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3.黎明への黄泉路
 もう冬であるかの様な肌寒い風が灰褐色の空より吹き荒び、外海に大波を上げさせる中で、小型受音機(ラジオ)からは明るい背景音楽と共に今日の天気の移り変わりが告げられていた。
 巫女ヴェズルが、その性格を如実に現した声色で語る予報は、眼前に広がる光景とは不釣合いであったが、しかし内容は、その風景をこそ指し示している。
 その格差に考える所はあるけれども、しかしハールは表情一つ変えず、足元に転がる岩々へと波をぶつけ、濃密な飛沫を上げている薄暗い巨大な水堀をじっと見つめていた。
 そう、ここは外堀なのだ。どれ程の深遠を讃えていようとも、果てが見えない遥かまで広がっていようと、これは人の手によって創られた海だ。それを言うならば、地下都市そのものが人工の地である。海だけでなく、空も、大地も、だ。そしてその事実は、また巧妙に装飾され、画されている。ハール自身、この海を本物と言われていれば、信じてしまったかもしれない。
 問題なのは、事実を何処から言われ、何処までが言われていないのかだ。或いは虚偽を。その判断を、記憶を失った老人が行うのは不可能と言って良いだろう。彼が立つ地盤を築いたのは、全て与えられたものであるのだから。故に、彼の心は目覚めの度に、言い知れない感覚を覚え、今のこの幸福の裏に潜むものを考えてしまうに違いない。
 無論、普段であれば、これまであれば、気の所為と捉えて、無視していた事だろう。
 だが、今のハールにそれは到底出来かねるというものである。
 数日前、劇場からの夜道で、彼は矮人(ドウェルグ)の中身を見てしまったのだ。あの、金属細工の骨で組まれた機械の姿を。誰もが触れようとせず、何も語らぬ存在の真実を。
 なまじ片鱗しか垣間見る事が出来なかった為だろう、その瞬間より、ハールの中で曖昧なままに終わっていた疑問が全て噴出し始めた。彼は、早々に自身の仕事に切りを付けると、彼方此方へ赴いては、かつて聞いた質問を見知った者達へと問うた。即ち、矮人とは何なのか、と。そしてついでと言っては何だが、あの『剣と狼の大寒波(フィンブルヴェト)』についても。
 そうして返って来る言葉は、往々にして前と変わらぬものだった。言葉は違うがそれは往々にして三種類、即ち「知らない」「知ってどうする?」「知らなくても良い」である。
 半ば予想していたとは言え、その返答にハールは表情を曇らせた。更に彼は、もし住人達の知らないという言葉を信じるなら、彼等も自分と同じ様に何も解っていないという事実に気付き、それでも尚平然と暮らせている市民達を訝しがった。
 続いて彼は、図書館へも赴いた。ハールとイドゥナの家から丁度反対側に位置するその施設は、端末として置かれた歯車式算譜機械(コンピュータ)で調べなければ、何処に何があるのか誰も解らない程に膨大な書物と資料を保存している。かつて同じ理由で赴いた事があり、その時は目ぼしいものは無かったけれど、もしかしたら今度こそは、と、ハールは、あの矮人との会合以来、ますます嫌悪感を募らせる様になった辻馬車に乗って、そこへと向かった。
 しかしながら、一度行って成し遂げられなかった事を、二度目で必ず出来るというものでは無い。いや寧ろそうで無い事の方が多いだろう。表示装置(モニタ)に浮かぶ目録の上で指示枠組(カーソル)を動かし、点打(クリック)と打刻(タイプ)を幾度も行って、ハールは自分に有益な知識を得んと欲したが、しかしその努力に関わらず、知り得た事は皆無だった。司書として一切を管理しているというリンロォンの三姉妹にも話は聞いたが、彼女達は一様に首を横に振るうばかりである。あまつさえ姉妹達は、去り行こうとするハールへとこう言ったものだ。解を求めれば解の方からやって来るものだ真実の者(サズ)よ、と。その真実とやらを推し量れないが故に、彼女達の元を訪れたハールとしては、返す言葉も無く苦笑するより他無かったが。
 そうして、釈然としない思いのままに、彼は今ここに居る。偽りとは言え、波寄せるこの海を見ていれば、少しは心晴れるかとして赴いたのだが、しかし疑いは依然そのままだ。
 寧ろ、ヴェズルが予報し、的中した天候の様に、それは勢いを増させて行く。天を覆い尽くす厚い雲の層が遂に耐え切れず雫となって降り注げば、海は荒れ始め、ハールの体を濡らし始めた。それは間違い無く老体を蝕むものであろうけれど、だが彼は微動だにせぬまま、目の前の水溜りへと片目だけの視線を送っている。頭の中を疑心で一杯にして。
 それから一体どれ程の間か、雨水に浸り続け、濡鼠と化したハールの背後より声が掛かった。
「……こんな所に居たのね。」
 そっと振り向けば、開かれた傘の下で憮然とした表情を浮かべる彼の妻の姿がそこにあった。

「貴方一体どうしたの? あの夜から今日までずっと、何かおかしいわ。」
 ハールが握る傘の下で、無手のまま、寄り添う様に歩くイドゥナは、少女らしい顔にはおよそ似つかわしく無い表情を浮かべてそう言葉を紡いだ。視線は足元へと向けられ、先よりも荒々しさを増した豪雨に浸って濡れる靴とスカートの裾を見据えている。
「……すまない、イドゥナ。」
 最早傘の意味が無い程にぐっしょりと衣服を張り付かせているハールは、今歩く大通りの先、歯車式超大算譜塔(ウルトラコンピュータ)『恐ろしき神の愛馬(ユグドラシル)』の見果てぬ頂点の方へ視線を向けながら、そう端的に言った。それに対し、きっと唇を噛むイドゥナを見る事は、とても出来たものでない。
 恐らくもう気付いているだろうが、夫は妻に、自分が今調べている事を告げていない。当然の様に、その兄へも、だ。何時かの台詞、思考、そして行動を覆す様で心苦しいのだが、ハールはイドゥナ達を信じ切る事が出来ないでいた。彼女達が自分に何かを隠している事など、火を見るより明らかだったからだ。他の住人ならば兎も角、塔(ユグ)の管理者とその娘が、何も知らぬ訳があるまい。ルド=ルバへも問うた事はあるが、しかし反応はイドゥナと一緒だったのだ。
 だがそれが一体何の為で、また誰の為であるかと自問すると、それは間違いなく、ハールの為なのだろう。で、無ければ、とっくの昔に答えを出していたに違いない。そう考えると、自身の行為は著しい裏切りであり、恩を仇で返しているとすら取れるのだが、それでも尚、知りたいと欲する感情はどうしようもない。仮令、それで関係が壊れてしまったとしても構わない、そう思ってしまう程、ハールは疑心と暗鬼に囚われていた。あの夜以来にだ。
 ハールとイドゥナは、互いに何事かを秘めたまま、黙って道を歩き続けた。外から家までは決して近いもので無く、また雨脚もより酷いものになっていたが、辻馬車を乗る気は更々起きない。イドゥナも同じなのか、ハールが風邪に倒れる事を心配はしても、決して辻馬車を呼ぼうとはしなかった。一、二度、辻馬車の方から止まる事もあったが、全て無視した。
 外海から農耕地を経て、門扉を潜り、大通りに並立する職人街を抜ける所まで来て、ハールは俯き気味に、ふぅ、と深い溜息を付く。全く、気にしなければ良いというのに、何故こうまで気になるのか、と。そうして、彼が視線を戻した時、ふと前方に佇む人影に気が付いた。最早滝と言っても過言ではない雨の下の通りに人通りは殆ど無いというのに、それでも尚、留まるあの影は誰だろうか。ハールがそう思い、近付いて行くと、彼はその正体に気が付いた。
「……ロプト。」
「いやいや、遠出をしていた様ですなぁ、ハール殿。イドゥナ殿が大変心配されておりましたよ。もう、イザヴェル中を探し回っていた様でして、まぁともあれ見つかって、」
 傘の下で、何時も通りの態度で声を掛けたロプトの言葉は、しかし最後まで紡がれなかった。突如ハールの側から離れ、駆け出したイドゥナの拳が、その横っ面を殴り抜けたからである。 スカートなどまるで意に介さぬ軽快な走りの元、勢いはそのまま、高々とした跳躍より放たれたその拳は、ロプトの体をちょっとした池と化した道の上へと吹き飛ばした。そしてその上に馬乗りになると、唖然としているハールの前で、彼女はロプトの襟首を掴み、徐に叫ぶ。それは、険しい感情と激しい雨音によって乱され、判然としなかったけれど、だがかの青年に対する叱責である事は想像出来た。
 そのロプトは、しかし傍目に平然とした表情を浮かべている。頬こそ赤く腫らせているものの、口元に浮かべた笑みはそのままである。それに心かき乱されたのかイドゥナが再び叫んだ。
「何の……何のつもりよあんたっ。」
 それは何処か獅子の咆哮を思わす台詞であり、我に返って、止めに入ろうとしたハールの脚を、はたと止めさせた。そうして髪や衣服を艶かしくも濡れさせるイドゥナの背中へと、ただ視線を送る。彼女は、わなわなと震えて襟首を掴んだまま、ロプトを見下ろしていた。
 と、そこで彼は、ついと体を起こした。唇がイドゥナの耳元へと寄り、そっと何かを囁く。
 その言葉はハールには聞こえなかったが、しかし衝撃的なものだったのだろう。彼女は、ばっと腕を離し、体を遠ざけ、まじまじとロプトを見た。彼は相変わらず、にやにやと嫌な笑いを浮かべていたが、イドゥナの方を見つつに、そっと首を縦に振った。彼女はそれで納得したのか、何も言わず立ち上がると、ロプトから離れる。そうして一人何事かを思案し始めるのにどうやって声を掛けたものかとハールが考えていると、その側へと、ロプトがやって来た。
「全く、良い妻を持ったものですな、ハール殿?」
「ぇ……あ、嗚呼、いや。それより、頬は大丈夫か?」
 唐突に声を翔られた事で慌てながら、ハールは声を掛ける。ロプトは、大事無いですよ、と頬を擦り擦りにやけた笑いを見せると、すっと老人の元へと、イドゥナ同様に顔を近づけ、
「何度目ですかな?貴女が、聞くべき相手と場所を間違えるのは。」
 そう囁きつつ、軽い驚きを見せるハールの片手に、何かを握らせた。掌を開いて見ると、表側こそ何も刻まれていなかったが、確かにあの幻画(キノトロープ)劇場の入場券がそこにあった。ハールが首を傾げ、これは何か、と聞くと、ロプトは意地の悪そうな微笑の元に応える。
「冥府の国への鍵、ですよ。言ったでしょう?物事の真偽を見極めたければ、頭を下にして首を括れ、とね。今夜十二時に、フニットビョルグ座で待っています。」
 何処かで聞いた言葉に驚愕の表情をして、ハールが問い返そうとした時、ロプトはもう既にその場を離れていた。人差し指を縦に唇へ当てながら、そっと自身の傘を引っ掴むと、青年は道化じみた歩みで、その場を去って行く。漸くに勢いを落とし始めた瀑布の下では、ハールとイドゥナのみが残されていた。

 それから二人は、多少とも小雨となった天候の中を歩き、家路へと付いた。
 その間どちらも言葉を交わす事は無く、互いに濡れた体を寄せ合わせる事も無い状態で家の扉を開けたのだけれど、直ぐに沸かされた湯の温かさが緊張をある程度解き放ったのだろう。浴室から出る頃には、二人ともに微笑みと落ち着きが戻っていた。
 バスローブを羽織、寝具に腰掛けてハールが体を乾かしていると、同じくバスローブ姿のイドゥナがたっぷりと珈琲を入れた二つのカップと切り分けられた林檎を盆に載せ、寝室へと入ってくる。そのカップの一つを夫へと渡せば、妻もまた残りを取り、ばふんと隣に座った。
 豆や技術から言えばルギエの喫茶店(カフェ)で出されたものの方が上なのだろうけれど、しかし味としては遥かにこちらが良い珈琲を啜りつつ、さてまず始めに何を言ったものかとハールが悩んでいると、そっと背中を預けながらにイドゥナが言った。僅かに首を傾け、彼を見つめ、
「その……うん、ごめんなさい、さっきは。でも気にしなくていいんだわ。何かあれば、私を頼ってくれればいいんだし……ねぇ、貴方は私の夫で、私は貴方の妻、そうでしょう?」
 今日この日に至る間、何度言ったか解らぬ言葉を口にする。その変わり映えのしない、だが心地良い台詞に、ハールは、ふっと顔を綻ばせて頷いた。
「嗚呼……全くだイドゥナ。私こそ、少々根を詰めすぎていたかもしれない、な。」
 その開かれた手が黄金の髪に触れ、優しく撫ぜられれば、イドゥナの唇も穏やかに吊り上り、されるに任せる。何故かも知らぬのに、何故かも聞かぬのに、身を委ねる彼女へ、かすかに心臓が軋む想いを感じつつも、ハールは小さな両肩を抱いた。
 そうしてカップを傍らへ置けば、後はさして語るべくも無い。ただ、光の無い空間で、二人は産まれたままの姿となれば、まだ僅かばかり芯に残った寒さを癒すべく、体を求め合った。
 だがしかし、青春の若々しさと、確かな愛の蜜に満ち溢れる体を味わう一方で、ハールの頭の中では先程出会ったロプトの幻影(シルエット)がちらつき踊っている。
 あの男の言動を流す様言ったのは、義兄であり、彼の上官であるルド=ルバだった。けれども、それからほんの少ししか時が立っていないというのに、流せずにいる自分がいる。実に申し訳無い限りだが、だからと言って容易に忘れられるものでは無い。
 健やかとは言い難い心臓を奮い立たせ、幼き妻を愛し続ける片割れで、ハールはそう考えていた。我ながら、酷い裏切りだと心は痛むけれど、しかしそれでも尚、知りたかった。そもそも何を知ろうと考えているのかすら知らぬ身として、それは切実な問題であった。

 そして、高まった情欲が解き放たれ、訪れた睡魔に任せた後に数時間後。
 独り静かに寝具から身を起こしたハールは、隣で寝息を発するイドゥナを見つめる。あの天候の中で歩き続け、愛の営みに興じた彼女はすっかり寝入っており、起きる気配も無い。その安らかな寝顔を見つめて、ハールは僅かに眉を顰めるも、だがそっと寝具から抜け出た。
 行為の最中に脱いだローブに腕を通しつつ、時計へと目を向ければ、時刻は夜の十時半という所か。着替えて準備をし、辻馬車で向かうには、丁度良い頃合だと言える。
 ハールは暫しそのままに考え込んでいたが、意を決した様に頷くと、着替えるべく衣装棚へと向かった。新たな衣類を取り出つつ、彼はローブのポケットより、あの入場券を取り出す。
 カーテンの隙間から毀れ入る僅かな月光に照らされ、合成樹脂の表面は艶々と輝いて見えた。

 衣服を整え、ハールは家を出た。大分前に雨は止み、今はただ水溜りや濡れた窓にその名残が見出せる道を進みつつ、大通りへと出れば、通り掛かった辻馬車(今度のそれは、名前の通り確かに馬の形をしていたけれど、何故か八本の脚をしていた)へと乗り込む。
 向かう場所は以前と同じだが、しかしその隣には誰も居ない中、約束の場所であるフニットビョルグ座へと彼は至った。石畳の上に降り立ち、懐中時計を取り出せば、丁度の時間である。
 ハールは半地下となった入り口へ向かうべく、階段を下りた。今日は営業していないのか、もう既にその時刻では無いのか、扉の前に給仕は居ない。が、木戸の隙間からは人工的な光が垣間見え、この向こうに何者かが待っている事を如実に表していた。
 最後まで下り切ると、ハールは扉の前に止まった。給仕が居ない以上は自分が開けなければならないのだが、ここに来て、本当に良いのかと言う迷いが生じる。恐らく、この中に入ってしまえば、もう元の通りには行かなくなるだろう。今までそれを恐れて深入りしなかったのだ。その謎が向こうから来た事で、嫌が応も無く動かされる羽目になってしまったけれど、だが、決定的な所で彼は破綻するのを恐れていた。脳裏に、イドゥナの姿が現れては消える。
 取っ手を握ったままで、ハールは暫し立ち止まっていた。だが、ここに来た以上、もう答えなど決まっている様なものである。彼はふぅと一度深い溜息を付いてから、そっと扉を開けた。
「まるで時計仕掛けの林檎の様ですなハール殿。実に正確極まりないご到着に感服致します。」
 そう一歩を踏み出したハールに向け、あの特徴的な声が降り掛かった。
 老人の前、売店のカウンターが上に、ロプトがにやけ面を浮かべて座っていた。片方の手には件の蜂蜜酒が入った容器が、もう片方の手には齧り掛けの林檎が納まっている。
「ロプト……何のつもりか、とは聞かない。そんな事はもうどうでもいい。」
 その姿に生理的な嫌悪感を覚えつつ、ハールは歩み寄った。右目だけで睨みながら、懐より入場券を取り出し、突き付ける様に青年へと向ける。
「私が聞きたいのは真実だ。お前がそれを教えてくれる、そうなのだろう?」
「……勿論で御座いますよ、ハール殿。いや、来てくださって、実に良かった。」
 そう言って、蜂蜜酒を飲み干し、林檎を咀嚼すると、空いた手でロプトは切符を掴んだ。それ自体に意味は無いのか、彼は胸ポケットへそれを仕舞うと、カウンターから降りて、ホールから伸びる廊下を、つかつかと歩き始める。
「このままではくだらぬ終わりを迎えるかも考えておりましたけれど、もう大丈夫です。さぁ行きましょう、時間はまってくれない。ご案内しますよ、貴方が求めるものがある場所へ。」
 そうして進む先にある扉には、大きく『9』の文字が刻まれていた。

 ハールが始めて訪れた舞台の構造は、先程のホールと概ね同じものだった。数十人規模の座席が擂鉢上に配置された部屋で、その中央に、黒く太い蒸気送付用のパイプを何本か繋ぎ、八方向から映像を投射する為のレンズを付けた台状の機械が置かれている。本来ならばその台の上に幻画が灯され、観客達の目を愉しませるのだろうが、しかしそのどちらも今宵は無く、灰暗い照明はハールとロプトの影のみを移し、二人の足音だけが周囲へと木霊する。
「もしか気付いておられるかもしれませんが、イザヴェルには数に対す信仰があります。」
 中心部へと至る階段を下りながらに、ロプトはそう唇を開いた。
「三と、更に三をかけた数、即ち九に対する信仰です。ここに住む者達は、それを聖なる数と考えており、至る所にそれは散見出来る。意外な所にも、ね。そこまでに、信仰は根強い。」
 彼はそのまま言葉を紡ぎつつ、台の際に置かれた制御用らしき算譜機械へと近付く。ハールとしては、この青年が何を言いたいのか、或いは何をしようとしているのか解らないので¥黙って付いて行くより他ならなかったが。
「だが一つおかしいとは思いませんでしたかな?」
「……何を、だね。」
 小さな起動レバーを押し上げてから、打刻鍵盤(タイプボード)を叩くロプトに、ハールはそう聞き返した。作家である彼をも超える高速で指を動かしながらに、青年は微笑んで言う。
「この都市の区分ですよ。先の例で行けば三か、九でなければならないのに、区画は八だと言われている。矮人よりも、そうだ、ある種堂々と、それは隠されているのですよ。」
 そうして、小気味良い一つの打刻音が響くと同時に、何か重たげなものが動く音が響いた。
「これは……。」
 音がした方、ロプトの足元をハールが見ると、そこには先程まで無かった階段が出来ている。下へ、下へと伸びるそれは深い闇を称え、何処まで続いているのかすら解らなかった。
 それをじっと見据える彼に、道先案内人は打刻鍵盤から指を離して微笑む。
「イザヴェル九番目の区画、冥府の国で御座います。さ、参りましょう参りましょう。」

 そこはロプトが言う様に、本当に冥府の国へと至る道では無いのだろうけれど、しかしそう思わせるだけの陰険な雰囲気を漂わすだけの何かがある道程だった。天井と床に一本ずつ、発光塗料による線が引かれている以外は全くの闇が覆っているにも拘らず、まるで見えているかの様に暗闇の中を螺旋状へ降りて行く青年を頼りに、ハールは覚束無い足取りで進んで行く。多少とも目が慣れ始めているとは言え、それでも完全とは言い難かった。
「……何処まで行くつもりなのかね?」
 その暗さへ、にわかに不安が起き上がり、彼が先へ行くロプトへ問うても、
「何、直ぐですよ。直ぐに、全部が解ります。」
 ただそう返すだけだ。ハールは、さてこの言葉を信じたものかと、溜息を付いた。ここが何処かは知らないが、単純にからかわれているだけなのでは、とすら思えてくる。しかし、微かに見え始めた光と、聞き覚え音と震動が、確かに真相に近付いている事を告げた。
 気が付けば階段は回廊となり、やがて抜け出たその先の光景に、ハールは度肝を抜かれた。
 硝子一枚、と言っても、相当の分厚さを誇るものを通して、彼の前に広がるのは、大小様々な歯車の群れであった。小さなものではハールの小指の先程、大きなものでは数階相当の建物程の歯車が、縦と横と言わず、およそ三次元で捉えられる方を向いて、駆動軸を元に回転しており、それが二人の人間が立つ鉄製の床を揺さぶっていた。
「これが塔の基礎機構です。いや、本体と言うべきか。算譜機械としての機能は、全てこの地下に集約されている。上は、事務所だとか出力機だとかいう表面的なものに過ぎんのですよ。」
 唖然とした様子で、互いに歯を絡めながらに回り続ける機械要素の塊を見つめるハールに、ロプトは幾分か誇らしげに微笑みながら説明した。更にその紅い瞳を細め、
「最初に秘譜(ルーン)を創造した人間は、延々と行われるこの歯車の動きをずっと見ていたと伝えられておりますが、さて……今の貴方には、何時まで見ていても解るものでは無いでしょう。先を急ぎますよ。次の場所へは道が複雑になる、ちゃんと付いてきてください。」
 ハールはその言葉の中に、何か違和感を覚えたけれど、だが何も言わずに、甲高い靴音を鳴らして奥へと向かうロプトの背中を追って、先へと進んでいった。

 照明に満ちていたそこから、再びあの薄暗い通路に踏み出すと、成る程、確かに進む道程はずっと複雑なものに変わった。前に言っては直ぐに右へと曲がり、そう思えば左へと折れる、と言った按配を繰り返して、ハールはロプトを追い従うのに精一杯だった。
 また今回は先程よりも長かった。時計を見る事が出来なかったから具体的な数値は解らなかったけれど、少なくとも数十分、下手をすれば一時間はその光乏しい回廊を彷徨っていたと思う。もしかしたら感覚がずれているだけで、実際はもっと短い間だったかもしれないが。
 そうやってハールがうんざりする程歩き続けた後、ロプトは止まった。
「さて、目的地の一つに到着した訳ですが……心の準備は本当に宜しいですかな?」
 すっくと体をずらすと、彼の前には鉄製の扉がある。劇場へ来た時の様に、隙間から光は毀れていないが、中から聞こえる物音と話し声から、誰かが居るだろうとハールは察した。その、闇の中で尚黒い扉を見つめながらに、彼はごくりと一度生唾を飲んだ。一瞬ハールの決心は揺らぎ、或いは引き返すという選択肢が出るも、それに猛然と頭を振って、
「……勿論、だ。さぁ、そこを開けて見せて貰おう、か。真実、とやらを。」
「素晴らしい。望む者(オースキ)ならば、そうで無くては。」
 ロプトは、そんなハールの様子ににぃっと笑うと、勢い良く扉を開ける。
 その先で見たものは、あの塔の機関部よりも巨大な衝撃をハールへと与えた。
「……何だこれは。」
 喉の奥から搾り出す様にそう声を出すので精一杯であり、他の一切の行動は封じられた。彼は僅かの間だが、呼吸する事すら忘れて、ただ片目に入り込む映像を理解しようとした。彼の直ぐ脇に佇むロプトは、片側の唇を嘲笑う様に吊り上げ、もう片側を一文字に延ばしている。
「冥府、と言ったでしょう。正にこれがそうだ。この都市に、墓所が無い事は、お気づきになられませんでしたかな? いや同時に誕生の場所でもあるから、子宮とも言うべきか。まぁ、意味合いは一緒でしょうよ。造る彼等にも、造られる彼等にも。」
 扉の先、異様な熱気と共に飛び込んで来たその光景は、一言で例えると工房であった。
 予想よりも遥かに広々とした広場であり、僅かな照明の下、ずらりと縦に作業机が並んでいる。そうして、一心不乱に働いているのは、あの矮人達だ。彼等は、地上に居る時となんら変わらぬ格好で、だが思いも寄らぬ速度で、てきぱきと手を動かしている。
 そしてその台の上に置かれ、金属細工の両手で形作られているのは、人の顔であり、腕であり、脚であり、胴であり、眼であり、鼻であり、耳であった。それらは一目で解る生々しさを誇っており、部品として単体で作られては、台と台を行き交う矮人達によって集められ、そうして奥の場にて歯車式の脳と金属の内蔵を入れて、組み上げられていく。遠目には何を行っているのか良く解らない作業の後、肌色の着色が行われれば、最早市民達と、いやハールと寸分違わぬ一人の人間の姿がそこにあり、彼等は矮人に運ばれ、別室へと消えて行く。
 気が付くと、老人は胃袋に入っていたものをその場へ吐き出していた。珈琲と林檎の混濁物が、鉄の床に当たって水音を立ち上げる。中身の方が空っぽになっても、痙攣は止まらず、ロプトが体を支えようとするのも押しのけながら、ハールは胃液を口から零し続けた。
 出すものを出してから更に出そうと奮闘してから暫くして、漸く落ち着きを取り戻した彼は、手で口元を拭いつつに、顔を上げた。その生身の眼はじっと、彼等の存在をまるで無視して作業に、人形製造に没頭している矮人達の群れを捉えている。
「……これが彼等の役割、なのか。」
 そうロプトに聞くと、青年は、はい、と頷いた。
「この人が入り込める塔の最下層にて、市民達を造る事。寿命を迎えた者達の部品を材料に、一から組み立て直す。他にも行うべき事はありますがね、それが矮人の仕事でさ。」
「……では都市の者達は、皆?」
 その質問に対しても、青年は、いや、青年の姿をした人形は鷹揚に頷いて見せた。
「えぇ、皆が、です。何人かの例外を抜かせば、ね。例えば貴方の様な。」
「……成る程、な。」
 強い眩暈に襲われ、そっと瞳を手で覆いながら、ハールは上を向いて言う。
 彼の脳裏に過ぎるのは、都市と、そこに住む者達の姿だ。一見すれば何の問題も無く唯の人間に見える彼等も、薄皮一枚剥がせば機械仕掛けの生物に他ならない。あの矮人や辻馬車を運ぶ者達と同一の存在という訳だ。そしてその矮人の手により、人々は産まれる。成る程、余り触れたがらぬ訳だ。更にその事実はきっと同じなのだろう、彼女であっても――
「私は……騙されていた。そういう事になるのか?」
「さて、どうでしょう。まだ、見せなければならないものは御座いますから。」
 ハールの質問に、ロプトはそう応えると、くるりと背を向けて、歩き始めた。老人は、その後ろ姿をじっと見つめる。人形だと知っても、やはりその姿は人間にしか見えない。
 彼との距離が大分離れた頃、ハールはぶんぶんと首を横に振って、我を取り戻した。
 そうだ、これで目覚めと共に感じる感覚が一つの正体は解った。あの男の言葉を信じて、廻りに真っ当な人間が居ないというならば、成る程、確かに孤独である。
 だが、もう片方については、聊かこれだけでは収まりが悪い。それにロプトは『目的地の一つ』とここを指した。ならばもう一つの方が別にあるのだろう。
 この都市に置ける唯一の例外、ハールという人間は何者であるのか。或いは本当に?
 全てを決めるのは、その答えが解ってからでも遅くはあるまい。
 
 ハールは再びロプトの後を追い始めたが、今度のそれは実に短い間隔しかなかった。
 それは、九ヶ月以上もの間悩み続けた疑問が解かれ始めた興奮が、そこから生じた混乱が、彼の中で渦巻き、精神を昂らせていたからに他なるまい。物分り良く、頭で理解した気になっていても、まだ心の動揺は深いままであった。
「はい到着で御座いますよ、と……おやおや。」
 だからこそ、最後の目的地についても彼には動揺も何も無い。その場所は、先程の工房よりも遥かに広大な場所であり、より明るい照明が吊るされていた。どうやら地下の中でも塔の直下、中心部にあるらしく、中央には柱状の昇降機(エレベータ)が建てられている。そこへ行くまでの間は何処までも深い闇が続く奈落であり、ハール達が入った所から一本の鉄橋が真っ直ぐ伸びていた。他にも入り口はあるらしく、四方にも同様のものが見受けられる。
「誰かが入り込んだと思えば、成る程、お前だったかロプト。」
「義兄(にい)さん……。」
 そしてその感覚は、昇降機が扉の前に立つルド=ルバへも同じだった。圧縮した蒸気を詰める金属管を備えた旋条銃(ライフル)を構える矮人を二人連れて、彼は整った顔を険しく顰めながらに己の部下を睨んだ後、ハールの方へとその視線を向けて言った。
「お前達、ここが何所なのか知っているのか?いや、ロプト、お前ならば知っているだろう。」
 ロプトはその言葉に、にしゃりと口元を歪めて応える。
「勿論ですよ、当然でしょう。そこは、イザヴェルでただ一つ、地上へと行く為の門扉だ。」
 彼の言葉に、ハールははっとして、彼方の天井まで突き立てられた昇降機を見据えた。見えなくなって尚も続いているのだろうそこは、彼が始めて来た場所まで繋がっているという。
「ならば話は簡単だ。塔の管理者としてここは通せない。お引取り願おうか。」
「……断る、と、申したならば、如何されるおつもりかな?義兄さん。」
 そうして発せられた命に、しかし老人は従う事無く、鉄橋へと一歩を踏み出した。一斉の二つの銃口が突き付けられるが、ハールは一筋の汗を流すばかりで、下がろうとはしない。
 ルド=ルバは、微笑を浮かべて傍観を決め始めたロプトへと一瞬視線を送った後、両手で銃身を押さえながらに、良いのか、と聞き返した。
「これは、ハール、お前を思っての事だ。言っただろう?その男の言葉に従うな、と。ならばこそ、この私の、お前の愛する妻が兄の言葉を聞き入れ、早急に、」
 そこで、ルド=ルバを見据えて歩むハールが唇を開いた。
「それが人形であっても、ですか義兄さん。」
 途端に美しい青年の顔が歪む。つまりは、正解という事なのだろう。彼自身、人形なのだ。ただその様子は明らかに人間のそれであり、言った当人も胸が軋むのを感じる。それでもここで引き下がる訳には行かない。もしそうしてしまえば何の為にここまで来たのか解らないし、また何よりも真実、それこそが重要であった。
「私を助けてくれた事には感謝します……イドゥナとの件についても……だが、それでも、私は知りたくてならないのです。義兄さん、ここは、どうか。」
「……ハール……。」
 ルド=ルバはじっと、靴音を立てて近付き来る義弟を見つめていた。二つと一つの視線が重なり、そうして彼は、ハールの意思を読み取ったのか、首を横に振るって、
「……いいだろう、好きにするがいい。」
 矮人達ともども、そっとその身を引かせた。ハールは、感謝の意を示す為に頭を下げてそこを通り過ぎると、昇降機の門扉が前へと立つ。矮人の一人が、その傍らに置かれた打刻鍵盤で操作している間、彼は分厚い木で出来たそれの形状が、算譜機械起動時に表示される『二十世紀ドアーズ』とそっくり同じである事に気が付いた。暫くすると、聞き覚えのある荘厳な鐘の音色が響き渡り、内側へその扉が開き、小さな箱部屋が露になる。
 ハールはそれをじっと見据えた後、何度目かの溜息を付いた。瞳を瞑り、心音が多少とも落ち着くまで待ってから、意を決して中へと入る。瞬間、再び操作された扉が閉じて行く。外を見れば、ぐっと顔を強張らせているルド=ルバと、相変わらずの笑み浮かべるロプトの姿が見えた。それも直ぐに閉ざされて見えなくなり、やがて一度揺れてから、奇妙に滑らかな浮遊感を伴って、昇降機が動き始めた。
 独りになってから、疲労感が押し寄せ、老人はふらふらとその背を壁に傾ける。真実を求める心を上回って、これで良かったのかという後悔が鎌首を上げる。だが、ここまで来て一体今更それが何になるというのだろう。ぶんぶんと頭を揺すり、ハールはそれを有耶無耶にした。
 ふと気付くと、扉の横に幾つかの操作器具(デヴァイス)と共に『0』と浮かんだ表示装置(モニタ)が付いている。何時まで待ってもそれは一向に変わる事無く、飽きる程の時間が経過した後に漸く『1』へと変化した。徐々に地上へと続いているのだろう、とハールは考えていたが、しかしなかなか変わらない表示装置を見据えている間に、彼の意識は我知らぬ間に遮断(シャットダウン)された。

「……茶番、だな。」
 そして残されたルド=ルバは、独り言の様に円柱を見据えてそう呟く。矮人達は意識というものが無いのか、それに反応する事も無かったが、ロプトはにやっと笑ってこう問うた。
「おやおやおやおや、代理機械たる神(デウスエクスマキナ)の貴方がそれを仰られますかな?」
 その皮肉げな様子に、ルド=ルバも自嘲する様に鼻で笑ってから返す。
「それを言うならお前だろう、滑稽なる舞台装置(デウスエクスマキナ)。小賢しく動いているのは其方では無いか。」
 更に彼は何処か遠くを見つめる様に視線を上げ、
「矮人どもを地上へと解放し、彼方此方に予言めいた言動を残す。あえて疑惑を撒き散らす事に一体何の意味があるんだ。それも、こんな、何度も何度も何度も何度も……。」
「しかし残念ながら、それが私の役割でしてね、はい、仕方が無いと思って貰うしか。」
 己の上司が様子に、ロプトは肩を竦めて言った。ルド=ルバも、解っている、と口にはしたが、しかし実際にはそんな事は無いという表情を浮かべて応える。
「だがそれでも不憫でならないのだ。あの娘を見ていると、な。」
「イドゥナ殿の事ですか。確かに、それはありますな。少々、ですが。」
 それは酷く哀しげなものがあり、ロプトも流石に真顔になった。だが直ぐに歪めて、
「昼間、とうとうぶん殴られましたね。ずっと我慢してた鬱憤ですしょうか? 痛いの何のありゃしませんでしたよ。今回が何度目かを告げたら、大人しくなりましたが、ね。」
 道化じみた動作で頬を摩るロプトに、ルド=ルバも苦笑いし、そして頷く。
「嗚呼そうだ、その通り……確かに、約束ならば、今回がその時だ。」
 ルド=ルバが天井へと向けた視線を追い掛け、ロプトもまた首を上げる。
「そう、これで彼も彼女も悩まなくて良くなる訳だ。何せ今回で、」

 そして胎児の如く眠る老人の前で表示装置が『9』を刻み、昇降機が音を立てて止まった。
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