
 
 暫くぶりに好物を味わった幸福にすっかり浸っているイドゥナを微笑ましくもそっと誘って、ハールはルギエの店から表へと出た。気が付くと、外は既に暗くなっている。どうやらヴェズルの予報は外れたらしく、雲は流れて確かな空を見る事が出来た。擬似太陽もまた外壁の向こうへ姿を消そうとしており、代わって天蓋上には、太陽よりも幾分か小さく、青い光を放っている擬似満月が昇ろうとしている所である。更に周囲を見れば、家路を急ぐ人々の姿が至る所で目に付く。その中には幾つか、あの忌まわしき矮人の姿もあったけれど、霧が包み込む様なこの雰囲気の前には些細な存在だ。
 確かにゆったりと、間延びした時間を過ごしたが、どうもそれは予想以上に長いものだったらしい。実に夕方の空気を放っているイザヴェルの風景に笑みを浮かべつつに、ハールは歩き出した。イドゥナがその隣を、やや早足で付いて行く。
「やっぱりあそこのは美味しいわ。あの真っ赤な色彩も素敵だし。」
「嗚呼それは結構……私も、一切れ貰って置けば良かったな。」
 そう言って笑う彼女が自身微笑ましく、ハールは応えながらに、そっと金の髪を撫ぜた。
 イドゥナは、僅かに眼を細めてくぐすったそうにした後、徐にその手を弾き、
「やぁねハール。私は、あなたの子供じゃないのよ。」
 勿論孫でもね、と更に猫のそれが如く口元を吊り上げ、彼の左手をぎゅっと握った。
「私は貴方の妻なんだからね? 何度も言ってるけど、それを忘れちゃ困るわ。」
 暖かで、柔らかな、小さな感触が、その全てと対極を成す自身の掌より伝わる。
「ん……強引だな。いや、勿論、忘れてなどいないさ。」
 ハールはイドゥナの言葉にそう返すと、ぎゅっと握り返した。
 二人の様子を傍目から見たならば、先程彼女が危惧した通りの関係だと思われた事だろう。確かにその事は、彼自身半ばそう感じているのだから、他人の思考を否定出来る訳も無い。
 だがしかし、ハールのもう半分は、そんな事など最早気にしていなかった。
「全く……忘れる事など誰が出来るか。」
 呟き、イドゥナを見つめるハールに、彼女もまた、にこやかに微笑んで見せる。その表情の愛おしさに、老人は歓喜の思いが胸一杯に満ち溢れてくるのを感じた。
 全く、何と幸福な事だろうか。記憶も無く、ついでに片目も無く、それでいて歳月は無慈悲に刻まれた男。そんなハールにとって、この少女の存在が、どれ程までに心の拠り所となっている事か、彼にもそれは計り知れないものである。
 だからこそ、と、ハールはその指に一層の力を込めた。だからこそ、この手を離してはならないのだ。イドゥナという愛すべき妻を、その妻と送るこの幸せな日々の連続を、決して、何があろうとも、手放してはならない。ちょっと痛いわよ、と、怒った様に、しかし口元へ笑みを湛えて言うイドゥナに謝りつつも、ハールの心は揺ぎ無かった。
 そうして二人は、周囲の者達がそうする様に、ゆったりと家路を進んで行く。
 月光と、幾つも並ぶ瓦斯灯の輝き、窓辺から毀れる家々の明かりに、導かれる様にして。
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