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 醒暦1882年 七月 風蘭守(フランス) 華璃(パリ)郊外
 何処か薔薇を思わせる華の香りが眠りの奥まで静かに入り、鼻の先を擽って来る様な甘い感覚に急かされて、ロドリグ・キュリスは瞳を開けた。
 瞬間、朱色の斜陽が老年に入って弱った瞳へと差し込み、彼は、うっ、と眼を細める。
 もう一度、ゆっくりと瞼を上げて行けば、常緑樹の立ち並ぶ地平の遥か彼方で、橙色の光を放っている太陽の荘厳な姿を垣間見る事が出来た。
 そこで彼は、はて、と僅かばかり戸惑う。あれは登る朝日だったろうか、それとも沈む夕日だったろうか。ロドリグが今居る場所……別荘(ヴィラ)西側の庭先だ……の事を考えればどちらかなど明白であるが、今だ覚醒し切っていない頭ではなかなか思い至らない。
 軽くまどろむつもりが、疲労の為に長く寝入ってしまったのかと慌てて、だが既に老年の域に達している男が為、傍目にはぎこちなく、彼は安楽椅子から上半身を引き起こすと、懐に仕舞ってある懐中時計をそっと引き抜こうと手を伸ばした。
 そこでロドリグは、漸く、傍らに立つ人影の存在に気が付く。
 すっと顔をそちらへと向ければ、見覚えのある顔がそこにあり、
「嗚呼……来ていたのか、ジル。起こしてくれれば良かったのに。」
 彼は、そうにこやかな調子で、好意を持っていた幼馴染の娘の名を呼んだ。
 手はもう懐を弄る事無く抜かれていて、所定の位置に収まっている。彼女が来たという事はそういう事だ。わざわざ時計なんかを見る必要など無い。
 そこに居たのは、一人の少女(ミニヨン)であった。座っているロドリグと目線が合う程度の背丈であり、その体付きや顔付きから見るに年の頃十二、三という所だろうか。薔薇の蔓の如く肩先まで流れ落ちる少し青褪めた銀色の髪に、あの黄昏の空の中で最も地へと近い場所に似た青い瞳をしており、その肌は、夏が盛りのこの季節には聊か相応しくない程の白さを湛えていた。それらは実に良く整っていて汚れというものを知らず、少女の外見を何者にも増して好ましいものへと形作っている。未だ女性らしさを示さぬ小柄な体に纏った、上下一体となった簡素な造りの白いドレスが、その印象をますます顕著にした。
 そんな彼女は、微笑み掛けるロドリグへと応える様に、まだ口紅(ルージュ)の味すら感じた事も無いだろう唇を僅かに吊り上げると、その小さな掌が彼の片腕を掴んだ。
 その腕に力が入り、少女は老人を引っ張り上げようとした。だが、彼女の力は弱々しいもので、大人一人をどうこう出来るもので無く、ロドリグの体は微動だにしない。
 それでも尚腕を引っ張る少女からあの目覚めの甘い芳香が漂って来て、老人は笑みを深めると、彼女の銀色の髪をそっと撫ぜた。言葉を話さない彼女が行動によって何を伝えようとしているか、ロドリグはもう良く解っているのである。
「そんなにしなくともいいさ……散歩だろう?直ぐ行く、よ。」
 彼はそう言うと、節ばった手の感触にくすぐったい様な顔をしている少女を放し、椅子の手摺を支えにしながら立ち上がった。そこに込められる筋力は多ければ、掛ける時間もまた多い。その事実に思わず苦笑いを浮かべてから、ロドリグは彼女へ向き直ると、
「それじゃ行こうか……そら、何時も通り、に。」
 少女が差し出す帽子を被り、杖を掴んで、少々覚束無い足取りをしながら歩き始めた。
 もう片方の手で彼女の手を掴みながら、庭の向こう、小さな茂みの奥目指して。

 夕暮れの森を少女と行く、ほんの些細な散歩。 
 その行為は、ロドリグがこのブローニュの森に程近い華璃郊外の別荘地にやって来た一ヶ月前から、休む事無く行われ続けて来たものである。
 まだ青年であった頃に阿真利火(アメリカ)へと渡った。貧しさから黄金を求め、見事成り上がる事は出来たけれど、今度はそれを保ち続ける為にずっと荒々しい日々を送る羽目になった。
 そんなロドリグに取って、望郷の念がままに戻っての、この都会の喧騒から離れた、それでいて利便性は享受出来る別荘地での暮らしは、富ではどうしようも無い安息を齎すものだ。
 取り分け、この少女と接している時間は格別のものがある。
 在りし日の幼馴染と、瓜二つの外見をした娘。
 彼女と出逢ったのは彼が華璃に帰ってからで、以来、この時間になると一緒に散歩している。
 別に、どちらが提案したという訳でも無いのだが、自然と始める様になったのだ。
 その散歩に、特に目的や、目指す様なものは無い。ただ、別荘の周囲をぶらぶらと歩き回るという、文字通りの散策に過ぎない。前に記した通り、少女は言葉を発しないから、会話らしい会話とて無いのだ。尤も、ロドリグからの一方的な語りに対し、彼女がうっとりと微笑むというやり取りを会話と表現するならば、また別であるが。
 しかし、この老人にとってはそれで良かった。誰の為でも、何の為でも無いこの行いは、体も心も衰えてしまったロドリグには丁度良く、魂を潤すものであったのである。
 だからこそ彼は、最初の時から今日までずっと、こうして歩んで来たのだった。

 ただ、今日のロドリグは少し赴きが違っていた。
 何時もならば、当て所も無く彷徨い歩き、日が暮れ切った所で別荘へと戻って来るのが定まった道であったけれど、彼は森の中を真っ直ぐに進んでいた。その視線もまた前を向いてぶれる事が無く、一歩一歩、亀の様にゆっくりと刻まれる足取りですら、はっきりとした目的地を持っているとしか思えない程確かなものがある。
「今日は、もう少し歩こうか。行きたい所があるんだ。」
 ロドリグが少女の手をしっかりと掴みながらにそう言うと、彼女の方は特に拒否する素振りも無く、すっと彼の方へと、可愛らしく微笑んで見せた。
 それがまた、眩しくて心地良く、ロドリグは自然と口元を緩める。ここまでの道程は、決して楽なものでなく、整えられていない枝葉に何度も躓き、倒れ掛ける事があったのだけれど、そんな事を払拭してくれる様なものが、彼女の唇には宿っていた。
「……ありがとう。」
 ロドリグは穏やかに少女へ告げると、杖を付いて再び奥へと歩み出した。

 そうしている間に木々はより濃さを増して、落日の閃光も和らぎ始める。
 華璃の夏の夜は短く、代わりに日の時間は長い。
 普段であればもう夜と言っていい頃合いに、まだ太陽が昇ったままである位なのだ。事実、今の時刻を時間として表現するならば、二十一時過ぎという所であろう。
 とは言え、日が終始沈まない白夜を迎えるという訳でも無い。
 穏やかに脚を動かしている間に、とうとう太陽も、最後の光を残して見えなくなった。
 と、同時に、緑の茂みが途切れて、ロドリグと少女の前が開けた。
 彼等の眼前に広がっているのは、小さな湖であった。
 中心でもそれ程深く無さそうである事、三十分と掛からず一周出来てしまいそうな規模から考えるに、大きな池と言った方が良いかもしれない。周囲を樹木に囲まれた中でぽっかりと開かれた穴の様なその水溜りは、紫がかった薄暮の空を静かに映し込んでいた。
 そして岸辺には、一隻のボートが、縄と杭で留められている。この時の為に、昼間だけ居る召使に運ばせたものだ。ただそれが原因で、危うく寝込み掛けてしまったのだが。ロドリグ位の年齢になると、真昼の日光の下で活動する事自体が労苦なのである。
 それでも一休みはしているので、体力は回復している。少なくとも、オールを軽く漕ぐ程度には。足腰こそ大分がたが来ているが、腕っ節はまだ多少なりとも行けるのだ。
「さぁ、それじゃ乗ってくれ、ジル。遊覧と行こうじゃないか。」
 ロドリグはそう再び、幼馴染の娘の名を呼ぶと、ボートの拘束を解き始めた。
 風景を前にして微笑みを強めた風に見える少女が、それを老人へと向けながらに乗り込めば、彼はボートを水面へと僅かに押し出し、少々手間取りつつも船上に上がった。
 先と端で少女と向き合いつつ、ロドリグは二本のオールを掴む。
 そうして彼女の視線と笑みを己がものと絡ませ、彼は水の上へと乗り出した。

 風も無ければ雲も無く、代わりに幾つもの星屑が煌く夜空の下を、ボートは進んで行く。
 ロドリグは、僅かに息を切らせて汗を垂らしながら、オールを漕いだ。船の歩みは陸での歩みと大差無かったけれど、一度動き出せば止まる事は無い分、まだ楽ではある。
 じっくりと時を掛け、オールは円を刻み、波紋を水面へと刻む。
 それに合わせてぽちゃり、ぽちゃりという可愛らしい音が断続的に灯った。少女は耳に心地良いその音と、音も無く広がって行く小さな波の輪を愉しむ様に、ボートから身を乗り出して、やはり微笑みを崩す事無く、水面を覗き込んでいる。
「愉しい、かね?」
 ロドリグが聞くと、彼女はその笑みを、老人の方へと向けた。
「それは、良かった。」
 少々苦しげな吐息を上げながらに、彼もまた、笑顔を持ってそれに応える。
 実際、ロドリグは愉快だった。ボートに乗るのも、それを漕ぐのも久しい事であったけれども、こうしてやって見ると、まるで昔に戻って来た気がする。その先に何が待っているとも知らずに、希望を胸にして新大陸へと渡ったあの頃、或いは更にその昔、同じ様な池で女の子を乗せたボートを動かし、穏やかに談笑しながら過ごしたあの頃に、だ。
 多少とも残った昼間の熱さを洗う様な健やかな風が流れ、それに合わせてしっとりと香る、あの幼馴染に似た娘の匂いが、その船上での光景を呼び起こし、ロドリグが抱いた想いをより強いものへと掻き立てて行く。
 そうだ。ボートに乗った女の子とは、あの幼馴染であった筈だ。もう四十年も、五十年も昔の事だが、確かに覚えている。あの年下の少女と自分は、今の様にこうして――
 ロドリグは、そんな、ふと湧いて上がって来た懐かしい思い出に浸る様に、声を出して笑うと、その視線を、あの少女の方へと向けた。
 既に体を戻し、彼の方へと向き直っていた彼女は、小首を傾げて笑う。
 そこで揺れる銀色の髪に心音が高鳴るのを感じながら、ロドリグはオールを置いた。水の中に先端を沈められたそれはある種の弁となり、亀の歩みであった船を、完全に停止させる。
「さぁジル。おいで。」
 折り良く池の中央で止まったボートの上で、ロドリグは腕を広げて、そっと手招きした。
 少女はそれに頷くと、手を付いて側へと寄り、彼の膝の上に座って、背中を預ける。
 僅かに上を向いて、無邪気な笑顔を見せる少女を軽く抱きながら、ロドリグはその髪を撫ぜた。あの香りが直に香り、彼はより一層笑みを強め、昔日の想いが去来する。
 あの幼馴染ジルと過ごした日々の記憶が、老人の脳裏に、季節の華が如く咲き誇って行く。
「所で……ずっと、聞きたかったのだが、」
 だからこそ、ロドリグは少女へと言った。一ヶ月の間、ずっとその胸の中で渦巻いていた思いと、そこから導き出された決定的な考えを告げる為に、
「君は、一体、誰なのかね?」
 幼い頃にずっと一緒であったあの娘と、全く同じ姿をした少女へと向けて。
 彼女は、その言葉が解っているのかいないのか、表情を崩す事無く、老人を見つめている。
 それがまた、ジルと重なる。そんな事はありえないというのに。何故ならば、
「ジルは、ずっと昔に死んだ筈だ。私がまだ十代も半ばだった頃に……病でね。」
 彼女は、十三歳の誕生日を迎える前の冬のある日、満足な食事も暖も取れない暮らしの中で、ふと患った病魔によって、医者に診られる事も無く、そのまま息を引き取ったからだ。彼女が死ぬ所を見ていたロドリグは、故にこそ、ゴールドラッシュに乗ったのである。
「だから今君が居る筈が無い……なのに、君は今ここに居る。そんな君は誰なんだい?」
 彼は少女の銀の髪を撫ぜながらに言葉を綴って行く。
 責める様でも無く、かといって怯える風でも無く、ただただ事実を述べる、と言った風情で、
「君は彼女に偶然似ていただけの、何の変哲も無い少女なのかね?それとも、妖精か何か……他人に変身する事が出来る存在なのかな?悪魔とかね。土壱(ドイツ)や詠霧趣(イギリス)では人間そっくりの自動人形が居るとも聞いている。阿真利火だったか?確か、アリスとか言う……傍目ではとても人形などには見えないと聞いているよ。それから、こんな季節だ、幽霊という事もあるかもしれない。そんな気配は無いけど、な。もしかしたら、死体が動いているとか?エッシャー……アッシャーという者の家で、そんな事があった様な噂を耳にした事がある。その肌の色合いでは、とても信じられないけれど。或いは、私に見えているというだけの、幻という可能性もあるな。こうやって触っている事すら、私が思い込んでいるに過ぎなくて……」
 それらの言葉に、少女はやはり何の反応も見せなかった。あの日、ロドリグが始めて彼女を見、驚いた時と全く変わらない、少々白痴めいた笑みをしているがままだ。
「……いや、いいんだ。君が、何も語らない事は解っていたし……何の意味も無いからな。」
 そんな彼女の態度に、老人は若干の苦味を入れた笑みと共に、再度銀色の髪を撫ぜる。

 そう、ロドリグは、別に少女をどうこうするつもりなど無いのだ。もしその気があるならば、とっくの昔に行っていた筈である。こうやって共に歩き出すより前に。
 だが、彼はしなかった。関係無かったからだ。彼女が一体何者なのであれ、共に過ごす無為の時間に、安らぎを覚えているという事実の前には。寧ろ、捨て去り、忘れ去って等しいものを新たに与え直してくれたこの者……物かもしれないが……には感謝すらしているのである。
 だから彼が聞いたのは、本心からのものでは無い。ただ、ほんの少し気に掛かっていたというそれだけの事であり、答えなど最初から求めていなかった。どちらかと言えば、その感情を少女へと告げる事そのものこそが、ロドリグが望んだ事であると言えよう。
 それによって、彼のここでの目的は達せられたとも言える。ただし、半分だ。そんな理由ならば、わざわざこの場所まで連れて来る事も無いだろう。

 そして、もう半分は、直ぐにやって来た。
「ん、どうやら始まったようだな。」
 手を止めて、そっと少女の両肩へと手を乗せてから、ロドリグは言う。開けたこの場所だからこそ垣間見える、華璃上空にて咲き開く色彩豊かな火の花を見つめて。
 今夜は七月十四日、風蘭守革命を記念して行われる、華璃祭の日である。
 それは近年広められた祭日なのだが、丁度九十三年前の今日、バスティーユの監獄に砲弾の火が上がらなかったら、今の風蘭守は在り得なかった事を考えると、少々遅い位だ。勿論各地での風評はともあれ、だが。
 そして、革命の狼煙から美しく昇華された打ち上げ花火を見る事こそが、ロドリグの本当の目的だった。瞬いている間に散ってしまう様な短い間ではあったけれども、その儚い美しさを持ってして、遂に勝ち得る事が出来た幸福なる生活を祝うが為に、だ。
「どうだ……綺麗じゃないかな。」
 ロドリグはそっと少女の耳元で囁くと、更に首を伸ばして、彼女の瞳を見る。
 余りに淡い青色の光を輝かせて、少女は嬉しげに微笑んだ。
 その両眼の奥で、郊外とは言え肌に掛かる暑さを薙ぎ払う音の後に、既に暗く染まった夜の空を艶やかに彩る火の花が咲き乱れる光景を覗いて、ロドリグはますます笑みを深める。早々と死に別れたジルが、本当にそこにいて、喜んでいる気がして。
 そうして彼は、遂に持つ事の出来なかった娘か孫にする様に、もしくは、離れた後結ばれる事の無かったかつての恋人にする様に、この何であるかも解らない少女を抱き締めると、自身もまた、夏の夜空に現れては消える花へとその視線を向けるのであった。

 FIN
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