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2.RとFの正午線
 そこでハールは、自分が見知らぬ土地を歩いている事に気が付いた。
 はてと訝しがって立ち止まると、目に入るのは一面の黒世界である。
 遥か彼方に望める地平線まで、人口の建造物はおろか、自然の造形物すら皆無の平坦な荒野へと、イザヴェルよりも濃い黄褐色の雲か黒い雪が降り積もり、大地を覆っているのだ。
 一歩踏み込めばぐじゅりという湿った音がし、脚を上げようとしてもその黒い雪は灰の様に靴に引っ付いて剥がれない。靴だけでなく、触れた服にすらそれはこびり付いて行く。
 その様子に、何とも言い難い嫌悪感が浮かんだけれど、ハールは再び歩き出した。
 おかしな話で、ここが何処なのか皆目検討も付かないというのに、行かねばならないという気だけがしている。それこそ何処に、何故に、と疑うべき所だろうけれど、彼の中で進まねばならないという感覚は異様に強く強迫めいたものとなっており、容易に覆せはしない。
 ハールはそうやって歩き続けた。老いたる心と体に苦痛以外の何物でも無い、この一切の慰を欠いた地平を、延々と、見えざる声に従うかの様にして。
 いや、正確に言うならば、声ではなく視線だろうか。見えざる瞳が自分を見ている、それも四方と言わず彼方此方から見ているのを、ハールは感じていた。それも絶えず。周囲には彼以外居らず、隠れられる様な場所とて無いのだというのに、これは一体何だと言うのか。
 だがそう思った所で、返って来るのは物言わぬ観察者の気配でしかない。半ば諦めの気持ちがままに、ハールは脚を動かし続けた。黒雪に点々と足跡を残し、見果てぬ果てを目指して。
 その景色は何時までも変わる事は無かったけれど、時間を経るに、一つの変化が起こった。何時までも止む事無い黒い雪の中から、唐突に、聞き覚えのある二つの声だけが上がったのだ。
 全く仕方が無いわねこの人は、と言う少女の声は、紛れも無くイドゥナのもの。それに対し、作業に徹した後なのだから構わないさ、と応える男のそれは、ルド=ルバのものだ。
 ハールは再度立ち止まった。ここが何処で、何処へ向かっているのかは解らないけれど、何処から来たか、思い出す。ついでに、今が何時なのであるかも。
 今日は金曜日、女神フレイヤの日であり、彼の執筆を掲載している新聞屋『ストゥルルの息子(ソン)』から編集担当のヨーン氏が原稿を取りに来る日であった。午前がもう直ぐ終わろうとする頃に自宅を訪れた彼の人は、ハールが打刻(タイプ)した原稿を読むと、その出来に太鼓判を押し、更に機会が無いからと今夜上映される幻画(キノトロープ)の鑑賞券を二枚くれたのだ。そうして、ほんの僅かな間だけれども労苦からの開放と、降って湧いた享楽への期待を胸に、イドゥナが作る昼食と食後に珈琲へと舌鼓打った彼は、今日遊びに来る予定の義兄が訪れるまでの間、居間の安楽椅子で休んでいたのだが、何時しか意識が解けて行き――

 思わず自分が寝入ってしまっていた事をハールが悟った瞬間、夢はたちどころに消えた。
 呻きつつ、生の右目を擦りながら体を起こすと、木製の卓の前に、イドゥナとルド=ルバが座っていた。二人とも珈琲カップを手に、何事か話していた様だが、彼が起きたのに気付くと、妹は呆れた様な笑みを、その兄はそれを嗜めるかの如き笑みを浮かべて、口々に言う。
「漸く起きたみたいね、お寝坊さん。今日ルドが来るって知ってたしょうに、全くもう。」
「お早うハール……はは、私なら構わないよイドゥナ。特に用があるという訳でも無いからね。」
「と……すいません義兄(にい)さん。どうも、うっかりしていた様で。」
 兄妹で実に良く似た二人の若者の姿に微笑みつつ、ハールはよっと立ち上がった。拍子に肩へと掛かっていたシーツが崩れ落ちるのに更に笑みを深めつつ、彼はイドゥナの隣へ赴いた。ありがとう、とその耳に囁いてやると、イドゥナはふふっと鼻で笑ってから、気にしないで私達夫婦じゃない、と応える。そうやって平気な風にカップへと珈琲を注いで行くが、ハールは彼女の頬に薄っすら赤味が指している事を見逃さなかった。
 振り向けば、ルド=ルバが二人の様子を愉しげに見つめている。そのイドゥナと同じ色の瞳とふと重なり、無性な気恥ずかしさを覚えたハールは、苦笑いしつつ肩をすくめた。そうして、聊か荒々しげに置かれたカップを口元へ寄せつつ、彼は己の義理の兄を改めて見る。
 ルド=ルバは、イドゥナよりもずっと年の入った青年だ。年齢からすると二十代後半か、三十台に入るか否か、という所である。その年の差もあって、イドゥナが産まれて直ぐに死去してしまった両親に代わり彼女を育てたと聞いている。だからどちらかというと、兄というよりも父という側面がイドゥナにとっては強い様だが、老人たるハールからすると、異様に若い父親という風に感ぜられた。確かに見た目はイドゥナと良く似ていながら相応の年に達しているのだが、何処か詩人を思わす儚げな印象の為か、もっとずっと若々しく見受けられるのだ。尤も、当人に詩の才能などからっきしであったのだが。
 そんな相手に敬語で接するというのも、ハールにとってはまたおかしな話であるが、やはり関係上は妻の兄になる訳であり、そこはしっかりして置きたいという感覚もある。
 イドゥナが淹れてくれた珈琲を味わう様にじっくりと啜り、香り高い暖かさが全身に満ちるのを感じながら、ハールはそう、ルド=ルバを思った。先に見た、あの意味不明の夢を頭から追い出す様に。今日の朝も当然の如く見た、あの寝起きの不快さは無かったけれど、これだって決して気持ちが良いという訳ではない。
「ともあれ、元気そうで何よりだよハール。執筆業は色々と大変みたいだが。」
 それを察して、という訳では勿論無いのだろうけれど、実の妹が淹れた珈琲を啜りながらに言う義兄の言葉が喜ばしく、ハールは笑った。そうですね、と頷けば、
「そちらこそですね。久方ぶりに顔を見ましたが……職務の方は、恙無く?」
「嗚呼勿論、と言いたいがね。承諾の為だけに何時間も拘束されるのは勘弁願いたい。」
 ルド=ルバは、さも嫌そうに頭を振う。そこでハールは更に笑った。義兄は都市の中枢である歯車式超大算譜塔(ウルトラコンピュータ)『恐ろしき神の愛馬(ユグドラシル)』の管理者であるのだが、しかしその管理の仕事は大したものでは無いらしい。主な行程は塔(ユグ)が行う為、彼の役割は各種計算機構使用の認可が一番大きいと聞いている。例えば天気の予報など、あのサイズの歯車式算譜機械(コンピュータ)で無ければ出来ないのだという。そういった塔の利用を求めて、うず高く積み上げられた書類に印を押すのが自分の役目だと彼はかつて言ったが、成る程、それは重要とは言え、退屈な役目であるに違いない。もし自分がその様な事をする羽目になれば、一日と言わずに、嫌気が差してしまうだろう。
 そこで男同士解る事があるのか、ハールとルド=ルバが笑い合っていると、皮を剥いて食べ易い様に切り終えた林檎を持って来たイドゥナが、つんと鼻柱を上げた様子で言った。
「何言ってるのよ、その仕事に就く為にこの家を出て行った癖に。今更泣き言も無いんだわ。」
 彼女はそう、フォークで刺した白い果肉をしゃりしゃりと噛み砕いて行く。
 ルド=ルバは、ハールを一瞥した後に苦味を帯びた笑みを浮かべて、
「まぁ……確かにそうなのだが、多少とも愚痴を零してもいいじゃないか、イドゥナ。それに、君にはハールがいるだろう?それとも、夫婦仲に問題があるのかな、君達。」
「いや……まさか、そんな事は無い、かと。」
「まさかっ。もしそうだったら、とっくにこの家から追い出してるわっ。」
 その言葉への返答は、夫妻ほぼ同時だったけれど、明らかに妻の方が相手を圧倒する。更にイドゥナは、ぎょっとした表情を浮かべるハールの片腕へと抱き着いてみせた。
「これはまた……我が妹ながらに、妬くべきなのか?」
「はぁ、そうするべき、所なのかもしれませんなぁ。」
 彼等の様子をじっと眺めながら、先程の笑みをより深めるルド=ルバへと視線を送りながら、ハールもまた彼と同じ笑みを浮かべる。が、しかし、その幼い妻の行為を咎めようとはしなかった。イドゥナの豊かな金髪が肌に触れる柔らかい感触、華奢な腕に込められた力強さ、立ち上る何処か林檎めいた芳香、それが示す愛情を、この若者の前で独り占めするのも悪くは無い、と、少々意地は悪いが、しかし純粋な喜びが、その胸を包み込んでいた。

 そうやって暫くの間、三人は、何と言う事も無い世間話に花を咲かせていた。例えば、タナクヴィスル通りにあるニエルドの定職屋が出す魚料理は、なかなかに美味だ、とかだ。
 それは実に、ハールの心を愉快にさせた。大した事では決して無いのだけれども、いやだからこそ、今ここで生きている事の幸福を実感出来るというものだ。先に見た夢が、まだ心にしこりとして残っている以上は、尚更に。
「嗚呼、そうだハール。少し良いかな?」
 そして、珈琲を入れておいたポットが空になり、つまみとして出されたい林檎が全て無くなった頃、イドゥナが片付けに席を立った後で、ルド=ルバは幾分真剣な面持ちで言った。
 一体行き成り何だとハールは思ったけれど、だが首肯した。ありがとうと義兄が礼を言いつつ、外へと出て行くのに訝しがりつつも、彼は後を付いて行く。廊下を抜け、二重扉を開けて出ると、小路を抜ける風が頬に当たって、ハールはむっと顔を顰めた。
 その前で、ルド=ルバは、この家々の影からでも容易に見据える事が出来る塔と、背後に延々と続くかの如く黄昏色の空を眺めていたが、ふと振り向いて言った。
「話というのは他でも無い、ロプトの事だ。先日は、彼が失礼を働いた様だね。」
 何事かと身構えていたハールは、その名を聞いて、嗚呼、と合点がいった。成る程あいつの事だったかと、表情が崩れ、彼は気にするな、と頭に置いてからにこう返す。
「イドゥナか、本人から聞いたのでしょうけれど、大したものでも無いですよ。私自身、今になるまですっかり忘れていた位なのですからな。」
 その言葉に、ルド=ルバは何か安心した様で、ふっと口元を吊り上げながらに、
「ならばいいのだが……あれは、余り出来が宜しくない。何か妙な事を言うかもしれないが、今の様にそうやって流してくれると、私としても気は楽だな。」
 それを聞いて、ハールは笑った。やはりあの様な部下を持つと、上司というのも大変なのだろう。彼が、余り塔の仕事を好んでいない風なのは、そこにも原因があるのかもしれない。
「大変ですなぁ、義兄さんも。同情します。」
 その様な境遇に陥る様な仕事についていないハールは、半ば対岸の火事として言った。ルド=ルバは、それに対し、口元だけでなく眉間も幾分か吊り上げて、
「全く……時折、お前と私の役柄を交換したくなる時があるよ、本当に。」
「いいですよ、構いません。ただ、そちらとは別の苦しみが待っておりますが。」
「解っているさ、そんな事。それに、私が文の才能を持たない事など、とうに知っていよう?」
「勿論ですとも。イドゥナから一度見せられましたが、確かにあれは酷かった。」
 年の離れた義理の兄弟は、互いの欠点を挙げた後に、盛大に笑い合うのだった。

「ではまた暇な時にでも伺おう、そんな余裕があるとするならば、だが。」
 そして擬似太陽が傾き始める頃、ルド=ルバは帰って行った。特注の白馬型辻馬車である『フリングホルニ』が路地まで入り、彼を乗せて去って行くのを、ハールとイドゥナが見送る。
 その後ろ姿が見えなくなると、さて、と彼女は夫の方を向いて、
「それじゃ、私達もそろそろ準備をしましょうか。結構遠いから、辻馬車に乗るわよ。」
「嗚呼、まぁ仕方が無い……やはり出来れば他がいいのだが、な。」
 くすくすと声を出して笑うイドゥナに、ハールはどうしようも無いといった笑みで返した。
 彼等はこれから、各種公共施設が備わった中心部へと、幻画を見に行く予定だった。

 幻画とは、一種の映像投射装置であり、元来動力源として使われる蒸気を媒体として、そこへ光を放ち、三次元的な立体映像を中空に浮かび上がらせるという機械及びその映像である。
 なかなか面白い趣向なのだが、しかしハールはまだ一度も見た事が無かった。
 何故と言って、一回の入場料が恐ろしく高価であり、また新作公開が断続的だからである。
 これは、その機構上の問題に由来する。立体的に映す為には、四方八方から光線を放つ必要があるのだが、その光線、映像を撮って来るのに、複数の転写装置(カメラ)がまた必須となる。一つの存在を、別の角度から幾つも捉えなければならないのだ。だから当然、一回の撮影だけでも相当な時間や費用がかさむ訳であり、比例して入場料も上がり、使い廻しも増えるという寸法だ。
 ただそれでも、市民の娯楽としてやって行ける程の利益が出ているのは、その高価さが逆に珍奇なものであるとして、別の人気を産んでいるからだろう。
 イドゥナが招待券を貰った時の喜び様も、これに起因していた風に感じられる。事実、内容云々よりも見られるというその事実にこそ、嬉しがっていたのだから。ただ、それはそれでハールとしては微笑ましい事である。それにまた、自分も見てみたかったのだから、丁度いい。

 部屋へと戻ったハールは、一足先に夜会用のきちんとした黒のスーツ一式に着替え、髭を剃る等の身支度を終えると、イドゥナが着替えて来るのを、居間で待っていた。一々この様な格好にならなければならないのは甚だ面倒臭い風俗であるけれど、それに難無く準じている自分もまた居る。それから暫く時が経ち、そっと取り出した真鍮製懐中時計の文字盤が、パタパタと秒盤を廻し、二つの時盤が『18』と刻んだ時、お待たせ、とイドゥナが居間へとやって来た。彼女の格好は、青を基調にしてフリルを多用した絹のドレスであり、名も知らぬ白い造花を丁寧に結った小麦色の髪の毛に挿して飾りと成していた。成る程、こういう普段と違う格好が見られるというのならば、この習慣もまたいいかと思いつつ、ハールが良く似合っていると褒めると、イドゥナは少女らしいはにかんだ表情で、ありがとうと告げた。
 そのまま二人は連れ立って、外へと出た。準備している間に、擬似太陽はすっかりと沈み込み、擬似満月と瓦斯灯、家々の明かりが周囲を薄青く照らしている。
 健やかな夜の光景が辺りに満ちる中、彼等は小路から大通りへ行くべく、連れ立って歩いた。小さな淑女が彼女よりも高い紳士の片腕に組み付く輪郭(シルエット)が、石畳を進んで行く。もし、その影に色があるならば、紳士の顔は赤らんでいた事だろう。昼間は断固として拒否しているこの挙動も、夜ともなれば許しているものだが、それでも恥ずかしい事には違いない。それと同じか、或いは以上の事を成しているのでは、という言葉は、紙一重の感触で消火されている。
 擦れ違う人の少ない、だが決して無い訳では無い細い道を行くと、その形容詞が、少なくない、へと転じる広々とした道に出た。ハールが空いている手でそっと手を上げると、折り良く通り掛かった辻馬車が止まり、二人を乗せて走り始める。
 向かうのは、塔が位置する中心部だ。奈落の外側に並ぶ各種施設郡の多くは、地下或いは専用の高速辻馬車によるメッセンジャーを介し、塔と繋がっている。計算気候を利用するが為であり、隣接地域に建設されているのもその為だ。噴出される蒸気へと適切な間隔、位置を持って光線を放射、三次元映像を浮かび上がらせるには、それなりの計算が必要となるのだ。
 その幻画を公演している劇場目指し、ハール達を乗せた辻馬車は真っ直ぐ向かって行く。体内の貯蔵槽に圧縮した蒸気を調整された一定量の元に吐き出し、闊歩して走るその鉄の獣は、何を思ってか蛇の頭に馬の体をした奇怪な姿をしており、その偽物じみた生き物によって引かれる彼の嫌悪感を強めた。腕を組んで肩を怒らせる老人の隣に座る少女は、その様子にクスクスと笑い声を上げる。ハール自身、これではどちらが子供かと思っているけれど、だが嫌いなものは嫌いなのである。その態度を容易に改められるものでも無い。
 こうして二人を乗せた辻馬車は大通りを中へ中へと進んだ。小さな窓の向こうに移る建築物が、煉瓦と木造の家から硝子と装飾の多い店へと変わり、やがて大規模な建物へと変わる。イザヴェルを分ける厳格な区切りは実は無い……特に、外壁内部に置いては……のだが、それでも解る程に景色は変化し、そうして目的地である劇場へとやって来た。
 ハール達と同じ様な格好をした者達が何人か、連れ立って降りて行く地下への階段、その入り口の上に毒々しいまでに派手な色彩を放つ発光塗料で『フニットビョルグ座』と書かれた看板がある。階段を少し下りると、そこの両壁には確かに『幻画』と銘打たれると共に、奇々怪々な怪物や、ハンサムな俳優達が描かれたポスターが貼ってあった。
「さ、それじゃ行きましょうかハール。そんなむっつりした顔は止めて頂戴ね?折角の幻画なんですもの、もっとずっと愉しみましょうよ。」
 その性質から幻画は、活動的なもの、娯楽的なものが、より好まれる傾向にある。
「ん……嗚呼、そうだな。それでは、そうするとしよう。」
 組んだ腕を強引に引っ張り崩す妻に苦笑いを浮かべながら、ハールはそっと先に辻馬車から下りた。自然と、吐息が毀れる。正直、余り生きた心地はしなかったのだ。それから、恭しげにイドゥナの片手を取りつつ、そっと大地へ立たせてやる。とんと、編み込み靴を鳴らしつつ、床に脚を付けた彼女は、再び彼の片腕を取ると、その柔らかい髪の毛を押し付けた。
 ハールが先導する形で、二人は階段を下りて行く。とは言え、実際の長さは対してある訳でも無く、緩やかに下降するそれを数段踏めば、大仰な造りの木製の開き扉が目の前に現れた。その両隣に佇んでいる、ポスターの中の人物と似た様な印象を与える若い、だが異様に背の高い給仕達によって扉が開かれ、ハールとイドゥナはさっと中へと入った。
 半地下にあるフニットビョルグ座のホールは、狭い入口とは裏腹に結構な広さを持っていた。正面に位置する太い支柱を中心に円の形をしており、幾つかの廊下がそこから伸びている。その奥に見える、この入り口と同じ造りの扉が、恐らく幻画を上映する舞台へと続いているのだろう。人々はホールに大挙している。彼等は扉が開かれるのを待って、支柱の下に造られた売店より新聞や案内書(プログラム)、簡易容器ごとの飲食物を購入し、談笑に明け暮れている様だった。
 片目だけでざっと見たハールは、お客様、と告げた声の方を見た。入口より一段高く、相応の歳月を隔てたカウンターを挟んで、給仕が一人立っている。片眼鏡を付け、細く伸ばした口髭をしており、しっかりと糊付けがされた身形をしている事と相俟って、外に居た者達よりも位が上である事を感じさせる人物だ。ただし背丈は彼等と大差なかったが。
 揉み手をする彼の側には、一台の切符管理機械(キャッシュレジスタ)が置かれている。真鍮と木で形作られたそれはカチコチと静かに歯車を噛み合わせる音を立ており、ふと見ると、意匠化された扉の絵が小さく刻まれていた。二十日鼠(マウス)は無く、打刻鍵盤(タイプボード)も数字と僅かな記号だけの簡素なものだが、これも歯車式算譜機械、『二十世紀ドアーズ』の一つなのだ。
 ハールがそう観察していると、給仕はにこやかな調子で、お客様入場券はお持ちでしょうか、と告げてきた。そこで彼の役割が何であるかを把握すると、嗚呼、と老人は頷き、空いている方の手で懐を漁り、ヨーン氏から頂いた樹脂製のそれを差し出す。
 ありがとうございます、と給仕は慇懃に受け取ると、さっとそれを管理機械の脇に刻まれた切れ目(スリット)に入れ、素早く通した。風を切る様な鋭い音と共に、大きく歯車が回転する音が響き、ほんの数秒の間だが、給仕はじっと真剣な面持ちで機械を……ハールの側からは良く見えないけれど、表示装置(モニタ)が付いているのだろう……片眼鏡越しにじっと見つめる。
 と、不意にその表情が崩れ、彼はありがとうございましたご入場結構です、と告げた。同時に、断続的な機械音が響いて、切れ目の上部に設置された排出口から、ガッガッガッと、丸まり気味の小さな紙片が弾き出された。さっと手渡されたそれを見ると、今より30分程後の日時と共に、『3』という数字が刻まれている。それが舞台の番号を示す事は、成る程、伸び行く廊下の先が扉にそれぞれ数字が割り振られている事からして明白だった。これが再度の入場券となる事も、その扉の前に居る給仕の存在が告げている。
 イドゥナ用の二枚目も、同様の所作を持って紙片を受け取り、二人は無事に中へと入った。或いは彼女の方が少し時間的感覚が短かった気もするけれど、そこは性差と美貌という点に寄り、笑って不問にするとしよう。
 そうしてハールとイドゥナはホールへと脚を踏み入れた。その床には、赤いウールの絨毯が敷き詰められており、靴底を通して柔らかく返す弾力が心地良い。
 が、何時までもそんな事に意識を送っていられる筈も無く、問題は時間の方にあった。
 余裕を持って早くに到着する様、辻馬車を寄越したのは自分達であるのだが、だが三十分も余るとは想定していなかった。この三十分というのは、短い様で意外に長く、それでいて事を成すにはやはり足りないという、何とも中途半端な時間である。
 さてどうしようかと、ハールは辺りを見渡した。売店があるから、そこで案内書でも買って、ソファに座り暇を潰すか、或いは知っている顔でも探す事にしようか。余り外に出ないものだから、こういう時世間話が出来る相手には困ってしまうのだけれど。
「おやおや、この様な場所で再び逢えるとは、運命の偶然と呼ぶべきなのでしょうかな?」
 そして、その様な時に逢う人間とは、往々にして逢いたくない人間である事が多い。唐突に声を掛けられ、その方を向いた二人は、そこに佇む人物に、それぞれ顔を顰めた。日常の中の些細なハレの時に、逢いたいと思う様な人物では無かったのだから。
「ロプト……また、偶然だな。お前がこんな所に居るとは思わなかった。」
「……何であんたがこんな所に居るの、いやらしい。ちゃんと券を見せて入ったんでしょうね。」
 対比するとその反応は、当然の様にイドゥナの方が激しいものだったか。しかし対峙する方は、正装に身を包んで尚隠す事の出来ないある種の不快さを笑みに込めて応えた。
「ははは、私は『空気』の様なものですからな、居ると思える場所でしたら、大抵居ると思って構わないでしょう。と、言いつつネタ晴らしをさせて頂けるならば、ここの支配人は、私の古い友人でしてね、どうして懇意にさせて貰っているのですよ……蜂蜜酒を貰おうか。」
 彼の言動は、どうも場の雰囲気に酔っているのか、幾分慇懃無礼さが増していた。ロプトは、ハールのどうしようかという怪訝な視線、イドゥナのはっきりと嫌悪を含んだ目線をさらりと受け流しながら、売店へ歩み寄ると、そう売り子へ告げつつに、先のカウンターの給仕へとウィンクした。どうやらマスターであるらしい男は、少し困った風な笑顔を向けつつも、売り子へ首を縦に振り、どうしようかと困惑げな表情を浮かべる彼女は、取り繕った笑顔の元で、樹脂製の容器に入れられたこの劇場の隠れた名物という蜂蜜酒をロプトに差し出した。かの男は金を支払っていないのだが、それが自然と、挨拶一つして夫婦の元へと戻って来る。
 その様な真似は、と、さも旨そうに黄金色の液体を飲み干す男をハールは咎めようとしたが、しかしあえて言葉には出さなかった。自分達とて、概要は似たようなものであるのだから。
「はん、とんだ乞食(ルンペン)ね。ここの支配人も、たまったものでは無いでしょうに、全く。」
 ただ、イドゥナの方は感情を抑える事が出来ないのか、はっきりと声に出して告げた。ハールはぎょっとし、その所作を止めようとした手を伸ばしたが、それよりも先にロプトが動いた。
「まぁ、私が何をしようとそれは私の勝手だ、実にどうでも宜しい。所で、ちらりと見ましたが、貴方方は第三舞台場の様だけれど、そこで催される幻画を知っていますかな、イドゥナ殿。」
 或いはもう忘れておられるかもしれませんがね、と続けて言う男に、イドゥナは怒らした肩と顔はそのままに、さっと紙片を取り出した。そうして改めて、そこに刻まれた文字を読み込んで行く間に、彼女の顔は明らかに変化した。即ち、赤から青へと、だ。おやと怪しがり、促される様にしてハールも改めて紙片を見たが、特に変わった様子は無い。ただ『3』という数字以外に、主演の名前だろう『イヤールク』と、こちらはタイトルだろうか、『黎明への黄泉路』という文字が、細かい表記の中で僅かに太く刻まれている程度である。
「お気づきに成られた様で。久しぶりの幻画だったから、見落とされてましたかな?」
「……? どうした、イドゥナ。一体、何があるというんだ。」
 せせら笑うロプトの前で、ぶるぶると全身を震わすイドゥナを、ハールは心配そうに覗き込んだ。この少女が、こんな表情をするのを見たのは、実際始めてであるのだ。
 暫くの間彼女はまるで耳が聞こえていないかの様に震動しているだけだったが、唐突に顔を上げると、その夫の腕を引っ掴んで、こう言い放った。
「出ましょうハール。ここを出るのよ、さぁ早くにっ。」
「な、何を言い出すんだい、イドゥナ、行き成り。」
 突然の変化にハールは驚き、ぐっと踏み止まった。老いてはいても、成人した男性と成人前の少女では勝敗など端から決まっているが、だがそれでも彼女はその手を離そうとせず、ぐいぐいと引っ張って、彼を劇場から出そうとする。
 妻の豹変に、夫は困惑した。一体これはどういう事なのかと。ちらりと周囲に片目を向ければ、同じ様に何事かとこちらを伺う群衆の中に何時の間にか混じって、ロプトが嘲笑めいた笑みを浮かべながらに、イドゥナを見下ろしている。
 曖昧なままだった感情が、ここで一方へ傾き、ハールの心情を固めた。彼はそっと彼女の腕を放させると、膝を曲げて同じ目線へと立ち、微笑みながらに告げる。
「嗚呼解ったよイドゥナ。何故かは聞かないけれど、ここを出るとしよう。」
 そうして、ほっとした様な表情をするイドゥナの手を取ると、彼は足早に出口へと向けて歩き出した。あの支配人がおろおろとした様子で、払い戻しがどうのこうのと言うのも無視し、一直線に外へと出て行く。ふと視線が気になり、僅かに後ろを見れば、黒髪赤眼の青年が、両の腕を広げて、芝居がかった体勢のまま、微笑みを浮かべて彼等を見送っているのだった。

「……ごめんなさい、ハール。あんな無茶な事を言い出してしまって。」
 フニットビョルグ座が少し歩いた地点、ちょっとした公園へとやって来た二人は、昂った神経を休ませるべく、ベンチに座り、休憩を噛み締めていた。
「いや、気にしないでくれ、イドゥナ。そもそも、あの男が悪いのだから。」
 隣に座り、その体を丸々と投げ出しているイドゥナの、何時にも増して小さく感じられる体を抱いて、ハールは言った。節くれだった手は優しく彼女の金の髪を撫でているが、その声には刺々しいものがある。彼の頭の中では、昼間義兄とだけ話した言葉がありありと浮かんでいたのだ。成る程、確かに、あの男の言う事、いや存在そのものを真に受けてはならない。記憶が乏しい故か、滅多に反感を覚えぬハールであっても、あれは酷いと感じさせてくれる。
 だがその言葉にイドゥナは、体を起こしつつ、いいえと頭を振った。
「ロプトのせいじゃないわ。あいつは関係無い……悪いのは私だから、それこそ気にしないで。」
 そう言いつつ彼女は、頭に乗せられていた彼の手をそっと掴むと、その恋人の片目を見据え、
「ねぇハール、お願いよ。ここでキスして頂戴。」
 その言葉は、ハールにとって、今までにも増して衝撃の大きなものだった。
「イドゥナ……ここで、かね?」
 公園は、決して広いものでは無い。今だ夜も更けていない時間ならば、充分に人通りもあり、また同時に彼等が居るのは、街灯の光が落ちる木製が長椅子の上なのだ。事実、側を歩く通行人がちらりとこちらを見て、何事か言いながら去って行くのが感じられる。傍目には、親子と思われているのだろうか、或いはもっと酷い様に考えられているのだろうか。
「そんなの関係無いわ、ねぇお願いよハール。私達、夫婦じゃないの?」
 だが、イドゥナはその様な外聞などまるで御構い無しだった。ぎゅぅと更にもう片方の手を加えるがままに、顔を、唇を近づける仕草に、ハールの心臓も高鳴って行く。夫婦、そうた、確かに、自分達は夫婦なのだ。婚姻の女神ヴァールの前にて、その愛を誓い合った、
「それとも、貴方は……私の事を、愛して無いというの?」
 彼の想いはそう昂り、胸を脈打つ確かな苦痛として実体を徐々に露にしていたのだが、イドゥナが涙と共に発したその言葉によって、くだらない恥辱を捨てさせ、一気に行動を促した。
 イドゥナ、と、その愛すべき妻の名を呟きながら、ハールは唇を近付けた。そっと濡れた瞳を瞑らせ、顔を上げたイドゥナの唇がそれと重なり、二人は街灯の下で一つとなった。ハールはそこに、柔らかく、何処か林檎を思わせる甘い味を感じて、年甲斐も無く情欲に燃える自分を覚えた。寝具の上でならばそれも良いだろうけれどしかしこんな場所では、或いは、傍目にはどれ程グロテスクに見えるのか、などと言う常識的な思考を悉く燃やし尽くす本能の焔だ。それが彼の中で踊りのたうつ舌として顕現し、美しき乙女の応えによって更に勢いを増させた。
 二人が漸く離れたのは、唇を交わしてから実に数分後の事であり、その間、僅かに鼻からのみ必要な酸素を取っていた彼等は、汗だくとなったパートナーを見やって、ふっと笑い合った。
 そうして夫は妻に、妻は夫に、そっと耳打ちをした。冷え冷えとした男の一人や二人現れようなどと、決して変わる事が無い、熱い想いを、端的な、一つの言葉に乗せて。
「……そろそろ帰ろうか、イドゥナ。」
「……えぇ、そうねハール、私達の家に。」
 その後、語られた言葉の中には、言外のものが含まれており、彼等は更に微笑みを深めた。彼等は手と手を取り合い、瞳と瞳を交わしながら、辻馬車を拾うべく、大通りの方へと向かった。火照った体に夜風は涼しく、歩いて帰っても良い気分ではあったけれど、しかし距離的にはそれは無謀であるし、今は何よりも時間が惜しかった。
 そうして早足に向かっていたが為だろう、ハールはどんと、すれ違う人に肩をぶつけた。
「と……いや、失礼。大丈夫でした、」
 か、と言おうとして、今度は彼の方が、ぴきりと凍り付いた。相手側は、ただ少し肩を払っただけで何事も無く歩み去って行くのだけれど、しかしハールはその場から動く事が出来ない。
「もう危ないわねぇ……ハール? ねぇ、どうかしたの。」
 浮ついた頭でただぶつかったという認識しかしていなかったのだろうか、イドゥナは頬を膨らませ、次にハールの変化を訝しがったが、その当人はやはり何も言えなかった。
 人間的愛情に満たされていたが故に、彼の思考は咄嗟にその存在へ対処する事が出来ず、算譜機械が遮断(シャットダウン)する様に、その場で停止してしまったのである。
 これは怪我の功名というべきなのか。
 或いは、何処かの誰かが言った様に、運命の偶然と称すべきなのか。
 そのどちらかかは定かではないが、ともあれハールは見てしまったのだ。それが抱いていた、今まではすっかりと忘れていた疑問の答えを、欲しくも無い時に、唐突な形で。彼が今触れた相手は、あの矮人(ドウェルグ)であり、そうしてぶつかり合った拍子に、その中身を覗いてしまった。フードをすっぽり被ったローブの下で鈍く輝くそれは機械仕掛けの動物達と同じの……
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