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2.交差せざるを得ぬ者達

わたしは人間の苦しむのを見ているだけです。
人間というこの世界の小さい神さまは今も同じ型にできていて、
天地の最初の日と同じように気まぐれです。
あなたがあいつに天の光のうつしを与えなかったら、
もすこし具合よく暮らすでしょうに、
人間はあれを理性と呼んで、それを
動物よりもっと動物らしくするためにだけ使っています。
………………
人間という奴が毎日苦しんでいるのを見ると、気の毒になってしまい、
わたしでさえ、あの哀れな連中をいじめるのがいやになります。
 ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ファウスト』
11:45

 ジェフリー・ノーマッドには、かつて――そう付ければ誰であれ、だが――家族が居た。
 父、母、祖父、祖母に、二人の兄と、二人の妹、それから犬に猫、何頭かの羊。
 その中の二人以外は物語上さして重要では無く、また何時の何処の誰にだって大概居る或いは居た者の上、今は当然この世には居ないからのだから、どうでもいい連中である。名など挙げるだけ億劫だ。聞いた先から忘れてくれて構わない。まるで居なかった様に。
 重要なのは彼の祖母であり、また祖父である。
 特に、と付けねばならないのは、祖母の方だった。
 彼女――特に重要、と言っても、それは物語上且つジェフリーに取ってであり、夫共々やはり名は挙げない。態々億劫にはなりたくないものだ――が産まれた頃から既に老衰間近であり、揺り籠の中で眠る赤子の隣で床に付していた。ベッドという棺桶に入れられて。
 東方の気候は、人々にとって決して良いものでは無かった。砂と岩とゼンマイシダ以外にあるものと言えば、ちょっと違う形をした砂と岩とゼンマイシダ――要するに何も無い。特に世界の東の果て、カルナックとその周囲はそれが顕著であった。
 そんな所に人が住む理由自体が人間離れしたもので、古代においてはメリアムン探求王の愚かで哀しい夢の痕、現代においてはアモン機構(クロック)を廻す風車の為だ。
 他方の端は全て滝であり、塩の海から虚無の海に降り注がれているのは観測された事実だったが、東方だけは違い、陸地、崖なのである。真に何も無い場所より吹き上がる風は強烈であり、大型アモン機構(クロック)であっても、容易く限界まで廻す事が出来た。人か馬か、若しくは他のアモン機構(クロック)で廻している他方と比べ、これは実に効率的だった。
 その風は、無論、生物の中の発条をも廻す。
 死という全てに遍く降り注がれる限界に向け、慈悲無く容赦無く。
 女だてらに無法者達と渡り歩いた女傑も、大自然の猛威には成す術が無かった。
 恐るべき狼の面を持って、この地に君臨するアモンの力の片鱗が前には。
 ただ、にも関わらず、ジェフリーの祖母が遂に命の機構を廻し終えたのは、彼が赤子の時分を終え、少年時代を迎えているその最中であり、時間だけで言えば、他の家族よりも長く生きた。思い出して欲しいジェフリーの母、兄一人、妹二人、犬に猫、それから何頭かの羊は、彼女よりも先に死んでいった。理由は様々だ――態々億劫には成りたくない。
 だが、果たしてそれで良かったのか? その意見も、やはり様々だろう。その内容から外典とも称される、最も如何わしき諸聖典『|暗黒の王(ネフレンカ)』では、死の喜びを説いている。人としての肉体を捨て、螺旋なる魂のみと成り、世界の果てのアモンに近付くのだ、と。
 幼いジェフリーは、『王』を読んではいなかった。当たり前である。諸聖典の中で唯一それだけは、マハ・ザ・エル図書館の地下書庫に封じられており、閲覧するには螺旋都市市長の許可が居る。一般の市民が易々と読める代物では無いのだ。
 しかしながら、それでも彼は、祖母の姿に『王』と同じ考えを抱いていた。
 幼心に浮かんだそれを言葉に直せば、この様なものである。
「何でこんなきったない姿で生き続けていられるんだ? さっさと死んで、アモンの所にでも何でも行っちまえばいいのにさ、みっともないったらありゃしない」
 そう語ったのは、丁度彼の母が死んだ時だった。病の風に倒れたのだ。
 その姿はやつれていたけれど、しかし苦渋も消え去った、安らかな顔色をしていた。
 こんな、と称される祖母の姿は、東方の地に行き倒れた旅人に良く似ていた。飢えと乾きを抱きながら、がっくりと膝を付き、瞼を閉じて尚も、渦巻く風の洗礼を受け続けた者の。その吐息は歳月の塵芥がこびり付いた悪臭を放ち、耳障りな呼吸音は、壊れ切った自動風琴(プレイヤーオルガン)の様である。ちゃんと巻譜(ロール)を読み取れない癖に、決して止まろうとはしない。
 皺だらけの顔は、見るも無残な苦渋に染まっていた。
 なら誰かいい加減止めてやればいいのに、とジェフリーは思ったが、誰もそうはしなかった。所か、その醜い生は尊重され、敬意を払われ、何と助長された。母に、兄一人、犬に猫、それから何頭かの羊すら助けられなかった医師や信者が現れては肉体と精神に活を入れようとし、また残された父や兄一人、ペット代わりの隣人達が、彼女を見舞ったのだ。
 よせばいいのに。
 特に祖父の付き従い方は異常であり、少年には理解出来ないものであった。
 よせばいいのに。
 だから一度、ジェフリーは彼に向けてこう聞いた事がある。
「なぁ爺さん、そろそろ死なせてやんなって。見てられないぜ、おい」
 それに返って来たのは無言の中での鉄拳だった。少年が頬を抑えて、何故今自分が殴られたのかと本気で首を傾げていると、その祖父は涙と共にこう言った。
「いいかよく聞けジェフ。キャシーは、婆さんは生きてるんだ……生きてるんだよジェフ」
 だが、その言葉にも関わらず、結局は祖母も死に、後を追う様にして祖父も死んだ。
 少年が荒野を目指したのは、正にその瞬間からである。
 祖父に殴られた後も、ジェフリーには彼等の事が理解出来なかった。どうして、あんなに足掻き続けたのか。苦しんだ挙句にどうせ死ぬというのに、何故なのだろう。
 その疑問は嫌悪を産み、やがて彼は、彼等とは逆の道を目指さんと歩み出した。
 渦巻いてなど毛程も無い、何処までも真っ直ぐな道を荒れ果てた東の地に求め、『王』と同じ黒衣に身を包み、踊り狂う七匹の猿が群れに入れば、己が身と銃だけを糧に、同じ思惑を持つも法的な悪に落ちた無頼どもを狩る日々を生き始めたのである。
 何時か訪れる死を潔く迎え入れる、いや寧ろ、自分から掴み取ってやる為に。
 ただ一言加えれば、それはジェフリーの祖母や祖父が若い頃に目指した道であった。
 そして今、彼が身を置いているのは、正しく晩年の彼等が居た場所でもあった。
 つまりは棺桶であり、別名をベッドと呼び、という所でジェフリーは目を覚ました。

 それは奇妙な違和感によって齎された覚醒であった。
 ジェフリー・ノーマッドは最初その正体に気付かなかった。一体何が違うのかと。確かに何かが違うというのに、それによって瞳を開けたというのに、さっぱり解らない。
 が、程無く彼は理解した。気付かなかった理由に、どうして思い至らなかったのかという事に。思考の螺子を巻くものは何か? それは酸素であり空気であり、行為としては呼吸なのだけれど、若き体は息の仕方を忘れてしまった様に停止していたのである。
 恐慌が朝の鐘を鳴らした。喧しく、またどうしようも無く。
 鈍く乾いた濁音を吐き出しつつ、ジェフリーは両の手を喉にやる。いや、やろうとした。日に焼けた肌に触れたのは猿踊る右手だけであり、左手は所有者の意思に従おうとは一向にしない。苦しげに喉元を押さえつつ、彼はきっと反旗を翻した手を睨み付けるが、それはただただ震えるばかりである。まるで首を横に振っている風だ。
 勿論それは手首だが、などと言っていられる余裕は今のジェフリーに無い。代わりに彼は、唾液と共にひゅぅひゅぅとか細い吐息を挙げながら、どうにかこうにか、こう言った。
「……動け……」
 勿論動く訳が無い。何時から手は聴覚まで司る様になったというのだろうか。
「……動け……」
 にも関わらず、ジェフリーの叫びは己の左手に聞き届けられた。どうやら何時からか手は耳も兼ね始めた様で、それはしぶしぶとだが、彼の意思に合わせて動き始める。
 そのまま傍らに置いてある一丁の螺旋銃(クロックガン)を握らせれば、無理矢理押し開けた口の中へその先を突っ込み、がきりと銃身を歯噛みする。と、共に、銃把傍にある小さな真鍮製の摘みを親指で起こし、起こし損ね、二度目で起こして、安全装置を解除する。既にアモン機構(クロック)は充填済みだ。直ぐにでも弾丸は放てる。ちょいと、人差し指を動かすだけで。
 ジェフリーは暫くの間、そうして銃身を咥え続けた。喉笛を鳴らし、左手首を右手でぎゅっと押さえながら、幾筋もの汗を額より垂れ流して、自分自身を脅迫した。
 動け、俺の体なら、動いて見せろ、俺の思う通り、さもなくば殺すぞ、と。
 言葉にならぬそれは、耳を介さずに脳から直接全身に向けられた。と、くれば、当然の如くどの部位も聞き耳など持たぬ筈だったが――何時から以下略――しかし、ジェフリーの肉体は、その主従権を明け渡した。理由は解らないが、そういう風になった。
 再び思い通りとなる体を取り戻した彼は、思う存分に呼吸をする。ただの空気が心底美味く感じ、背筋をそらして吸い込めるだけ吸い込む。ごほっと咳が出た。
 それから腕を広げたままにベッドへと身を横たえる。十字に交差させた両手で視界を半ば覆いながら、この数日間ですっかり見慣れた天井に左手の螺旋銃(クロックガン)、右手の猿達を眺めた。
 言わずとも思わずとも、実感があった。歪曲病が進んでいる。宿った魂の都合など関係無く体が動き、或いは止まり、やがては完全に断絶して死に至る、恐るべき病が。
 冗談じゃない――という事はつまり冗談なのだ、これは。そう思え。で無ければ、実に無様極まりない。少なくとも、指先一つ動かせる間は、余裕を持って動かねば。
 爺さん婆さんとは絶対に違う、物事を綺麗さっぱり片付けられるだけの余裕が。
 かたりと枕元に銃を置きつつ、ジェフリーは溜息を上げ、そしてその頬を吊り上げる。
 その唇は、彼の意思通り動いたにも関わらず、何とも奇妙な具合に歪んでいた。
 そして、同じ時に神堂からの鐘の音は響き渡り、人々に朝が来た事を告げている。
 彼の気分にも境遇にも関係無く。

 ジェフリー・ノーマッドが螺旋都市に来てから、既に七日の時が過ぎていた。
 七日と言えば、アモンがこの世界の創造を完了するまでに掛かった時間である。『螺旋創世記』を筆頭に、諸聖典の全てに散見出来るそれは、現在の週制度が基になっている。尤も、週の始まりには世界無く、週の終わりに漸く人が生まれたのだ、という理屈付けで持って、七日の内の二日を休息日と定めたのは、諸聖典に何ら拠ってはいなかったけれど。
 その間一切の休息日無く、ジェフリーはアモンを探し続けた。自分の為、自分の身に掛かった死病を治す為、大いなる螺旋角の神にそう願い出る為、半ば本気に、半ば冗談に、つまりは本気で冗談めかした態度で。旧都から新都まで名も知らぬ曲を奏でつつ渡り歩き、ぽんと見知らぬ人々の肩を掴んで、彼はこう聞いて回ったのだ。
 ちょっとおたく、そこら辺で神様を見なかったかね、と。
 それによって培われた成果が如何なるものであったのか?
 マハ・ザ・エル全体を隈無く行き交い、出逢った人々は以下の通りである。
 一般的な捻りパンの売り子とその職人。自鳴琴(オルゴール)弾きに合わせる踊り子。鶏のドネルケバブ屋台。笑顔の素敵な自転車整備員。口髭を蓄えた喫茶店の老主人。お喋りな床屋の兄ちゃん。肉付きも人付きも良い肉屋。青菊を印章とする郵便配達員(ポストマン)。一夜だけにも関わらず、危うく懐を大北海に変えてくれる所だったルーレットのディーラー。ジェフリーには縁の無い菓子師と店員の可愛い姉ちゃん。最早曲芸のレベルにまで至ったピザ職人。自動(プレイヤー)楽器まで取り扱う楽器店の店主。良く馴染んだ無頼漢。放水ホース握る屈強な消防隊。神聖な黒山羊から取れた新鮮な乳を売る羊乳(ミルク)屋。|回転覗き絵《ゾートロープ》を見せている胡散臭い男。掘削機(ドリル)片手に汗水流して働く労働者達。紐で吊るした水晶を地面に垂らす胡散臭い探索師(ダウザー)。上等な蒸留酒を惜しげも無く出してくれる酒場のマスター。ボールからナイフまで、何でもジャグリングする少女。発条駆動車(クロックモービル)の慇懃な販売員。言葉の代わりに音楽で交わす角笛(ホルン)吹き。老熟にして寡黙な銃職工(ガンスミス)。蔓伸ばす南方からの植物を売っている花屋のおばちゃん。物欲しげな子供達と、それに囲まれた綿菓子屋台。何重もの片眼鏡を付けた時計職人の兄ちゃん。アモン機構(クロック)の整備士とその回転士、即ちは身も知らぬ歩行者、等等――
 彼等と言葉を交わしながら、幾つものヘリカ紙幣にスピラ硬貨が消えて行き、代わりに喉が潤い、腹が膨れ、口には笑みが宿り、時に拳や罵声が飛ばされ、そして歪曲病の兆しが何度も襲って来た挙句、ジェフリーが得た結果は、一言で要約してしまえるものだった。
 それは最終的に――今日に至るまで残る強い影響を人々に与えた過程を考慮せずに――メリアムンが辿り着いた答えであり、あのネフレンカも語っている言葉である。
 即ち、何も無し、だった。
 もう一度言おう、何も無しだ。どうやら地方の者と違って、マハ・ザ・エルとその市民達には、まだ不必要なものであるらしい。神の存在証明という奴がだ。
 この余裕はジェフリーに取って癒しでもあり、また鬱陶しくもあった。
 勿論多少とも関わりのありそうな者が居なかった訳でも無い。
 例えば、道すがら語り掛けて来た伝道者は、面白い事を語っていた。
 歪曲病を始めとする地方での異変は、アモンの敵対者、真躯阿(ノメアド)によって起こさたものでそれは螺旋角の神に対する信仰の乱れが原因しているのだ、云々。
 実に笑わせて貰った。現にアモンの存在を前提として動いている身に言う事では無い。
 しかも真躯阿(ノメアド)とは。はっ、それを言うならば――はて、何だったろうか。ともあれ、まぁ、何かが違うのであり、本気で扱うべきものでは無い。冗談でもだ。
 知識の殿堂を探索するという考えも四日目位には出て来た。
 あの名高きマハ・ザ・エル図書館である。
 しかしこれは、直ぐに挫折してしまった。
 図書館の渦巻き状に居並ぶ本棚へと陳列された蔵書は半端では無く、またそこから香る古臭さも並大抵の歳月で無かったのである。これは行けない。仮令全ての諸聖典の原本があって、ジェフリーの探す答えがその中に見つかるのかもしれないとしても、これだけあっては終わりの日まで身が持たないだろう。それに探しているのは、黄ばみ、擦り切れ、状態の良いものが幾らでも写本されて売り買いされている羊皮紙の束――勿論一冊は別だ――などで無く、今この街に数千年の時を経て舞い降りたという螺旋角の神の現物だ。本の中に居る偽者など、幾ら見つかった所で関係も無い。よしんば数千年前の姿では。
 ただ、それは巷間でも同じであった。
 この世界には、螺旋が常に隠れ潜んでいる。
 ジェフリーはこの一週間の間、街中を駈けずり回り、繰り返し繰り返し同じ質問を道行く人にしたり、疲れて何時もより一箱多めに機械巻きの煙草の中で一番お気に入りなミスティックスネイクを吸ったりした――ただまぁ、箱が三つから四つに変わった所で、大した違いも無いだろう、連鎖喫煙者という称号には――ものだが、螺旋隠れ潜ませていないものは何一つとして無かった。地を見れば石灰と煉瓦の街並みの中に、天を見れば黄銅色の太陽と薄っすら黒い巻雲の中に、それは隠れ潜んでいた。幾らでも、どれだけにも。
 ジェフリーとその行為の中にも、グルグルキュラキュラと無音の音を奏でるものは居るのである。見ようと思えば幾らでも、聞こうと思えばどれだけにも、だ。
 にも関わらず、それを掲げる者、力の源、螺旋の中心たる神の姿は何処にも居なかった。
 あるのは螺旋に螺旋に螺旋であり、つまりは螺旋しかない。
 角はあっても、肝心要の本体は、一向に出て来ないのである。
 少なくともジェフリーにはそう感じられた。|胸糞悪い(ファッキン・アモン)。

 流石のジェフリー・ノーマッドも辟易とし、六日目にはアモンの巫女に縋ろうとした。
 この時に出向いたのが先の神堂である。あのドロシー・ダルウィッシュと名乗った、螺鈿子(モザイク)の巫女が居る神堂。他にも神堂は腐ればいい程あるのに、またもっと早々にいっても良かったのに行かなかった訳は、端的に説明がつく。好奇心の従姉弟であるそれは、気紛れと呼ばれた。どちらも人間の行いを端的に説明出来る良い言葉だ。熱心なアモン信奉者なら、螺旋角の神の導きとでも言ったかもしれないが、まぁ、そういう所である。
 そこでドロシーが口にした言葉も、巫女としてなかなか端的なものだった。
 ジェフリーが彼女の神堂を訪れた時、礼拝室にはアモン像しか居なかった。訝しがり、ふと横に見える螺旋階段を登って行けば、鐘塔の頂上、殆どを機械に覆い尽くされた小部屋の中にドロシーが居た。彼女は、額に汗を浮かべながら、アモン機構(クロック)に活を入れている所だった。錆びたハンドルを握り締め、小さな体を目一杯動かし、回転している。
 登って来たジェフリーに気付いたドロシーは、ずれた瓶底眼鏡を慌てて上げながら、
「生憎旧式で……倍増発条(スプリガンク)も結構ガタが来ているのです……専属の回転士も居なくて……」
「嗚呼そうかい」
 彼はそれに関心を抱く事も手を貸す事もせず、ただ、汗ばんだ巫女というのは、なかなかどうしてセクシーなものじゃないか、と、そう眺めながら、ミスティックスネイクにマッチで火を付けた。蛇が巣穴からひょっこりと顔を出し、虚空へ向けてとぐろを巻く様に、甘ったるい毒の煙が周囲へと漂う中、ジェフリーは腕を組みつつ尋ねた。
「なぁ巫女ちゃんよ。あんた確か、アモンは俺の祈りだって聞いてくれる、と言ったよな? だがどうだい。何処に行ったって、誰に聞いたって、そんな奴ぁ知らないという。俺も出逢えて無い。え? 神は俺の言う事も聞いてくれるんじゃなかったのか? それとも、やっぱり、最後にはこう言うべきなのか? アモンなんて居ない。少なくとも、現代には故人、失礼、故神だ、と? それで持って、今がその最後だ、と?」
「……」
 巫女は、がきりと限界まで発条を廻し終えると、ふぅと一息入れた。僅かに乱れた黄金色の髪を黒い右手で摩りながら、彼女はこう応える。
「私はこうも言った筈です、アモンはこの世界に姿を現す事は、もう二度とあるまい、と。何せ『隠された者』なのですからね。でも……これも前に言いましたが、祈りを聞かない訳では無いのです。ただ現れない、見えないだけで。それは貴方だって感じているじゃありませんか。神の大いなる力を……だというのに何故神の死を疑うのですか?」
「……」
 ジェフリーに返す言葉は無かった。その言葉は概ね彼が思い、考え、感じた通りのものであり、またそうであるものとして彼はこれまでを動いて来たのである。
 真に端的であった、と、とぐろ巻く煙を吐くより他無かった。
 |胸糞悪い(ファッキン・アモン)。
 その胸糞悪さは、しかし日の終わりには大概覚えるものであり、ジェフリーは、寝床としているインへ戻って来る度に、主人のビル・ラザラス及びその娘兼従業員であるレイア・ラザラスに対して、本気とも冗談とも取れるし、また取れない愚痴を吐いたものだ。
「全く、一体全体神様って奴は何処をほっつき歩いてるんだろうね?」
「何処か、だと? そんな事を俺達が解るとでも思ってるのか、若造」
「嗚呼そうだな、そうだろうさビル」
「解ってるなら止めちまえ、くだらない」
「ガーガーガーガー」
 けれど、ワイルドレイヴンを豪快に煽りながらのそれに対し、主人の言葉は大概辛辣で、ジェフリーとしては肩を竦めるしかない。鵞鳥のイジドアも喧しくてしょうがない。
「それは御免って奴だな、おい」
「だったらもう、諦めちゃえばいいのに。ジャッカルに追われている訳でも無し」
 その会話を、イン唯一の常連客と呼ぶべき緑衣の男へ酒を運びつつ聞いているレイアは、最初にちょっとしただけの会話を何故か未だに気にしていて、矢鱈とジャッカルという言葉を使いたがった。まるでそれしか知らないかの様に。
 その時の会話も同じならば、ジェフリーはうんざりした調子に肩を竦め、こう返したものである。それは実際、東方の若き男達が頻繁に使う言葉であり、その精神を良く現しているという意味では、好奇心や気紛れに勝るとも劣らない言葉であった。
「ま、確かにそうだがさ……だが、他に方法は知らんし、それに、」
「それに?」
「イカス……って、思うのさ、なぁ、おい?」
 ジェフリーは、本気とも冗談とも取れる口調でそう言うと、空になったグラスを掲げ、
「だから俺は諦めないんだよ、と、いう所で、もう一杯頼むぜ、レイヴンをな」
 ラザラス父娘は、その態度に顔を見合わせた。レイアの方は純粋に訳が解っていない風に、ビルの方は意味を理解して、その上で呆れている様な表情で。
 イジドアだけは一切変わらぬ様子で、こう鳴き続けていた。
「ガーガーガーガー」
 付け加えるとすれば、インの看板に記載されているあの言葉、諸聖典の一つ『アモンの寵愛を受ける娘の瞳』から取られたあの言葉に、ジェフリーがとうとう気付いた時も、彼が口にしたのは、それと同じ言葉だった。
「なかなかイカした文句じゃないかい」と。
 この時点で、ジェフリーがどの様な意味をこの言葉に込めたか解るであろう。
 なかなかに、イカしている。

 さて、あえて過程を取り出せばこの様なものになるけれど、結果は変わらない。
 何一つとして。何一つとして。何一つとしてだ。
 しかし、そこから何も産まれなかったかどうかは、また別の問題である。
 何の、と言えば、それは視点の問題だろう。確かにこの七日間の行い自体は無意味であったが、それは八日目に、更にその後へと続く。半分は本意、半分は意外な形で。
 ただし、そのどちらにも同じ人間が関わって来る。
 ジェフリー・ノーマッドと殆ど同じものを持った人間が。

 ジェフリーが新都の裏通りを歩いていたのは、既に日の暮れた後の頃で、彼は紙に包んだ豚の腸詰をかぶり付きながら、星も月も無き空の下、宿への岐路を辿っていた。
 八日目の今日も収穫は無かった――この塩気が程好い、なかなかの腸詰を抜かしてだが。
「ジェフリー、ジェフリー・ノーマッドというのはお前か?」
 そう背後から野太い声を掛けられたのは、端から端まで腸詰をかぶり終え、くしゃくしゃと丸めた紙を道端に放り投げた丁度その時の事である。
 あ、と眉間に力を込めつつ、ジェフリーが振り向くと、そこには見覚えのある顔がいた。
 先立つ一週間の何処かで、口の聞き方のなっていなかったものだから、塵山に放り捨ててやった無頼漢だ。目元にはまだ青痣が残っている。そしてまたその周囲に居る連中もそいつの同類、明らかに一市民のそれとは違う空気を纏っていた――見覚えのある輩である、東方においては、砂粒程にも居る様な輩だ。
 ジェフリーは彼等の方へと向き直った。いい加減、腹の虫の収まりが悪くなっていた所である。大方、以前の礼でも言いに来たのだろうとたかを括りつつ、
「そこのあんたは見覚えがあるね……何だい、俺に用でも?」
 取り出した紙巻に火を付け、一服しながら、彼はそう口元を歪めながらに言った。
 けれどその中の一人、灰色の髪に灰色の瞳、灰色の長衣と灰尽くめの格好をした、最も年若き男が口にしたのは、ジェフリーにとって予想外の言葉だった。
「彼等から聞かせて貰った……お前がこの地に降り立ったアモンを探している、と」
 ジェフリーは斜に構えて紫煙を吐いていたけれど、螺旋角の神の名を聞いた時、ぴたとそれを止めた。まさかこんな奴等からその名を耳にするとは思ってもいなかったのだ。
 その反応に眉を潜めると、伸ばすに任せられた波打つ灰髪を風に靡かせ、同じ色合いの瞳を爛々と輝かせながら、男は続ける。口元は崩さず、横線を描いたままに、
「そこで一つだけ聞きたい……お前はもう見つけたのか? 彼の偉大なる神を」
 対するジェフリーは、再び頬を吊り上げた。この者達が何者なのか、直感として理解したのだけれど、あえてそれを無視し、まるで無知かの如く肩を竦ませ、
「はん、アモンと対峙した奴が、どうしてこんな所をほっつき歩いている? もしそれを達成したなら、祈って叶って、俺は今頃|駆動車(モービル)を乗り回してるね……違うかい?」
 そしてそれは赤、情熱的に赤い奴がいい、と彼は思ったが、そこまでは口にしなかった。代わりに肺腑で溜まっていた煙を吐き出し、周囲の空気を甘く汚す。
「……そうか」
 灰髪の男は、その様子をじっと見詰めていた。感情を殆ど込めぬ面構えで。
 暫くして、彼はこう言った。やはり感情を殆ど込めぬ面構えで。
「ならばお前がアモンを見つける前に、ここから出て行って貰いたいのだが、宜しいか?」
「はっ……理由は?」
「応える必要が?」
「無いね、そんなもの」
「だろう? ならば選ぶべきは二つに一つだ。出て行くか、出て行くか」
 その言葉に、やはり同じだな、とジェフリーはほくそ笑む。
 アモン探求などという冗談を本気で行い、その為に手荒な方法であれ行えてしまえ、と同時に腹癒せの為の口実を探す者達――志を共にする仲間が居るのは良い事だ。仮令それが、それ故にこそ、袂を分かつのだとしても、イカした事に変わりは無い。
「じゃ、そこで逆に聞くが……嫌なこった、と返したらどうするんだい? えぇ?」
 彼は吸い終えてない煙草を指で離すと、ぴんと灰髪とその取り巻き――先の無頼漢含め、連中の中心があいつなのはもう明らかだ――へ向けて、弾き飛ばした。
「……」
 その白い小片が赤い軌跡を残して落ち行く様を、灰髪の男はじっと見据えていた。
「そうか……ならば言う事はもう無いな」
 それが石畳の上に舞い降り、たんと極小の火種が四散すると同時に、彼は指を鳴らした。
 合図であった。
 取り巻き達は懐を、或いは腰元を漁るや、そこから螺旋銃(クロックガン)を取り出した。直ぐに安全装置を解除すると、各々好きな構え方で、その先端を、重厚を東方から来た男に向ける。
 片や、ジェフリーは丸腰であった。彼の懐には敵と同じ、螺旋銃(クロックガン)が仕舞われているけれど、彼はそれを抜こうともせず、ただにやにや笑いを唇に貼り付け、佇んでいる。多少吐息が荒くなり、体が小刻みに震えている様にも見えるが、しかし変化はそれだけだ。
 取り巻きの内の何人かは訝しがった。残りの何人かは憤った。ジェフリーが何の抵抗の素振りを見せない事に、もしくは自分達の頭から撃鉄を引いて良いとまだ言われない事に。
 ただ、前者は兎も角、後者は直ぐに解消された。
「やれ」
 すぅと小さく吐息を吸ってから、灰髪の男はそう呟く様に言った。途端、無頼漢達は言われた通りの事をした。謹んで大概は喜んで、何もしていない男へと弾丸を解き放つ。
 アモン機構(クロック)による射出音の後、黒銀に輝く無数の鉄の弾が、ジェフリーに迫る。
 憂さ晴らしの、それが合図であった。

 諸聖典の一つ『メリアムン探求王の鎖骨』に、この様な逸話が記載されている。
 まだ天地創生間も無き頃、マハ・ザ・エルが都市で無く、ただ人々が群れとなって集まる場所であった頃、彼の地に住まう人々は、奇妙な光景を目の当たりにした。
 それは赤い毛並みをした七匹の猿達が、東方から西方に向け、直走るというものである。
 その猿達は、人間達の目から見ても直ぐに解る、異常な熱狂へと浸っていた。ぎゃぁぎゃぁきーきーと甲高く喚きながら、手も駆使した四つん這いの姿勢で猛然と駆けているのだ。全身から汗を垂れ流し、砂埃を上げながら、これが猿かと思える程の速さを持って。
 しかも気が付けば、同じ事をしている猿達が毎日、人々の傍を通り過ぎていた。まるで虚無の海を通り、大地をぐるりと回り続けている、あの紅蓮の太陽の様に。
 あれは何だと人々は怯えたが、巫女マハの手によって、直ぐに謎は解明された。
 曰くあの猿達は、人々と同じアモンの信奉者で、その被創造物達の為に居場所を譲った偉大なる神に想い抱く余り、彼の力の象徴たる太陽を追い求めているのだ、と。
 成る程その証拠として、人々がすっかり寝入った夜中に猿達の声が聞こえた。昼間の時と同じく、ぎゃぁぎゃぁきーきーと甲高く喚くあの声が、その騒々しい足音と共にして。
 七匹の猿達は、半日を駆けて世界を跨いでいたのだ。夜明けと共に登る太陽を待ち構え、少しでも長く光浴びる為に追い掛け続け、また夕暮れによって沈むそれを見送る為に。
 人々は感心し、その猿達を纏めてこう呼んだ。
 『太陽(AM)を頭に掲げて追い求める者』――アメイモス、と。
 そういう事になっている。
 だが、意味は少なからずあった。
 その真偽はどうであれ、カルナック近郊に、アメイモスなる一派が居る事だ。彼等はこの猿達の子孫とも、同胞の末裔とも呼ばれている。自称は前者だが、まぁ後者に違いあるまい。彼等と出逢ったメリアムンも、同様の事を告げたとされる。
 が、まぁ、そこは別にどうでもいい。
 重要なのはアメイモスが、アモン信仰者の中でも相応に血生臭い連中であり、そして彼等の間には、古来より特殊な呼吸法が伝わっているという事である。
 半日を駆けて世界を跨ぐ為、己の発条の限界を引き出す、その為の呼吸法。
 それを会得した者は、体の何処かに文様を刻む慣わしとなっていた。
 時計の文字盤を思わす円形状に並び、赤胴色の毛並みをした、七匹の猿達を――

 熱騒者ジェフリー・ノーマッドが密かに行なっていたのは、この呼吸であった。
 会得したものにしか解らぬ感覚で言えば、彼は第二の太陽を胸中に抱いた。
 ほんの少し変化を与えるだけで直ぐにでも爆発してしまいそうな、危うい太陽だ。
 そして螺旋銃(クロックガン)の銃声と同時の一呼吸により、それは一瞬で爆ぜた。
 体内で渦巻いていた力は解き放たれ、ぶるりとジェフリーの体を動かす。
 彼の中の太陽は、発条は、彼の身を弾丸と化した。
 その速度に置いても、また脅威としても。
 ぎょっと、その表情が驚きに代わるよりも前に、取り巻きの一人が吹っ飛んだ。
 鳩尾に、良い――イカした一撃を見舞われたのだ。
 続いて、その隣の男が脚を払われ、後ろに続く者が中空に浮き上がる。
 螺旋銃(クロックガン)など使うまでも無い。自身が弾丸なら、これ以上の浪費は無用である。
 それに手首も傷める事だし。
 錐揉み状に、ジェフリーからすればゆっくりと倒れて行く相手を見ながら、彼はにやにや笑いを強める。カルナックで修練を積んだ身に取って、この程度物の数にも入らない。
 ただしアルコールと発条列車の振動だけは勘弁、という所だけれど。
 その間にも敵の銃は甲高い咆哮を上げるが、ジェフリーには一発の弾丸も当たらない。高速の挙動に加え、旋回しながらの移動により、それらは空しく彼の影を穿つだけだ。
 刻一刻と味方が減る中、取り巻きの一人が叫んだ。
「こ、こいつ熱騒者(アメイモス)だ、東方の熱騒者(アメイモス)だぞ、」
 そして沈黙する。永久に、では無いが、暫く喋る事は不可能だろう。歯を折られていた。
 しかし他愛も無い、と最後の取り巻きを大地に膝付かせながら、ジェフリーは思った。やはり大都市に居る様な者達と、東方に居た者とでは地力が違うのかと、自惚れた。
 黒い影が視界を躍り、彼の眼前に拳が迫ったのは丁度その時である。
 背を逸らし、汗の粒を浮かせながら、通り過ぎて行く拳をジェフリーは見た。
 そして彼は、その左手の甲に刻まれた、眼見開く青き梟の紋様も見逃さなかった。
 噛み締めた歯の奥から出たのは幾度も耳にした、しかし実物を見るのは初めての名だ。
「『氷静者(アメイミン)』かっ」
 次の瞬間、ジェフリーは脚を救われ、地にその背を密着させた。顔面に降り注がれる靴底を横に転がって避ければ、直ぐに反動を利用して起き上がり、そのまま最初に石畳を踏み締めた脚を軸にしての廻し蹴りを放つ。だがそれは、踵叩き落した方を軸に放たれた灰髪の蹴りと見事にぶつかり合い、絡み合い、二人の身を後方へと飛ばす。
 両脚と片手を地に付け、下がり続ける体を止めながら、ジェフリーは彼を睨んだ。
 まるで合わせ鏡に映る自分の様に、同じく彼を睨む灰髪の男を。

 熱騒者(アメイモス)と氷静者(アメイミン)の関係も、大体その様なものだった。
 氷静者(アメイミン)は、熱騒者(アメイモス)の西方版――という事は、熱騒者(アメイモス)が氷静者(アメイミン)の東方版と言えるのだけれど、つまり行なっている事に違いは無い。『メリアムン探求王の鎖骨』に太陽崇拝と絡んだ逸話があり、それを元にした一派が居るという点においては。違うのは、そこに出て来るのが猿では無く梟で、太陽と共に移動したのでは無く、その場に留まったという所だ。
 巫女マハが語るに曰く、まるで死んだ様に立ち木に止まっているその梟もまた、アモンの信奉者であり、西の彼方へと沈み行く太陽の様子をその瞳に焼き付けているのだという。
 一瞬でも長く、出来るだけ長く、寧ろその一瞬が永遠とも思える程までに。
 それがアメイミンの意味である――『太陽(AM)を頭に掲げて待ち続ける者』。
 諸聖典に拠れば、メリアムンはアモン探求の中、最初にアメイモス一派と出会い、次にアメイミン一派と出逢ったらしいが、その時、感慨深げにこう言ったとされている。
「東と西、生きる地とその法は違えど、望む所は皆同じであるのか」
 因みに現代、双方ともに、その数は少ない。これは、呼吸法の修練が困難を伴うものもあるけれど、百年程前にその使い手が激減した事が一番の要因である。
 何があったのか?
 東西両陣の者達をかき集めての一大紛争が起きたのである。
 両者に付き纏う血生臭さは、専ら鏡の向こう側へと流れていた。
 その理由は、大体この様なものである。
「望む所は同じだとしても、その行いが気に入らない。真に太陽を掲げるのは我等である」
 そして訪れた結末は――マハ・ザ・エル図書館にでも行って調べて貰いたい。
 なかなかイカス、とジェフリー・ノーマッドなら口にする結末なのは確かだ。
 そして今、それを再現する様に彼と灰髪の男は睨み合っている。
 彼等は互いに息を切らし、汗を滴らせていた。どちらの胸中からも、太陽が去っていってしまったのだ。後には抗い切れない疲労だけが残されている。そして苦痛。限界を超えて廻され、解き放たれた発条が、悲鳴を上げているのである。反動として。だがそんなもの、二人とも解ってやっている事だ。今更であるし、更には止める気も無い。
 彼等は一度小さく深呼吸してから、奇妙な律動を持つ呼吸を開始した。取り込まれる大気は渦を巻き、か弱き人を動かす仮初の原動力を築き上げて行く。その様は、どちらも全く同じだった。まるで数百年前の再演をしようとしているかの如く。今、ここで。
 それは、しかし最後まで到達する事は無かった。
「ジョーナっ」
 表通りに至る道から、行き成り野太い声が響き渡る。ジェフリー、そしてジョーナ――この名は諸聖典の一つ『螺旋創世記』にも登場する、由緒正しく縁起悪い名だ、災厄に見舞われた男の――は、訝しがる様に振り向き、それから灰髪の方が顔色を変えた。
 そこに立っていたのは、恰幅の良い老人と、そしてまたしても取り巻き達だった。ただ、今度の彼等は、そこいらで伸びている連中とは違って、中心となる人物に比例する様に、より立派で、また腕っ節も強そうである。その護衛に囲まれた男は、糊の利いた灰色のフロックコートを着ており、また今は帽子を脱いでいる為、波打つ白髪が良く見えた。
 彼は猛禽を思わす鋭く青い瞳で、ジョーナを睨みながら言った。
「銃声を耳にしたものだから、もしやと思えば……やはりお前だったか、ジョーナ。私は確かお前に伝えた筈だったがな、くだらぬ遊戯も大概にしろ、と」
「と……し、しかしミスタ・グレイ。俺はっ」
 青年は灰髪を揺らしつつ声を荒らげようとしたが、しかし直ぐに口を噤んだ。それからジェフリーの方に未練がましく横目を向けるや、舌打ちと共にその場を去って行く。
 残された男は、突然の終了に付いて行く事も出来ず、その背中を目で追った。
 と、そんなジェフリーの前に、グレイが立ち塞がった。
「やぁ若造(ヤンキー)。君も災難だったな、え? 私の部下の非礼を許してくれ。血気盛んな連中ばかりなんだ……何処か怪我か痛めた所は?」
「あ、あぁ勿論、俺は寛容なんだ……怪我は、するよりもさせる方だったしな」
 唐突に、しかも馴れ馴れしく語り掛けられた為に、反応が遅れてしまったジェフリーだったけれど、男の言葉に彼は直ぐ笑みを貼り付けるや、目で倒れているジョーナの取り巻き達を示した。彼等は今、グレイの取り巻き達によって介抱されている。容体は決して良くは無いけれど、ジェフリーが加減してやった――俊足漢の名は飾りで無いのである。
 彼自身ここに来て、その名を少し忘れかけていたのは内緒だ。
 グレイはちらと塵でも見る様に視線を向けてから、すっくと首を竦め、
「何、気にする事は無い。銃と拳では比べくも無いからな」
 それから、ぽんとジェフリーの肩を掴み、
「だから君が無事で何よりだが、それ以上に人死にを出さなかったのは正解だ。もし、万が一にもその様な光景が私の前で行なわれたならば、私は君を処罰せねばならないからな」
「ん、そう、そうそう、あんたの言う通りだね……じゃ帰っていいかい?」
 口元を吊り上げる。その視線が一瞬自身の右手に向けられた事に気付かず、汗滴らせてジェフリーも笑い返した。実際、体はしんどかった。震えも起こり始め、端的にやばい。
 その様子に笑みを深めながら、グレイは彼の肩をぽんぽんと叩き、
「それこそ勿論だ。寝床に帰り、しっかりと養生しておくれ」
 離し、自身の取り巻き達に囲まれながら、去り行こうとする。
 その際に、震える右手を二、三度振り振り、こんな言葉を言い残して。
「また困った事があれば言ってくれ市民よ、このマハ・ザ・エル現市長へ、な」

 後ほど直ぐに、歪曲病が起こす新手の症状か、浅薄にして深長なるただの空耳か、或いはあちらさんの勝手な酔狂と思っていた言葉は、紛れも無い事実であった事が判明した。
「グレイ、か……嗚呼、そいつなら確かにここの市長だ」
「おいおい、あんなおっさんがそうなのかい。世も末って感じだぜ」
 ビル・ラザラスに尋ねたジェフリー・ノーマッドは、そう呟きつつ、カウンターへと突っ伏す。とてもでは無いが、市長には見えなかった。あんな粗野で乱暴な者達を部下としている市長が、一体何処に居るというのだろう。精々が、裏の市長という所だ。
 ただその印象に狂いは無かったらしい。ビルはワイルドレイヴンをグラスに注ぎながら、
「名前通りに灰色の男で通っているな。確かにその責務も果たしているが、それ以外の事もこなしている……が、成果はあるから人気はなかなかでね、あれでこの十五年間ずっと市長だ。お陰で新都は大分繁栄している」
「へぇ……旧都の方は?」
「見ての有様だ、と……」
 ジェフリーの軽口に応えつつ、カウンターの下より一冊の本を差し出す。
「これは?」
「奴の自伝だ。読んで見るといい、もしかしたらアモンに近づけるかもしれないぞ」
「あいつは知らなさそうだったがねぇ」
 ジェフリーはその豪華な革張りの書を手に取り、だが直ぐに放した。
「どうした、読まないのか?」
「止めとく。表紙とタイトル見た瞬間、読まなくてもいいって解ったわ」
「だろうな」
「あんた解ってて出しただろ」
「どうだろうな」
 革張りの表紙には、白日の下にある荒野と蒼き瞳を真っ直ぐに、登り行く太陽を見据える今よりも若いあの男の肖像が描かれており、その上部にはこの様な題が付けられていた。
 『螺旋角の神に選ばれた男――グレイ・ネヴィンズ』、と。
 真偽以前の問題だ。自称する輩にろくなのはいない。
 胸糞悪くは無いが、胡散臭い。
 ジェフリーは再びカウンターに突っ伏すと、やれやれと溜息を零した。先も含め、結局ここまで何の進展も無いのである。こちらの方が胸糞を悪くしてくれる。
 少なくとも、今の彼に取ってはそうとしか思えない。
 そこで、ふと顔を上げると、イジドアと目が合った。最初に見た時と同じ、不動の姿勢を保つビルの忠実な鵞鳥は、憂鬱げなジェフリーを見据えながら甲高くこう鳴き叫んだ。
「ガーガーガーガー」
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