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 今期大学冊子用作品
  銀が混じった鉄格子の嵌められた窓から差す青白い月明かりにも増して青褪めた顔色をして、羽振陸(ハフリ・リク)は、塔京警視庁(サクラダゲート)本部庁舎内にある取調室の壁際に配置された机に肘を乗せ、頭を抱えていた。
 ここに連れて来られてから小一時間経とうとしているが、その時から彼の格好は変わらない。表情も、そして頭の中身も。彼はずっと考えていたのだ。自分が何をしてしまったのか。
 いや、それは正確に言えば間違いである。陸は自分が何をしたのか、痛い程理解していた。
 彼はついさっき自分の恋人である射座美麗(イルザ・ミレイ)を殺してしまったのだ。
 そして直ぐに交番へと赴き、自首をした後、こうしてここまで運ばれて来たのである。今は簡単な調書を取られた後、次の進展を待って、待機している状態だ。
 それはいい。そんな事はあえて悩む必要の無い事で、また同時に覆しようも無い事実の一つだ。
 陸が問題として延々と悩み続けているのは、どうやって、という事である。
 つまり、 殺した当人もまた、何故美麗が死んだのかを全く解っていなかったのだ。
 そもそも陸に彼女を殺す動機など無い。彼は恋人を深く愛していた。
 美麗が保因者と呼ばれる、古来より好意的に見られては来なかった人ならざる存在で、少年が産まれる前のアンゴルモア大事変の折、地球規模の災厄を産み出した間接的原因、中でも多大な人的被害を及ぼした人狼という凶暴な種族であったとしても、また肉体的に深く付き合う内に自身も人外の者へと変異して行くのだと知っていても、陸は美麗を愛していた。それも変わる事の無い事実である。
 ならばこそ、彼は彼女を死なせた事を殺したと考えていた。
 意図は無くとも、状況的に考えて、美麗の死の原因が陸にある事は、実に明々白々だったからだ。
 そうして事実を受け入れているが故に、彼は考え、悩むのだ。
 自分の何に寄って、どうして彼女は殺されたのだろうかと。
 陸の脳は歴史的遺物(クラシカル)な歯車式人工頭脳が如く回転し、あの時までの光景を映し出す。取調室に入れられてからずっと、何度も繰り返し行って来たものなので、彼は細部まで事細かく思い出す事が出来た。
 
 陸と美麗は、人気の無い公園のベンチに腰掛けると、深く互いを抱擁し、その唇を奪い合っていた。
 少年の年齢は十五歳だが、女性の年齢はその裕に五倍近い年月を経ている。身長もまた頭一つ半位差があり、座っている状態でも陸は上、美麗は下へと首を傾けねばならなかったが、当人達は一向に構わなかった。特に彼の方は、まだ若いという事もあって実に猛々しく、その瞳には恋人の姿しか映っていなかった。両親の猛反対を他所に全てを受け入れ付き合っているのだから、最早何も怖くなど無い。出来るならば、こんなキスだけで終わらずに、更に先へ進みたかったけれど、美麗はそれを許さなかった。ただでさえ危険だというのに、婚姻前でそんな危ない橋は渡れない、と。当人はとっくの昔に処女では無くなった人狼だろうに殊勝な限りで、成る程、自分の事を考えてくれているのは嬉しかったが、しかしこのご時世でそれはなかなかに辛いというものだ。肌寒くないのか、秋口にも関わらずまだ着ている薄手のワンピース越しの肉感的な体や、腰まで流れる透き通った銀色の髪、長い尻尾毛は、確かに肌触りも良くてそれだけで若い性は達してしまいそうだったけれど、実際そうはならないのだから、苦しくて仕方が無い。
 だが、それを抗議した所で美麗は何処吹く風であるし、勢い余って暴力に願い出たとしても、彼女の方が圧倒的に強いのだから、どうしようもない。陸はそう半ば諦め、半ばで諦めきれずに、口内へ入れられる熱い舌へと自らのものを絡ませた。ただ、満月が人狼の血を滾らせているのか、美麗の舌遣いは何時にも増してしつこく、ねっとりとしている。余りに深く入れるものだから、息が苦しい。普段は香水で誤魔化されている獣臭も、発情した雌のそれと伴って嫌が応も無く鼻に付き、肌も汗ばんでいるのが解る。美麗も本当はヤりたくて仕方無いのだろうな、と陸が口元を吊り上げていると、唐突に異変はやって来た。
 う、という呻き声と共に、突然彼女が彼を突き放したのだ。余程慌てたのか、今だ幼さの残る少年の体は何メートルも先へ飛び、陸は強かに腰を打ってしまった。彼が痛む辺りを摩り摩り、何だよ行き成り、と、そう顔を上げて見ると、首を抑えてのたうつ美麗の姿が飛び込む。顔面に苦悶の表情を貼り付け、声が出ないのか、ただただ唇を震わせながら、ごろごろと転がりまわった。肩紐が外れ、陸の掌では収まりきらぬ様な乳房が零れ落ち、また水色のショーツが剥き出しになってしまっているけれど、そんなものを少年が喜んでいる暇は無かった。動く気力すら無く、彼はただただ呆然とその様子を見つめていた。
 そうして美麗は、最後に何か青白く粉っぽいものを吐き出すと、ぴったりと動かなくなってしまった。陸が名前を呼んでも何の反応は無く、その体を擦ってもびくともしない。ぱっくりと大口を開けた、正に狼じみた凄まじい形相で、美麗は死んでいたのだ。

 その事を思い返し、陸は、畜生、と叫び、拳を振った。テーブルが鈍い音を立てて僅かに揺れる。
 どう考えても、彼女は彼が殺した。それは間違いない。あの死に方は尋常で無く、周りには彼等以外誰も居なかった。病気という可能性もあるけれど、しかし昼の間は何事も無く平然とデートをしていたのだから、ちょっと無理があるのでは無かろうか。もしかしたら毒を盛られた(保因者に対する嫌悪感は七十年前の大戦よりずっと下降気味だったけれど、1999年以降、国際保因者連盟の並々ならぬ努力に関わらず上昇傾向にある)のかもしれないが、その様な悪意を向ける様な相手に陸は心当たり無く、美麗もそんな素振りは見せなかった。
 だとすると、やはり、原因は自分という事になるだろう。保因者は数多居るけれど、殊、種族化したそれは、人間には無い長所以外にも短所、所謂弱点を持ち合わせている。人狼である美麗の場合、銀や大蒜、はオーソドックスなものとして、余り知られていない所だとトリカブトの花が大敵である。通称『狼殺し(ウルフスベイン)』とも呼ばれているその成分を摂取すると強いアレルギー反応を起こし、良くて死亡、最悪の場合は化学的発熱発火によって炭化、灰化して骨まで残らないのだという。とは言え、塔京(トウキョウ)界隈で普通に生活している人間が、トリカブトの花を見る事など、まず無い経験だろうが。
 ともあれ、美麗は当然の様に忌避しており、陸の唇を通してそれらを体内に取り入れてしまったのかもしれない、が実の所、それこそ在り得ない話である。彼女が気にしている様に、彼もまた、人狼の弱点については神経を使っているのだ。ある意味でそれは本人よりも徹底ししており、常にウェットティッシュを携帯し、洗濯や、上着のブラッシングも念入りに行っていた。特に、構造が外と違う上に良く触れる機会の多い口内環境は、食事をすれば歯磨き、帰宅すればうがいと、常時清潔に保たせている。大蒜を食べたばっかりにキスした吸血鬼の恋人を殺してしまった男の笑うに笑えないモンスタージョークを聞いてからは、その道の権威であり、老舗とも言える著名な歯医者に行って長年放置していた虫歯すら治して貰った程である。聊かやり過ぎかもしれないけれど、用心するに越した事は無い。
 だというのに、美麗は死んだ。陸とキスをしている最中に。正に死の味のキスという所だろう。一体自分の何が悪かったのだろうか。何を見落とし、誤り、その結果、彼女を殺してしまったのか。
「美麗……。」
 今は亡き恋人の名前を、変わる事の無い姿を見せている月へと語りかけても、求めている解は出て来ず、そうして陸は独り、取調室の中に取り残されていた。

 それからもう数十分程の時が過ぎ、陸がいい加減自己の思考に浸るのも飽きて来た頃、取調室の扉が開いた。頬杖を付いて、進展を待っていた彼がすっくと顔を上げると、外から入って来たのは男女二人組の者達だった。調書を取った制服警官とは違う人物だが、恐らく彼等も警察官なのだと見て取れたけれど、これがまた偉くちぐはぐで個性的なコンビであった。
「どうも、お待たせしちゃいました。ちょっと調書の確認やら何やらに手間取っていまして。」
 そう言って、あはは、という場違いな笑いを発したのは女性の方だ。艶のある日本人然とした黒髪をショートに切っておきながら、その瞳は琥珀色をしている。肌も白く、新緑色をしたスラックスのスーツの上からでも出る所はしっかり出ているのが確認出来るのだが、顔の作りは東洋的なものだ。世界大都(メトロポリス)の一つ、『混生都市(バリアブルシティ)』塔京であれば混血(ハーフ)など何処にでもいるが、警察官でそれは珍しいのでは無いか。
「いや、遅れて悪かった。こいつがまた、偉く要領が悪くてな、相棒としてもどうかと思うのだがね。」
 その隣に立ち、むっとして顔を顰める婦警の頭を子供の様に叩いて見せるのは、成る程、それが当然だと思わせる中年の大男だ。身長は百九十センチ程度あり、肩幅もがっちりしていて逞しい。
 が、それよりも眼に付いたのは目元を完全に覆う電字式バイザーだ。幅の広いレンズを今は赤く照らしているそれは、阿真利火(アメリカ)に本部があるヒーロー組合に属する一人が付けているタイプに実に良く似ている。ただ、そのバイザーから破壊光線(オプティック・ブラスト)が出る事はあるまい。あくまでそれは視覚補佐の為のものだろう。昔のものとは違って今の電字式ならば、後遺症も無く簡単に義眼が付けられるだろうに、まだ旧型のバイザーを付けているのも奇妙な限りだ。その人となりが知れる。
 そんな何とも言い難い取り組みに陸が唖然としているのに気付いたのか、無造作に置かれた手でを払い除けつつ、女性は歩み寄り、少年の前に立った。何処か幼さを残すその顔に笑みを浮かべると、
「えぇ、と、まぁとりあえず自己紹介を。私は琥珀石華夜(コハクイシ・カヤ)。こちらにいるがさつで無礼な人は、鬼頭正樹(キトウ・マサキ)。どちらも塔京警視庁刑事部捜査新四課第一係の刑事です。どうぞ、よしなにですわ。」
「あ……嗚呼、宜しく。」
 そう言って手を差し出すのに釣られ、陸も思わず立ち上がり、手を差し伸べた。
 自分と余り大差無い背丈だからだろうか、或いはその人懐っこい笑みの為か、この華夜という女性には、最初に抱いていたのに似て、どうも警察という印象は無い。新しい四課だか何だか知らないが、刑事だなんて、言われなくては解らなかっただろう。
「ま、そんな硬くならずに気楽にやろうや、な?」
 対して、この鬼頭という人は、態度から雰囲気まで、再放送でやっている往年の刑事ドラマに出て着そうな男だった。それだけが異様に個性を醸し出しているバイザーの為に詳しくは解らないが、顎一杯の無精鬚、ごってりとポマードを付けて固められた白髪交じりの黒髪、その渋い声の印象から察するに、年齢は四十代か、五十代位辺り。ろくにアイロン掛けされてない黒のスーツ姿で、バイザーの下にある唇を自信ありげに吊り上げている。ドラマの役で言えば、主役の若手刑事をしごく先輩刑事という所だろう。
 そして彼は、陸がじっと見つめている事に気付くと、にやっと更に口元を上げて言う。
「何、俺達が担当する事になったんだ、事件はもう解決した様なものさ。親四課ってのは別名『怪奇課』と呼ばれていていな、保因者が関わっていそうな厄介事や、精神って意味の心霊絡みの事件を捜査する専門家なのよ。有体に言うならば、あれだ、塔京警視庁のモルダーとスカリーって訳だよ。」
「はぁそうなんすか……。」
 聞いても居ない事をぺらぺらと良く喋るものだ。少年はそう思い、その顔を強張らせた。恐らく刑事の発言は、彼の緊張を解かせようとしてのものだったろうけれど、寧ろそれは逆効果だった。二人のその見た目に驚かされて、忘れていたけれど、陸は殺人犯だ。少なくとも、自分でそう思っている。ならば、とても笑う気になどなれなかったし、そもそもとして冗句の中身が理解出来なかった。
「いやどうでもいいっすけど……モルダーとスカリーって誰っすか。」
 その台詞が偉く気に障ったのか、鬼頭は、おいおい、と口をへの字にしつつ、バイザーのレンズを赤から青に変えた。神経電流を受け、義体遣いの感情を色として表現する機能だ。それで表現される色は、平時の一色と喜怒哀楽の五色しかなかったけれど、傍目には解り易い限りであり、その青い光を華夜へ翳して、彼は言った。もうわざわざ色付けされていなくとも落胆具合が解る口調で、
「聞いたか、最近の平成ベイビーはFBIの名物捜査官を知らないらしい。ドラマ見て無いのかね。」
 華夜は、琥珀色で無くなった瞳をきゅぅと細め、慣れた感じて返し、
「ドラマがやっていたのはもう何年も前で、多分この子産まれていませんわよ。それに、あれは放送禁止になったじゃないですか。ほら、阿真利火の偉い人に、『事実を流すな事実を』と訴えられて。」
「嗚呼、そうだった。だがそりゃ噂で、公表されたのは別の理由だったよな。」
「方針の違いによる監督とスポンサーのイザコザがどうのこうの、でしたっけ。大嘘も甚だしいですわ。最終回直前のあのエピソードを見れば、子供にだって解るというものです。」
「嗚呼、全くだ。大好きだったのだがね、あれ。勿体無い事をしてくれたものさ。」
「本当ですわよ。もし私が当時も刑事だったら、打ち切った臆病者を逮捕してくれるものを。」
 そうして妙に納得いった様子で頷き合う二人に、陸は、あの、と割って入った。最初こそ捜査の為の誘導かと思ったがそんな事は無くこの大人達は普通に会話していた。途中で止めさせなければ、このまま延々と阿真利火の陰謀だか何だかの与太話を続けていただろう。いい大人が良くもまぁそんな、いや、それは構わないけれど、自分が居る前では控えて貰いたい。陸が知りたいのは美麗を殺した原因であり、他の事などに興味は無いのだから。
「と、失礼。少し羽目を外してしまった様で。」
「まぁ、立ちっ放しというのも何だからよ、とりあず座ってじっくり話そうじゃないかい。」
 そこで漸く我に帰ってくれた二人の内、華夜が反対の椅子に座るのに促され、陸も座った。その表情は乏しかったが、しかし内心では酷く興奮していた。これで漸く解るのだこの二人が事件を解決するとは到底思えなかったけれど、しかし真相の一端に到達する程度には行けるだろう。ならば彼は、彼女を殺した罪を受け入れ、知っている事を話し、そして、答えを得るのみである。
「ま、と言っても、」
 だが、次に語られた鬼頭の言葉は、陸が予想していたものとは到底違う台詞であった。
「実際問題話す事も無いんだがね。実の所、事件は解決しているんだから、さ。」
「……え?」
 一瞬何を言ったのか理解出来ず、少年はきょとんとした顔をした。だが直ぐにその意味を察すると、がばりとテーブルから身を乗り出して叫んだ。「か、解決しているってどういう事すかっ」と。
「いや、どういう事も何も言った通りのものだよ。」
 対岸に佇む鬼頭は、バイザーの色を通常色たる赤に戻して応えた。
「この事件はもう解決済みだ。謎は解け、残っているのは細かい肉付けと、面倒臭い報告書執筆だけさ。まぁ、そもそも事件でも何でも無くて、ただの事故な訳だからね、君もこれが終われば直ぐ解放だよ。未成年者をあんまり長く拘束していると周囲が五月蝿いし、俺らとしてもそんな事はしたくない。」
「な……何が事故なものかっ。」
 まぁめでたしめでたしだよ、と腕を組みつつ、首を縦に振って見せる年上の刑事が言動に、陸の血は一瞬で沸騰した。握った拳でテーブルを打ち付け、先と同じ様に高らかに叫ぶ。
「美麗は俺が殺したんだっ。だから彼女は死んだんだ。決して事故なんかじゃないっ。」
 そんな彼の様子を、しかし鬼頭は聞く耳が無いかの様に見ていた。バイザーの色も変化無く、口元も一文字に結ばれたままである。目の前に居る華夜も書類を漁っているだけで何の反応も無い。つまり、彼女も同じ意見という事であり、それが少年をますます熱くさせた。あれが、美麗の死が、事故なんかである筈が無い。原因は自分の中の何かであり、それが彼女を殺したという事実は状況的に覆らぬ筈だ。
「まぁ、確かに凶器となった代物は君が所持していた事になるんだがね。彼女の死因は、気道燃焼及び灰化に寄る窒息死だった。調書だと、死亡時君達はキスをしていたらしいが、その時に、だな。」
 陸の剣幕に押されたのか、唇を吊り上げつつ、バイザーの色を変えて鬼頭は言った。今度のそれは赤から黄に変わっている。どういう意味か、判別は付かないけれど、だがそれは陸を安堵させた。そら見ろやはりそうじゃないかこの藪刑事め。美麗のその最後の姿を脳裏へ描き出しながらに彼がそう思って、笑みを浮かべると、今度は華夜がその薄い唇を開いた。
「羽振さん。貴方、一年位前に歯科医に掛かっていますね? 都内にある木下歯科クリニックで。」
「え……嗚呼、そうすけど、それが何か?」
 振って沸いた様な妙な質問に、陸は疑わしそうに聞き返した。
 確かにその頃、彼は歯の治療を受けにそこの歯医者へと行った。古くからやっていて、腕は良いとの評判だったから赴いたのだが、しかしそれが何故ここで関わってくるのだろうか。
 陸の疑問を他所に、華夜は目当ての書類を表面へ出すと、すっとそれを見つつ、こう続けた。
「その歯科医ですけれど、先月、医療法違反及び業務上過失致死罪で逮捕されているのですわ。具体的に言いますと、歯の治療に違法な貴金属を使用し、関係書類を偽造。更に、同金属を使った手術によって、患者が一名死亡しております……違法金属が何かは、あえて言うまでも無いでしょうけれど。」
 そう華夜が言い止めるまで聞き遂せていられるだけの精神を、陸は持っていなかった。彼は信じられないという顔をし、そっとその手を頬へ当てた。既に捕らえられていたという医者が施した術式の跡へ。
「良かれと思った事が裏目に出る、なんて言う事は、嗚呼哀しいかな、人生では儘あるものなのだよ。まぁ、君が悪い訳では無いし、そいつを認めたくないって感情も解らんでも無いがね。」
 鬼頭はそんな彼の元へと歩み寄って語る。その口調は皮肉げで何処か歓んでいる風でもあり、もし陸がもっと冷静だったならば、バイザーが発する黄色い光の意味が解ったろうけれど、今彼にその余裕は無く、
「これが科学者とか医者とか義体職人になると、もっと偏屈気味になる。ろくでも無い数が出ると解っていても賽を振ってしまうものなのさ。今までの全てを無駄にしたくないばっかりにね。『発想の追及』だよ。かつて世界一だった日本の歯科技術を手放したくなかったんだろうなこの歯医者も。あの悪名高いヤーコプ・グルムバッハとかが、そうだった様に、ね。が、それはどうでも良く、言える事はただ、」
 黄が青を隔てて赤に戻る中で坦々と、だが長々と鬼頭が語るのすら、彼はろくに聞いていなかった。その頭の中ではある事実がどうしようも無く反復しており、彼はそれを言葉にして出した。
「俺が殺した訳じゃ……俺が間違いを犯した訳じゃ、無かったのか……。」
 もし仮に、これが自動車の運転手で、他人を巻き込んだ凄惨な交通事故を起こしたというのであれば、その事実は大変歓迎すべきものであったろうけれど、だが陸の胸中にそんな気持ちは微塵も起きなかった。故意であれ何であれ、結局愛する者が帰って来る訳では無く、加えて、そうである以上は別の事実が鎌首を上げて待ち構えているのだから。
 事実を知って、少しずつ冷静になって行く頭でその事を考え、陸は漸く、自分が人殺したらんと欲した理由を知った。もし美麗の死が自分の所為で無く、半ば偶然の所業であったならば、彼の今までの行いは全て無意味だった事になる。それ所か、もう半ばでは害悪でもあるのだ。そしてその牙は不意を突き、何とも間抜けで、それこそかつて聞いたジョーク並みに笑えない結果を少年に齎したのである。
「ま、センチメンタルな気分へ浸るに浸れない事故だった訳だが、これもまた致し方ないと思うしか無いさ。それこそ何処ぞの文豪らしく、人生は全て悪しき冗談に過ぎない、とね。」
 茫然とした様子である陸の横で、鬼頭がそう語れば、華夜の琥珀色の瞳がきゅっと細まるけれど、だが彼はちらりとも見ずに、その手を少年の肩へと乗せる。
「で、その事をあえて口に出して言うならば、まぁ、こんな所だろうな。」
 そしてバイザーを黄色に発光させつつ、極上の笑い話を伝える様な口降りと笑みで、こう陸へと言った。
「君の銀歯に乾杯、さ。」
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