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火の花に込められた想い Les Feud’artifice du Quatorze Juillet
 醒暦1882年 五月 風蘭守(フランス) 華璃(パリ)

 その青年が、華璃の職人街に住むナンの花火師ラザールの元を訪れたのは、五月が始まろうとする、ある憂鬱な曇りの日の事だった。
「あの、ラザールさん、で宜しいですか?」
 二階が住居、一階が作業場となったその建物の前で、青年は何処かおどおどした表情を浮かべつつ、椅子代わりの箱に座って火薬の調合をしている妙に小柄だが筋骨は逞しい老人へと語り掛けた。
「そうだよ、わしがラザールだ。花火師の、な。で、何かな、お若いの。何か用があったんじゃないかね。それとも、ナンを見るのは初めてか?」
 図星を付かれたのか、その青年は少し動揺した様に眼を泳がせる。

 ナンというのは、風蘭守語で小人妖精、即ちドワーフを意味する言葉で、鉱夫の集団から発生したと言われる保因者(ポーター)の一種族だ。保因者とは、大航海時代の新大陸発見の頃より世界各地で大量に発現した心身の奇形者の事で、病では無い『何か』を起因として現れるとされている。
 ただその変異具合は千差万別で、特徴が固定化される事も稀である。仮に種族化したとしても、彼等は往々にして自分達の集落を持ち、人里に出る事は余り無い。勿論、各国毎にそれもまた違ってくるのだが。
 因みに、阿真利火(アメリカ)と並ぶ保因者の国である詠国と、何故か殆ど保因者が存在しない土壱(ドイツ)の間に挟まれた風蘭守は、その両者の合いの子的存在にある。
 種族の者が集落を離れ、大都会で暮らしているのは決して驚く程珍しい事でも無いが、そうだからと言って辺り構わず居るという訳でも無い。土壱を一気に大国へと推し進めた、義体技術のこの国での扱いと同じである。尤も、そちらの方はブルジョワ階級の装飾としてまだ好意的に見られていたが。
 
 ともあれ、これで青年がラザールの姿に驚きの表情を作り、且つそれを指摘された事に気まずげな様子を見せたのは解っただろうが、だからと言って、何時までも黙って固まっていられては堪らない。
「まぁいい。で、改めて聞くがわしに何の用かな?」
 ラザールはそう言って顔を上げると、すっかり黒ずんだ眼鏡を外し、側に置いてあったタオルを掴んで力任せに煤だらけの顔を拭いてから、そのレンズを丁寧に磨いて、再び掛けて後に、まじまじと青年を見た。
 横目で見ていたから解らなかったけれど、なかなかの美青年である。少々貧弱過ぎでは無いかと思える体付きが、絵の具らしきもので汚れた粗末な服の上からでも解るのが玉に傷であるけれど、顔の方は良く整っている。ただその中でも、無造作に伸ばされた茶色の髪の下で、色も淀みもアブサンに良く似た瞳を輝かせている点で、男前っぷりを下げてしまっていたが。
 彼は、そんな薄緑色の眼をラザールへと向けながらに唇を開くと、
「あの、すみません、遅れまして始めまして。僕はアンリ、アンリ・ペルノー。その、絵描きをして生計を立てています。」
 と、扉に立て掛けてあった長方形の板を持ち出し、包んであった布を解いて、その中身を花火師の方へ、見易い様に傾けて向けた。
 中身は、一枚の絵である。何処かのカフェで描かれたものであるらしく、テーブル席を背景に、一人の婦人がカウンターに肘を置いて佇んでいた。青年の絵師としての腕が確かなのか、モデルとなった女性が余程秀逸だったのか、その婦人も彼同様、実に美しかった。しかしつんと立った鼻柱や青い眼、ルージュを纏って吊り上がる唇、豪奢に巻き込まれた金髪から、相当きつい性格をしているだろう事が窺い知れた。
 ラザールは、すっかり入用になってしまった老眼鏡越しにその絵と絵の中の人物をまじまじと見つめた後、再び青年アンリの方を向いて、
「なかなかのべっぴんじゃないか。で、こいつがどうしたんだい?」
 そう聞くと、青年は絵を傍らに置いてからこう言った。
「セシル……あー、カフェ・アルデカルトの店主から聞いて来ました。どうかこれを、この絵を、打ち上げて貰いたいのです。花火に、入れて。」
 彼の言葉を聞いて、ラザールの顔があからさまに曇った。

 カフェ・アルデカルトは、この工房からそれ程離れていない通りの角にある小さな喫茶店であるが、その先代店主、ピエール・アルデカルトと、ラザールは旧知の仲だ。彼は良く店へコーヒーを飲みに行ったものである。
 そんな彼が、遥か昔に亡くなった己の妻と同じく、病で倒れたのはもう数年前の事だが、その時、若干十九歳でカフェの店主となったピエールの娘セシルが、妙な遺言書と、父の遺灰を携えてラザールの元を訪れた。
 そこには紛れも無いピエールの文字で、こう記されていた。
『私の違背を花火に交え、空高く打ち上げて貰いたい』と。
 ラザールは訝しがった。風蘭守は基督教国であるから火葬で無く土葬が一般的である、という点を考慮しなくとも妙な話だ。一体何の為にとセシルに聞いたけれど、彼女自身さっぱり解りませんと首を傾げるばかりである。
 ただ、元々裕福なブルジョワ商人から、しがないカフェの店主なんぞに行き成り転向し、そこでそれなりの繁盛を見せた様な男である。きっと何か考えがあったのだろうとラザールは思った。それに彼は友人であり、且つ、若き保因者が至梨亜(イタリア)や炉髭吾(ロシア)に花火を学びに行く手助けをしてくれた事もあるのだ。そんな男の頼みを無碍になど出来る訳が無い。
 こうしてラザールは、直ぐに一筒の花火を作ると、その中にピエールの遺灰を封入し、葬儀の夜にそれを華璃郊外の墓所から打ち上げたのである。
 雲の欠片も無く、代わりに無数の星屑が輝く夜空に舞い上がったそれは、天高く花開き、哀しみの中に一抹の爽やかさを灯す結果となった様で、知人友人一同及び、今はただ一人のアルデカルトであるセシルは、ラザールへと感謝の言葉を涙の輝きと共に告げたものであった。
 彼はその時、成る程これが望みだったのか、と納得したものだった。
 
 さて、話がここで終わるならば、ちょっとした現代美談で終われるのだけれども、そうは行かないのが風蘭守は華璃の現実である。
 この話は、葬儀関係者、殊、カフェ・アルデカルト阿真利火の口から身も知らぬ相手の耳に届き、そこから別の者の耳に届き、徐々に噂が広まっていった結果、ラザールの元へ同様の所作を、つまり花火の中に何かを仕込んで打ち上げて貰いたいという依頼をしに来る輩が多々現れる様になったのだ。
 成る程、カフェの主人としては客を持て成す為にちょっとした小噺も必要だろう。ピエールが死去してから、常連も減ったと聞いている。人の口に蓋は出来ないという不文律をあえて上げるでも無く、その話が伝わるのは解るというものだ。が、しかし、ラザールにとってはいい迷惑である。
 彼はナン、ドワーフなのだ。その気質は気難しく、元来人付き合いは苦手な性質で、どやどやと見た事も無い連中に押し寄せられても、どう対応していいのか解らない。仕事にも集中出来なくなってしまう。
 それでも最初の内は、暇を見て応えては居た。例えば、死んだ子供の遺骨だとか、去って行ってしまった恋人が最後に残した手紙だとか、そういった来歴のものを花火の筒に入れては、空へ飛ばしたのである。
 それは健やかなる決別の意味が込められていたが、徐々に赴きが変わり始めた。正確に言うと、意味合いは同じなのだが、その度合いが軽くなったのである。死別或いはそれに近いものから、より身近なものへと、面白半分に。例を挙げるとすると、抜け落ちた乳歯だとか、自称・恋人から頂いた薔薇の花束(こういうものは一度焼くなり裂くなりしてから入れる)など、だ。
 流行に乗る事を第一とするパリジャン、パリジェンヌからすれば、丁度良い余興であったかもしれないが、頑固な職人気質のラザールとしては、どうにもこうにも面白くない限りだった。一応金は取っているから、多少の収益はあるが、世の中金が全てでは無いのである。
 かく訳で、最近だとラザールは、この手の依頼を受ける前に、まず話を聞いてから請け負う事にしていた。その上で、大した理由でも無ければ断っていたし、そうでなければ花火を作っている。
 ただし、その基準は、相応に険しいものであったのだけれど。

 ともあれラザールは、箱に座り直すと、同じものをアンリへと進めながら、定例通りとりあえず話を聞く事にした。実際それだけでも充分に時間が掛かってしまうが、それでも無碍に出来ないのが職人というものでもある。
「何が望みかは解った、いや解ってる。それじゃ、まぁ一つ、その絵と婦人について聞こうじゃないか、アンリさんや。全てはそっからだぜ。」
 座って向き合って尚自身よりも背の高いアンリへラザールがそう言うと、青年は何とも言い難い表情を浮かべてから、解りました、と応えて、
「余り良い話では、率先して語りたい訳でも無いのですが……えぇ、お話しましょう。私と彼女……そう、ミュリエルについて、を。」
 自らの生い立ちと絵の女性との関わりを話し始めた。

 彼アンリ・ペルノーは、華璃に住む余り裕福で無い夫妻の元に産まれた。
 貧困の原因はアンリの父親にあり、大酒呑みであるそいつは、ただでさえ少ない収入の殆ど全てを酒瓶に費やす様などうしようも無い輩であった。それを咎めようとすれば、拳が飛んで来る程の。
 アンリの母親は、そんな男に良く尽くしたものであるが、幼いアンリ自身としてはやりきれない気持ちで一杯だった。彼の暴力の対象は、母親に似るばかりで父親にはこれっぽっちも似ていない息子に特に及んだのだから。
 そんな常に青痣だらけで、俯き気味だった少年の、ただ一つの心の慰みは、隣家に住む絵描きのお零れを貰って絵を描く事であった。
 薄い壁一枚隔てて、ろくでもない父親にして夫の罵詈雑言と、柔らかい何かを殴り付ける音が聞こえていたのだろう。絵描きはアンリに優しくあろうと務め、自身貧しいながら筆や絵の具、紙類を彼に渡し、絵の描き方のイロハを、打ち身だらけの少年に教えたものだ。アンリもそのまだ若い絵描きに兄の様に懐き、殆ど何時も彼の元へ行く日々を過ごした。
 しかしその生活も、やがて終わった。
 自らの才能の無さに絶望した絵描きが郷里へと帰ってしまったのである。
 アンリは、まるで肉親を失ったかの如き悲しみを感じたけれど、それでもまだ彼には絵が残っていた。もう使わないからと言って渡された画材道具一式を持って、アンリは絵を描き続けた。
 世の中、悪い事が起これば良い事もまた起こるというもので、そうこうしている間に、父親が死んだ。酔っ払った挙句、酒瓶に足を滑らせ、頭をぶつけて息絶える、という何とも皮肉極まりない死に方でもって。
 こうして母と子は、苦しい生活の一因から開放されたのだが、それでも彼等は貧しいままであった。理由は明白で、使うのが父親なら、得るのもまた父親だったからである。確かに母親も働いていたけれど、女一人で稼げる額など高が知れているというものだ。
 ただその様な中でもアンリは、絵を描き続ける事が出来た。というのも、母親が彼に多大な期待を寄せていて、相応に無理をしつつ、直ぐに使い切ってしまう紙や絵の具なんかを買い与えていたのである。
 毎日のパンにも事欠く生活だったが、アンリは画術の研鑽を続けた。
 何時かその腕で、母親に楽な生活をさせてやると誓いながら。

「いい話じゃ無いかい、アンリさんよ。」
 そこで途中で話を区切らせ、ラザールはポットの中に入れて置いた、ただの水を欠けたカップに注ぎ込むと、ぐっと喉へと流し込む。そして、アンリへとカップを突き付けつつ、不適に笑いながらこう述べた。
「だが、それとその絵がどう繋がる?母ちゃんって訳じゃあるまいて。」
「解っていますよ。詳しくお聞かせします、何があったのか、その詳細を。」
 ラザールの指摘に、アンリは薄緑の瞳を細めて苦く笑ってから、絵の方をじっくりと見つつに、続きを語り始めた。

 父親から解き放たれながらも、生活苦から逃れられる訳でも無く、母親からの援助に頼って、必死に絵を描き続けたアンリ。
 彼の努力が報われたのは、今から数年前、自身が十七歳になる年であった。
 アンリは、カフェの給仕として働きつつ、同時に同じ店で絵を飾らせて貰っていたのだが、その彼の絵を高く評価する男が現れたのだ。
 パトロンとなったその男の手から多額の融資を得、これまでの貧乏生活から一転、アンリの暮らしは前よりも遥かに楽なものとなった。
 彼は給仕の仕事を止め、完全に絵だけを描き続けた。パトロンに見捨てられればそれまでの不安定な暮らしぶりではあったけれども、アンリを買ってくれた男は心酔と言って良い状態にあり、その様な心配は無かったらしい。それに、ただただ絵筆を取っているだけで稼ぎが貰えるというのならば、それ程素晴らしい事も他にあるまい。アンリは喜んで、その技術を振るった。
 だからだろう、母親が亡くなっても、彼は余り哀しくなかった。父親と同じ様な事故で死んだのだけれども、もうすっかり年を取っていたし、それに晩年はアンリのお蔭で真っ当な生活が出来ていたのだから。
 こうして肉親を全て失ったアンリだが、パトロンの元で絵を描き続けた。かつては出す側であったカフェで、優雅にコーヒーを啜りながらに。
 そんなある日、アンリは一人の女性と出会う事になった。
 ここまで実に長かったけれど、彼女こそが絵の主ミュリエルである。
 本名はミュリエル・カスタ。貧困から登り上がったアンリとは違い、生粋のお嬢様であり、さる豪商の一人娘で、曰く、絵如きではその魅力を表現しきる事の出来ない美しさを持つ女性であるそうな。
 彼は、件のカフェにやって来ていた彼女の姿を見た瞬間、一瞬で心奪われ、直後に声を掛けて絵のモデルになってもらったのだ。
 ラザールに見せたものは、その時描いたものに他ならない。
 こうして知り合いになった二人は、カフェで、或いはそれ以外の場所で親交を深め合い、友愛の情を共にしていった。どうやらミュリエルの方も満更では無かった様で、華璃には仲睦まじく歩く男女が見受けられたという。
 やがてアンリとミュリエルの思いは高まり、さてこれから結婚に、という所まで行ったのだが、ここで思わぬ相手からの反発があった。
 あのパトロンになった男が、彼等の結婚を妨げたのだ。それも強烈に、もしこのまま婚姻する様であるならば、自分達の関係を解消するとまで言って。

「そうして僕達は離れる事になったのですが……この絵は残りました。彼女を最初に描いた、この絵です。自らの手で捨てるには忍びなく、同時にまた思いも捨て難く……だからこそ、あなたの元へ来たのですよ、ラザールさん。」
「……成る程な。」
 そこまで言って唇を閉ざしたアンリを尻目に、ラザールは何杯目かの水で喉を潤すと、暫くの間、一人で考え込んでいた。
 確かに哀しい話であり、自分の所へ来るのも解らないではないし、やっても良いかな、という考えも沸いてはいる。
 の、だが、何だろうか、妙に釈然としない気持ちがする。何故かは解らないが、この男の話には決定的に足りていないものがある気がするのだ。
「……解った、良いだろ。」
 だが結局、その何かを指摘出来なければ、話にはならない。
 自らが損をする訳でも無い事を考慮してから、ラザールは首を縦に降った。
「おお、ありがとうございますラザールさんっ。」
 その言葉にアンリは小さな老人の手を取って、ぶんぶんとそれを降った。
 ラザールは少し困惑した様子でされるがままになってから、
「解った解った。それじゃやってやるが、その前に、こいつはでかすぎる。こっちで勝手に細かくばらすが、構わないだろうな?後、解ってると思うが、こいつぁロハじゃないぜ、そこは気をつけなよ。」
 そう言った言葉に、はいっ、と声高々に応えて見せる青年の、その微笑を称えた薄緑色の瞳に、ますます困惑するのであった。

 それでも、一度うんと言ったからには、二度と変えないのが職人である。
 絵を置いてアンリが帰ると、ラザールは早速、自らの仕事を一先ず置いて、恋に破れた青年の為の花火作りを始めた。
 流石に大き過ぎるその絵を、少々後ろめたくはあるが細かく裁断してから、火薬と共に詰め込んで行く。想い人が描かれたものを、他人の手によって破かれるならば、いっそ自分の手で、とラザールであれば思う所だが、そこはまた感性の違いなのだろう。或いは、そう出来ないからこそ、この花火師に頼んだのかもしれないが。
 そう思っている間に、慣れた手付きで一筒作り上げたナンの老人の元へ、数日後、アンリが現れた。その片方の手に謝礼が詰まった袋を持って、もう片方の手を、先のパトロンと思しき恰幅の良い真摯に廻しながらに。
「もう出来たのですね、ありがとうございます。」
 彼はそう言って、袋をラザールの方に渡した。
 ん、と、職人はそれを受け取りつつ、造った後の確認をした。
「で、こいつは一体何時、何処で打ち上げるんだい?」
 花火は、火薬を使う芸術である。空で咲けば綺麗なそれも、地に咲けば惨事を産む。素人が容易に扱って良いものでは無いのだ。
 アンリはラザールの言葉に、にこやかに笑いながら言った。
「嗚呼それでしたら……七月まで、待っていただけませんかね。」
「何?」
「ええ、その、七月十四日……華璃祭の折に、打ち上げて欲しいのです。」
「……あー、それならそれでいいんだがよ。」
 ラザールはアンリの返答に、歯痒そうな表情を浮かべた。
 華璃祭とは、風蘭守革命の序章、バスティーユ襲撃が起こった七月十四日を記念して、最近公式に制定された祭日であるのだが、最近この花火職人が勤めていた仕事は、全てこの日の為に行っていたものである。基本的に一人で花火を作っているラザールとしては、今位からやらねばとても市からの発注に間に合わず、ずっとその期日に追われていたのだ。
「どうかしましたか?何か、問題でも?」
「嗚呼、いやいや……その日で、って言うなら、問題は無いさ、うん。」
 だから正直その日にやってくれというならば、これ程ありがたい話も無いのだけれど、しかしどうにも都合が良い気がする。決別を持って送る火の花を、祭りの日に上げる理由は何か。襲撃の狼煙でも気取りたいのだろうか。
 そうは思いつつ、言われたからにはやるのも職人というものである。
「何だ、他にも花火上げるんだが、それと一緒でも?」
「ええ、構いません。それでは、宜しく。」
 腹の中に窺い知れない何かを抱えながらもラザールは黙って、パトロンと共に仲睦まじく去って行くアンリの後ろ姿を眺めていた。

 ここで少し時は流れる。
 月が変わる毎に迫る納品期日に追われ、ラザールはすっかり忙しい毎日を過ごしていた。面白半分で訪れる客を無碍に追い返すだけでなく、アンリの花火の事も忘れてしまっている程に。
 それを漸く思い出したのは、七月十四日、当日も当日の事だった。

 一応のハレ舞台という事で、ナンの正装である紅い外套を纏い、工房から出ようとしているラザールの元へアンリが現れたのである。
 彼の格好は、職人同様に晴れやかで、絵の具の一つもついていないさっぱりとした服を羽織っていたもので、美男子ぶりも跳ね上がっていた。
「今夜ですね、僕の花火を打ち上げるのは。」
 そう言ってアンリは、大通りへと至る小路の方を見る。今だ日の光が差したままの夜空の元で、大勢の人々が奇麗な身形の中、浮かれ騒ぎながら進んでいる方を、その印象的な薄緑色の瞳で。
「嗚呼……嗚呼、そうだった、な。」
 ラザールは、青年の瞳の奥を見て、妙に居心地の悪い感じを受けた後、慌ててその視線の方向へと眼を動かした。
 そして、少々の沈黙が二人の間に流れた後、アンリが唇を開いた。
「そうだ、今夜の花火は何処から上げるのです?」
「ん、予定じゃぁ一応、セーヌ河に船浮かべてあげる事になってるが。」
 セーヌ河は、華璃を貫いて流れ行く河川だ。ここからならば、祭りを愉しむ人々の多くの眼にも留まる事が出来るだろう。
 アンリはそれを聞くと、うんうんと頷いてから、
「だったら、何処からでも見る事が出来ますね。」
 そう言って翻ると、コツコツと路地の奥の方へと歩き始めた。
「いいのかい?何だったら、船に乗せてやってもいいんだが。」
 途中、不審に思ったラザールが呼び止めるも、しかし彼は僅かに首を後ろへ傾けて、問題ありません、とだけ言い、建物の影へと消えて行く。
「おい、」
 気になり、手を伸ばす暇も無く、見えなくなるアンリの姿に、花火師はやれやれと肩を上げた。けれども、ずっと構っている訳にも行かない。ラザールもまた踵を返し、大通りの方へと歩いて行った。

 そうこうする間に、やがて約束の刻限がやって来て。
 華璃の夜空に、ラザールの花火が、高々と上がり始めた。
 まだ多少紫がかった空へと、壮大な誕生の音を立てながら、次々に咲き誇る火の花に、彼方此方から群集の甲高い歓声が沸き起こる。
 他の花火師のものと共に、自らの花火が観客へと迎えられる光景を、ラザールは喜ばしい気持ちで持って受け止めていた。
 そして、今日の日の為に造られていた花火が、一つ、一つと消えて行き、残すも後僅かという所になって、彼はあのアンリの花火を持った。
 そもピエールの花火から、その意図は解らなかったから当然の様に解る筈も無いのだが、実際、あの青年は何を思って自分にこれを造らせたのだろう。
 自身、解答不能と言ったその疑問を胸に秘めたままに、ラザールはそっと砲へと筒を入れ、打ち上げ用の火薬に火を点した。
 鈍く、力強い音と共に上がったそれは、アンリが愛した女性の絵と共に中空にて四散し、美しい光の輪を描き出す。
 その出来は実に良く、ラザールは疑いを忘れて笑みを浮かべるのだった。

 そんな花火も、やがては冷めて火消えれば、煙となって消えて行く。
 祭りの熱狂も過ぎ去り、そうして、新たな日がやって来た。
 全ての花火を打ち上げた後、アンリは姿を現さなかった。もしかしたらかつて絵を教わっていたという隣人同様に、華璃を去っていったのかもしれない。ラザールはそう思ったけれど、自分は既に依頼をこなしたのだから、もう関係も無い事だと、彼はその後、職人仲間と共にしこたま呑み始めた。
 やがて宴も終わった翌日、ラザールは、アルコールには強い筈のナンをして頭を痛ませる二日酔いに苦しみながらも、訪れたカフェ・アルデカルトで、一杯のコーヒーを啜っていた。天秤式サイフォンで、ピエールの娘が淹れたそれは実に香ばしく、頭痛を抑えるのに、素晴らしい効用を果たすのだ。
 しかし年かな、と、在りし日の己が呑みっぷりを思い返して、苦笑いを浮かべるラザールは、カップ片手に捲っていた新聞の片隅を捲る。
 そこで彼は手を止めた。
「おい、セシル、おいっ。」
 途端、専用の椅子を蹴飛ばして、テーブル席から立ち上がったラザールは、短い脚をばたつかせながらに、阿真利火の元へと歩み寄った。
「何ですかラザールさん。藪から棒に。」
「いいから、これを見ろ、この新聞を見るんだっ。」
 祭日の後であろうと通常通り店を始める現金さを持った現女店主ことセシルは、右目に掛かる金髪をかき上げつつ、手近の椅子を利用してカウンターまで立ち上がったラザールが差し出す新聞へと眼を向けた。
「『麗しの少年怪盗ラヴァンド、華璃祭の夜を駆ける。怪盗からの熱烈な接吻(ベーゼ)は、華璃警視庁が堅物刑事ローランの心を盗んだのかっ』。まぁラザールさん、朝っぱらからうら若き乙女になんてものを読ませる気ですか。」
「女の癖に男給仕の格好なんぞしとる奴の何処がうら若き乙女だ、馬鹿め。ここだ、ここっ。こっちの記事を見ろっ。」
 最初の言葉に聊かむっとしながらも、セシルは言われるがままに、ラザールの太い指が指し示す箇所へと、その垂れ眼気味の青眼を動かす。
 そこには、昨夜起こったというある殺人事件について記されていた。
 ラザールがその記事を見て驚き慌てたのも、当然だろう。何せそこに乗せられていた二枚の挿絵に出ていたのは、紛れも無くあのアンリと、そしてミュリエルの姿に他ならなかったからである。
 記事によると、事件のあらましはこうだ。
 貧富の差無く、老若男女浮かれ踊る華璃祭を記念して、無数の花火が打ち上がる中、セーヌ河を横切る街路、何発もの銃声が上がった。
 一発目こそ花火の音と思い気付かなかったが、二発目以降からは流石におかしいと周囲の者達が駆け付けると、そこには一人の美しい女性が哀れにも血塗れで倒れていたのだという。そしてその直ぐ側には、甲高い声で、そらあの花火の光を見るがいい、などと叫びながら、弾の無くなった拳銃の引鉄を何時までも引き続けている奇怪な青年の姿があった。
 直ぐ様に取り押さえられたその青年は警察の元へ連れてかれたが、その後は実に大人しく、自らが女性を殺した事を、アブサンに似た瞳を濁らせ、薄ら笑いと共に応えたらしい。
 昨日の今日で、これ以上詳しい話は書かれていなかったけれども、ラザールにとっては、最早充分過ぎる内容だと言えよう。
「確か……この人の為に、花火を作ったのでした、か。」
「おう……だが、いやしかしこれは……。」
 じっと見つめるセシルの視線を受けながらに、花火師は考え深げに呻いた。
 何かあると思った。だが、それがまさか本当だったとは。或いは止められたかもしれない、と考えると、口惜しさはあるけども、問題はそこじゃない。
 結局、あの青年は、何がしたかったのであろう。あの花火は、別れの手向けでは無かったのか。その相手を殺してしまうとはどんな了見だというのか。いや、それを言うならば、本当に彼の目的は、最初に自身が言った理由だったのだろうか。どうも違う気がする。ならば全てが嘘だったのか、というとそれもまた違うだろう。ただ、多少なりの嘘があった事は確かだ。
 それが一体どれだけなのかは、もう解る事も無い事であったけれども。
 そしてまた、目的も、だ。
「……やれやれ、だな。」
 新聞から眼を離しつつに、ラザールは疲れた様な吐息を零す。鼻から老眼鏡を外し、くっくっと指で目尻を擦った。
「徒労に終わってしまった、のでしょうかね、これは。」
「全くだ……何を考えてたんだかな、あの野郎。何で殺しなんか。」
 再び老眼鏡を戻し、ラザールはふんと荒い鼻息を漏らした。折角丹精込めて造ってやったというのに、これでは無意味では無いか。その時、じっと様子を見ていたセシルは、仕方がありません、と言って、こう続けた。
「人の想いなんて解るものでもありませんよ。うちの父と一緒です。」
「うん?ピエールが、どうかしたんだ。」
 ラザールは疑わしげに首を傾げながら、視線を送る。
 それに応えてセシルは唇を開くと、
「前に一度思った事がありました。私達は、あれを残された私達の為だと思ってますが、もしかしたら……ただ、高い所に行きたかったんじゃないか、と。ただ高い所へ……先に逝った母に墓所よりも近い場所へ。」
「……ふむ。」
「つまり自分の為だったんじゃないかな、と。そう考えた事を、それを見て思い出しました。まぁ、やっぱり真意なんて解りはしないんですがね。」
 そう言って、肩を竦ませて見せた。どうしようも無いと言いたげな顔で。
 彼女の仕草に、ラザールはくつくつと笑う。
 嗚呼正にその通り。他人の想いなど解る訳が無いのだから、何処かで諦めるか、満足するしかあるまい。そして仕事で言えば、これは悪くなかったのだから、それで良しとしよう。
 彼はそう思い、逞しい歯を剥き出しにして見せた。そして、
「ま、妙なのを引っ掛けて来たお前が一番悪いんだがね。」
「次からは自重しますよ。こいつで流してください。」
 新たに差し出された一杯のコーヒーを、さも旨そうに啜るのであった。

FIN
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