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4.旧き時代への浪漫人
 骨まで染み込む様な肌寒さに身震いし、ハールははっと体を起こした。どうやら眠ってしまっていたらしい。意識の霞具合から言って結構な時間そうしていた様だ。彼は額を押さえて頭を振り、感覚をはっきりさせると、ゆっくりと立ち上がった。
 表示装置(モニタ)に『9』と刻んだ昇降機(エレベータ)は既に停止しており、開かれた扉の向こうに薄汚れた廊下が見えた。何処かあの地下の回廊を思わすそこは、同じ様に発光塗料による照明が天井と床に付けられており、見えない奥まで延々と続いている。どうも地上に付いたという感覚はしないのだが、出てはいるのだろう。ハールは、骨身まで染み込み来る寒さに身を縮ませつつも、ゆっくりとした足取りで壁を伝いに歩き始めた。同じとは言え、先程とは違い、前にはロプトが居ないから慎重に進んでいるのだけれど、幸いな事に途中で曲がったり、横道があるという事は無い様だ。視界の上下に移り込む線を頼りに、ハールは進んで行く。
 そのまま暫く歩き続けると、線は途切れ、鋼鉄の扉が前に立った。横へ引っ張り開けるものの様で、老人はその取っ手を掴むと、力を込めて、扉を横へと滑らせる。
 思いの外力を要せず、開かれた扉の向こうには、一面の黒世界が広がっていた。
「……ここは……。」
 唖然とした様子で、ハールは歩く。どうやら今だ建物の中の様で、石畳で築かれた床を進むと、『恐ろしき神の愛馬(ユグドラシル)』の基礎構造を覆っていたのと同じ壁に手を付き、外を見た。
 何時か夢で見た時と同じ光景。それが硝子一枚を通して広がっている。濃厚極まりない灰褐色の雲が天を覆い尽くし、そこから降り注ぐ黒い雪が、大地を黒一色に変えているのだ。ただ違うのは、地平線の彼方に建築物が見える事だ。明らかに倒壊しており、瓦礫の山と言った方が適切に思えるが、だが確かにその様な、人が居たという証が無数に存在している。肝心の主の姿は彼方にも此方にも、その他の動植物と合わせて影も形も無かったが。
「私達は、ヴァルハラ、と呼んでいるわね。世界のその後、死んでいった戦士達の住処。」
 その時背後から聞き覚えのある声がして、ハールは直ぐ様に振り向いた。
 入って来た扉の直ぐ横の壁に、イドゥナが佇んでいた。感情が無いかの様な、今まで見た事が無い真に人形めいた表情で、聊か大き過ぎる籠を両手に持って。
「……イドゥナ……どうして、ここに?」
 ハールはそう聞いて、自身の声色に余り驚きの感情が篭っていない事に気付く。イドゥナは、彼も自分も嘲笑う様に唇を吊り上げ、目線を下へと降ろし、
「どうして、って? 貴方の妻だからよ……何度言ったのかしらね、この台詞。」
 そうして、かつかつと靴音を鳴らしてその夫の元へと歩み寄ると、籠の中を漁り、林檎を二つ取り出した。籠を置き、空いた手で片方を掴むと、もう片方をハールへと差し出す。
「食べる? ここまで来るのに時間掛かったからお腹空いてるんじゃない?」
 これも何度目だか、と続けるイドゥナを彼は訝しそうに見据えていたが、だが事実その通りであり、素直に受け取ると、がっとそれに歯を立てた。良く熟れたそれは、果汁を滴らせ、老人の口に始めてものを食べた様な甘い感覚を与える。
「美味しい?」
「……美味しい、よ。」
 同じ様にしゃりしゃりとやり始めたイドゥナがその場に座りつつ問うのに応えると、ハールもまた彼女に合わせて、そっとその場に座った。その生身の瞳で、外を見据えて彼は聞く。
「……イドゥナ。ここは地上なのか?だったら……何故こうなった。ヴァルハラ、とは何だ。」
 彼女は無表情に租借していたけれど、問われるとじっと外を見据えて返す。そうして、何時にも増して饒舌に、事の真相を口にし始めた。
「さぁ? 余り資料が残ってないから詳しくは知らないけれど、でも戦争があった。何か人では無い者との……火星人や天の遣いと呼ぶ人も居たみたいだけど、ま、要するに敵との、だわ。結果は見ての通りだけどね。この黒い雪は、最後まで戦った人達が起こしたものらしいわ。自爆覚悟で、それでどうにか敵は追い払ったらしいけれど、地上はこの有様。全く、敵を倒したって自分達が死んでちゃ、守るべきものが無くなっちゃ、意味無いのに、ね。」
 今だ覚め止まぬ眠気を抑える様に、ハールはぎゅっと眼を細めて、黒雪に覆われた地平と、地平線の上に立つ廃墟を見た。彼の中で幾つかの謎は氷解しようとしていたけれど、この天候が変化を迎える事は無い。恐らくは今までも、そしてきっとこれからも変わらないだろう。
「それが『剣と狼の大寒波(フィンブルヴェト)』か……。」
「えぇ、そう……その後で、多くの人々は旅立っていったわ。何処へ? 冥界やら星海へ、ね。少なくともここでは無い何処かよ……でも、それを良しとしない者達が居たわ。」
 イドゥナは、喉を潤すべく瑞々しい果肉を口に含むと、舌で唇をさっと拭って、
「彼等はかつての世界を取り戻そうとしたの。敗色が濃厚になった頃から動き出していた様だけどね、本格的に行われたのは戦が終わった後。もうどうしようも出来ない位荒んだ地上を捨て、地下に一つの完璧な世界を造り出し、人々の代わりとして自分達の命令を聞いてくれる人形達を産んで、そしてそこで暮らし始めた。自ら記憶と記録を捨て去り、新しい人間として、在りし日に確かにあった平穏を謳歌出来る都市で。種としての繁栄は無く、何時か必ず滅び去る運命だとしても、一人の人間としての幸福を選んだの。」
「……私もまたその一人、という訳だ。」
 都市で出逢って来た全ての人々、塔の地下で見た製作途中の人形を思い出し、半ば落ちそうになる瞼を堪えながら、ハールはふっと苦笑した。失ったものを求めてここまで来たというのに、それは自ら手放したものであったとは。
「そうよ。でも来るのも仕方が無いわ、忘却は完全じゃないのだから。」
「……また、どうしてだね。」
 イドゥナの言葉に、自らもシャリリとやりながらハールが聞くと、彼女もまた苦笑して、
「負い目、なのかしらね。これで良いのか、という。断片的に幾らか残しておけば、人は釣られてそれを知ろうと欲するものよ今の貴方みたく。ロプトみたいに、そういうのを積極的に促す者も居るからね、嫌が応も無く知らされる羽目になるわ……そうして真実を知った時、改めて自分は、今の自分では無いその自分は、何を考えるのか? その答えは一緒かも知れ無いし、もしかしたら別のものかもしれない。イザヴェルで無く、外の世界を望むかもしれない。そうやって、去って行った者が何人も居たわ。彼等がどうなったかは知らないけれどね。」
 その者達の事を思っているのか、彼女は若草色の瞳を黒い屋へ向け、哀しげに細める。その人ならざる瞳に宿った光は、とても十代の少女のそれでは無かった。
「ただ、同じ選択をする人も居るわ。そう言う場合は、やっぱりほんの少しだけ、欠片めいたものを残して忘れて貰うの。これも負い目、忘れ去ったままならば幸せだったかもしれない自分への、でも次の次は、次の次の次は、違うかもしれないから、という、ね……そうやって、何度も何度も戻っている人が隣に今、居るわよ。」
「わ……私、かね。」
 彼女の視線を肌に感じ、顔を向けたハールは、どきりと心臓を高鳴らせる。その変化が表情に出たのだろう、くっくっと息を引いてイドゥナは笑った。
「うん……もう貴方、一体何度目だと思っているの? 今生き残っている数少ない人間の中では、貴方が一番長いわ。これで九回目、だもの。貴方は、忘れては思い出そうとし、知っては忘れ、新しい貴方になる。何十年もそうやって来た。色々な貴方が居たわ。」
 そのハールであり、ハールで無き者達の事を思い出す様に目線を退けると、彼女は語り出す。
「前の名前はガングレリ、結構な読書家だったわ。その前がハールバルズ。何時も髭の手入れを欠かさないお洒落な人だった。サンゲタルは目覚めて真実(ここ)まで早々と来た最短記録保持者。イヤールクは逆だったわね。一番長い間、私と付き従った。俳優になって、演劇の道に傾倒したわ。若くて野心に溢れて、でも老いて行く中、何時までも変わらない私に嫉妬し始め、」
「解った……解ったイドゥナ。もう充分理解した。」
 人間の脳、記憶とは実に現金極まりない算譜機械(コンピュータ)の様なものだ。動力たる蒸気が送られる様に、或いは文字を打刻(タイプ)する様に一つ知識が与えられると、次々に新しい反応が出て来る。自分であった者の名前が語られる度に、ハールはおぼろげながらにその頃の記憶を思い出した。同時に、自身が繰り返して来た行為、更に、彼女にして来た事をも出て来て、彼は慌てて引き止めさせる。その慌てっぷりに、イドゥナは漸く少女らしい顔付きで、声を上げて笑った。
「それももう九度目になるわね。 一番最初……まだ貴方が私とそう変わらない年で、万神(オーディン)と、大袈裟な名前と、皮肉っぽく片目をウィンクして名乗った頃も、真実を知った貴方は、そうやってわたわたと逃げたものよ、懐かしいわ。」
 それに対し、ハールは唇を閉ざすより他無かった。そうだ、思い出した。ずっと前からイドゥナは自分の側に居て、恋人であり、妻であったのだ。ならば、その相手が自分を蔑ろにし、そうして忘れて行くというのは、どの様な気持ちなのだろう。ハールは考えるだけで、寒さが体以上に心を冷やし、申し訳の無い気持ちで胸を一杯になった。
「まぁでも、これでおしまいなんだけど、ね。」
 その時聞こえてきた言葉に、ハールはきょとんとした表情でイドゥナを見ようとした。だが、視線を向けるより早く体から力が抜け、彼は情けなくも床に倒れ込んでしまった。齧り掛けの林檎が手より離れ、ころころと転がって硝子へとぶつかる。イドゥナはその彼を抱える様にして己の膝に乗せすと、形容し難い笑みを浮かべながらに唇を動かした。
「薬を漏らせて貰ったわ、あの林檎の中に。」
 徐々に痙攣し始め、動く事もままならぬ状態の中、ハールは視線を落ちた林檎へと向け、先程から感じていた倦怠感の正体に気が付いた。それから、力を振り絞って片目を動かすと、イドゥナの方を見据え、どうにかこうにかして、何故、言葉を紡ぐ。と、小さくも柔らかい手で穏やかに髪や頬を撫ぜて、彼女は応えた。
「負い目の後の諦めよ。忘却と再録の繰り返しも、九度目で終わりという事になっているわ。それ以上繰り返した所で答えは変わらないという事。そこから先は、完全に都市の市民として暮して貰う事になる。でも、動けなくさせたのは私の勝手。」
 更にイドゥナは、ぎゅぅとハールの頭を抱え込みつつ顔を降ろした。唇同士が殆ど触れ合うか否かの距離まで近付くと、彼女は笑みを殺し、ぎゅぅと唇を噛んだ。
「もう私は耐え切れないのよ。貴方、ねぇ、貴方なら解ってくれるわよね? 私がどれだけ貴方を愛しているか。ずっとずっと一緒になりたくて、でも出来なくて、どんな想いをしてきたか、きっと貴方なら解ってくれる筈よ……今更、去ろうだなんて、許さないわよ? 最後の選択が何であれ、貴方は私と一緒にイザヴェルへ帰って貰うんだから。」
 見開かれた瞳から、涙がはらりはらりと零れ落ち、ハールの頬にぽたぽたと落ち始めた。その様子は、義兄やその部下、いや、都市の者達を思い返した時と同じく、人形にはとても見えない。余程精巧に作られているという事であり、ある種の欺瞞であるのは間違いないのだけれど、だが全てを知った今、追い求めていた真実とは何なのかを知った今、それは必ずしも不快なものでは無かった。寧ろ、好ましいとすら感じられる。
「イドゥナ……いや、答えは変わらないさ。」
 徐々にだが確実に意識薄れ、体の力を衰えさせて行く感覚に抗い、ハールは片手を伸ばした。その指が彼女の頬に触れ、そっと雫を拭い去って行く。信じ、疑い、また信ずる。何とも都合の良い話ではあるけれど、しかしそもそも最初に自分がこの都市へと来たのだって……その時の想いは、とっくの昔に忘れ去っているけれど……つまりはそういう事では無かったか。
「これまで、すまなかった、本当に……だがもういいんだ。イザヴェルへ帰ろうイドゥナ。」
 イドゥナは撫ぜられるがままになっていたが、その言葉を聞くと、嗚呼、と涙は残したままに笑みを浮かべる。彼女の両腕に力が篭り、ハールの顔はその胸の内に抱かれた。心地良い人肌の温度がこの寒々しい場所にあって伝わり、ハールを安堵させる。
「えぇ解ったハール、ありがとう……大丈夫、何も心配要らないんだから。」
 イドゥナは、体を離すと、にこやかな調子で籠から真鍮製の兜の様なものを取り出した。妙に大きく無骨なそれが、記憶を消去する為の装置なのだろう。
 それがゆっくりとハールの頭に乗せられ、視界が暗闇に収められるのとほぼ時を同じくして、老人は遂にその心身を完全に眠りの中へと陥らせた。

 そこではまず無音の闇が満ちていた。何も見えず、何も聞こえない、暗き場だ。
 彼は、自分が形も無く、蒸気の様に漂う不形の者になった心持がした。魂というものを現世に抽出したならばこの様なものでは無いか、と思わせる不確かな存在だ。
 彼はその闇の中でもがき苦しんだ。無い腕を動かし、無い脚をばたつかせる。
 肉が欲しかったのだ。肉体が、確かな存在が。
 無限に等しい己、或いは己に等しい無限など、彼には耐え切れなかった。そんなもの、死んでいるのと一体何が違うというのだろう。そうだ、今の彼は死者そのものと言っていい。
 だが望みが叶った。彼は、己という枠を手に入れた。空間の中で独りっきりであったが、しかし彼は闇から抜け出した。最早無限は彼で無く、彼は無限で無くなった。
 更に光が産まれ、大地が、大気が現れ、天地の狭間に彼は投げ出された。それもまた確かとは言い難いものではあるけれど、だが上下の概念が誕生したのは良い傾向だった。
 天と地が離れた次の瞬間、彼はぐっと落下し始めた。当然だ、人は空を飛ぶ生き物で無く、地面を歩く生き物である。狭間などという中途半端な場所など、論外だ。
 堕ちて行く感覚は彼を安堵させ、やがて煙たげな雲を抜けて視界へと映る地上の町並みに、下へと向かう自分とは反対に、上へと伸び行く塔の姿に、彼は安心を覚えた。
 帰って来たのだ、という強い想いが、もう行かなくともいい、という別の思いと共に生まれ、その二つは、彼と彼女の家が目前へと迫る頃に極限へと昂り――

 最初に得たのは、兎にも角にも素晴らしき多幸感であった。
 人の手によって築かれた太陽が都市イザヴェルへと光を運び込み、新たなる一日がどの様なものになるのかという期待で胸が溢れる。開け放たれた朝日にそう心を震わされ、一人寝具の上で目覚めたリーヴは笑みを浮かべながらに大きく伸びをすると、そっとシーツから抜け出た。
 寝間着姿のままで、年甲斐も無くはきはきとした様子の中、階下へと降りる。居間へと行けば、愛しの妻イドゥナが既に起きていて、目覚めの珈琲を入れておいてくれていた。
 豊かな黒色を称えるそれが並々と注がれている愛用のカップと共に、都市唯一の新聞『詩篇(エッダ)』を手に取り、椅子に座りながらにまずは一杯。苦く旨いというある種矛盾した味わいを何時も通りに与えてくれる魅惑の飲み物を啜りつつ、事件というよりも街角の噂話程度の事しか書かれていない紙面に微笑む。退屈と言う事なかれ、それはつまりここが平和である何よりの証拠なのだから。ただ、何と言ったか、リーヴと同じ、片目の作者が書いていた連載小説が、結局の所未完のまま終わってしまったのだけが、心残りと言えば、心残りではある。
 付け合せとして出された切り身の林檎と共にカップの中身を空にすると、言葉と共に行動によって、感謝の意をイドゥナへと示す。若く、美しき我が妻は、はにかみながらも確かに応え、ちゃんと返してくれた。良い限りだ。全く持って、良い限りである。
 それから寝室へと戻ると、ちゃんとした服に着替え、同じくイドゥナが寝間着からドレスに着替えるのを待つ。リーヴはこれから、その日課である散歩へ行こうとしていた。今日は平日であるけれど、既に老年を迎えている彼は、都市から生活の為の費用を頂いている。且つ、イドゥナの兄であるルド=ルバが都市管理の頂点ならば、二人で日々を過ごす程度、どうとでもなるというものである。
 そうして外へ出ると、窓から入り込んできたのと同じ、心地良い朝の光が町並みと、彼方に見える歯車式超大算譜塔(ウルトラコンピュータ)『満たされし神の愛馬(ユグドラシル)』を美しく照らし出している。更に幸いな事に、雲の出も大丈夫の様だ。この都市を動かす為に必要不可欠な動力源である蒸気は、リーヴの体には決して良い影響を与えるものでは無い為、無ければ無いに越した事は無いのだ。
 リーヴは、その片腕をイドゥナへと明け渡すと、家のある小路からとりあえず大通り目指して歩き始めた。遠出するのならばそこであの奇妙でおかしな形をした機械仕掛けの動物達が引く辻馬車に乗るのだけれど、そこら辺りを散歩するだけなのだから、わざわざ乗る事もあるまい。早くに付く事は確かに便利だが、その分、二人だけで歩くこの時間を潰されては堪らない。尤も、二人だけの時間など持とうと思えば幾らでも持つ事が出来るんだか。
 と、歩いていると、目の前で見知った顔が居た。確か、義兄の部下で、ロプトという男だ。彼はこの都市を支える役目を持つ矮人を従えて、若い男と何か話しており、荒々しく叫ぶ彼に対して、礼儀正しく応えている。ふと視線が合ったので、リーヴは会釈し、その場を後にした。イドゥナの顔が一瞬だけ険しくなった気がしたけれど、彼はそちらには気付かない。老人の視線は寧ろ青年の方に向けられていたからだ。
 彼は一体何をあんなに忙しなく叫んでいるのだろうか、とリーヴは思った。立ち止まって聞き入る様な、そんな無作法はしたくなかったから、会話の内容は解らなかったけれど、彼の顔は鬼気迫る様な装いがあった。まるで、何かに追われているかの様に。
 老境へと至っているが為だろう、リーヴにはその気持ちは解らなかった。彼が必死になるその感情が、理解出来なかった。何故といって、そんな事をしなくとも、世界には希望と幸福が満ち溢れているのだから。そして勿論、この隣にも。
 ただ、それを味わえるのももう余り長くは無い事は自覚している。自分の正確な年齢など、とっくの昔に忘れてしまっているけれど、何時迎えが来てもおかしくはあるまい。
 だが、死ぬ事に対する恐怖なんかは微塵も感じてはいなかった。もとい、今ここに確かで暖かい感触があるならば、恐れるものなど何も無いとすら思っている。強いて言えば、そのイドゥナが独り残される事が心残りなのだが、彼女には自分の死後、好きに生きる様に言ってはある。妻は、貴方が死ねば私も死ぬ、などと応えたが、よもやそんな事はしまいだろう。
 ともあれリーヴは、満ち足りた想いとそこから来る羨ましがるべき悩みを胸に、ロプト達から離れ、散歩を再開した。目的地こそ決まっていなかったけれども、だがその様な事一向に構うものでも無かろう。彼等が行く所こそが道となり、目指す場所なのだから。そうして視線を向けるとそれに気付いた少女は、顔一面に笑みを浮かべて応える。彼女の夫もその微笑に微笑みで返し、腕に力を込めると、二人は連れ立って何処へと歩みを刻んで行くのだった。
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