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4.大いなる神の発条遊戯

「……われわれには、あなたがた人類に隠しておかねばならないことが多数あった……だからこそ、われわれが強いられたことのために、われわれを非難はしないでほしい。これだけは忘れないでいただきたい――われわれは、つねに、地球人をうらやんできたのだ」
 アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』
11:45

 こうして時計の針は廻され、漸くどうにか舞台は整えられた――これまでの彼是はその為の準備に過ぎず、今に至ってはもう何もかも重要では無い。全て忘れてくれたって良いだろう、何者も何事も、まるで最初から存在しなかったかの様に、だ。
 少なくとも、その二人舞台の主役ジェフリー・ノーマッドはそうした。
 彼に取って、マハ・ザ・エルに来てからの一切は無駄であり、唾棄すべきものとなっていた。重要なのはもう一人の主役たるアモンであり、そして要らないものが根こそぎ無くなった末にぼやける事も無く浮き彫りとなった、彼を突き動かす動機だけである。
 それは誰一人として逃れようの無いものであり、ジェフリーが幼い頃から慣れて――決して親しみはせず――来たものであり、彼よりも早くにその肉親達を捕えるや、彼等に容赦の無い苦しみと醜さを押し付けたものであり、それ故に彼が忌避したものであり、逃避したものであり、冗句としたものであり、親しめる様、寧ろ齎そうとしたものであり、そうやって克服したと錯覚したものであり、病の名の下に再び鎌首をもたげたものであり、また逃避したものであり、そして今度こそ乗り越えられると考えたものである。
 人はそれを『死』と呼んでいた。
 人間の、生命の発条が途切れた、永遠の終わり、と。
 だが決してそうで無い事を、観測された事実としてジェフリーは知った。
 何せ彼は逢ったのである。
 再び発条の巻かれた者に、神によって死を取り除かれた者に。
 疑問も疲労も何もかも捨て去り、その元へ行こうとするのは、当然では無いか。
 今、ジェフリーは疾駆していた。人気の乏しい深夜の首都を、最早無理と思われた熱騒者(アメイモス)の力も全開に、石畳を踏み締めながら、新都から旧都に向けて我すら忘れた様に。
 だから横道より突如現れた発条駆動車(クロックモービル)に跳ねられた時も、彼は前進を止めなかった。中空に浮かび上がる中、乱れた呼吸を無理矢理戻しつつ身を捻れば、見事に着地して再び脚を動かし始める――ただし、非難だけはしておいた。相手はまさか人を轢いたとは思っていないだろうし、その声が届く事もあるまいが、自身とアモンの間を邪魔した有象無象の一つとして、口汚く罵らずには居られなかったのである。
 因みに言って置くと、それを運転していたのはジェフリーと同年齢の男であり、若気の至りだろう、夜更けの暴走を繰り広げるその駆動車(モービル)は赤、情熱的に赤いものだった。
 そしてまた弾丸の如く中心へ向けて直走る――先の決闘に止めを刺した一撃の様に――ジェフリーは、あの緑衣を纏った男の傍を通ったのにも気付かなかった。
 それはラザラス父子のインが近くの通りであり、彼の常連客は汚らしい道端に座り込み、ゼンマイシダの描かれた青緑のボトルを口元に傾けている。その中身が空なのは明白で、それでも尚、傾けるのを止めぬ男の顔は確実に只者だった――ある意味、と付ければ、まぁ確かに、ならぬ、と言って良いだろうけれど、それは表現の問題に過ぎない。
 ジェフリーが彼に気付かなかったのは、幸いだったろう。もし気付いてしまえば、彼はきっと脚を止めてしまったに違いない。しかし、実際の所そうはならず、その身に活を与える太陽によって留まる所を知らぬジェフリーは、一気に通りを駆け抜けた。

 そうして遂に、あの神堂へと辿り着く。
 深夜十二時過ぎともなれば、とっくに閉ざされていたとしても可笑しくはなかったが、回転扉は簡単にジェフリーをその中に招き入れた。尤も、仮令招き入れられなかったのだとしても、彼は入ったに違いない。持てる限りの、あらゆる手段を用いて。
 しかして、ジェフリーは拒絶される事無く、神堂へと招き入れられた。
 この世界の中心の、本当の芯に。アモンへと繋がる、螺旋の門に。
「今宵貴方がここを訪れる……そんな予感がしておりました」
 始まりの女にして最初に遣われた巫女マハの末裔、螺鈿子(モザイク)の巫女によって。
 ジェフリーは神堂に入るや力を解き、滑り続ける体を止める様、踵に力を掛けながら、何とか停止した所で、巫女ドロシー・ダルウィッシュと対峙する。
 彼女は以前と変わらない――この言葉の、如何に信用ならぬ事か――格好で、やはり変わらぬままに鎮座しているアモン像の前に佇んでいた。
「よぉ……螺鈿子(モザイク)、予感通り、来てやった、ぞ……」
 限界を越えに越えたが故、今にもまた跳ね出しそうな汗塗れの体を抑えて、ジェフリーは言った。にぃと歯を見せて笑いはするけれど、眼は笑っていない。レイア・ラザラスの言葉、その他二人の反応を垣間見れば、この女も人をおちょくってくれた訳である。
 心の底から|胸糞悪い(ファッキン・アモン)。
「……すっかり騙された……最初から全部、解ってたんだ、な……」
 口元は歪めたままに、ジェフリーは歯を軋ませた。
 と、ドロシーはゆっくりと彼の方に歩み寄って、
「えぇ……何せ『隠された者』に遣えております故……ですが、貴方も理解する筈ですよ」
「……何の、事だ……」
「アモンに逢えば……何故あの螺旋角の神が隠れ潜んでいるか、に……」
 訝しがる男の前に立つや、彼女はその黒く染まった右手で、あの分厚い眼鏡を外す。
 その下では赤と青の瞳が光輝いていた――アモンの寵愛を受ける娘の瞳が。
「どうせ聞くとは思ってませんけれど……それでもお逢いになられますか?」
 そうして眼鏡を放り捨てつつ、ドロシーはその白と黒の両手を伸ばして、そっとジェフリーの頬を挟むと、静かに澄んだ視線と共にそう言った。柔らかくも、ひやりとした冷たい感触に、彼は多少怖気づきながら、だが、しっかりとその首を縦に振るい、
「……当たり前、だ……ここまで来て、もう、後には引けない……」
「……解りました」
 ドロシーも頷き返すと、その両手をジェフリーの胸元へと写す。それから白い左手でそっと支えつつ、己から見て時計回りに黒の右手で三重螺旋を描き、彼女はこう唱えた。
「哀れなる神と子等が再び巡り合える事を」

 そして次の瞬間には、ジェフリー・ノーマッドの魂は肉体を離れていた。
 それは奇妙な浮遊感に突き動かされ、上へ、上へと昇って行く。
 神堂を通り抜け、マハ・ザ・エルを眼下に雲間を渡り、そして世界の果てを越えた。
 気が付くとジェフリーは、仄暗い虚空の中に浮かんでいる。
 いや虚空と言っても、何も無い訳では無い。黒い空間の端々には黒く鈍く輝く星々の連なりが、また眩しげな光放つ月の姿が垣間見えた。余程近くまで来た為だろう、地上で見るよりもそれらは遥かに大きく、また雲も無い為、はっきりと見る事が出来る。
 しかし、肝心要のアモンは、何処にも居なかった。
 本能的に漂い歩きながら、ジェフリーは呻いた。
 一体胸糞悪き彼の神は、何処に隠れ潜んでいるのか、と。
 その時彼は、影に満ちたこの場に、何か、巨大な何か動く気配を感じた。はっとして顔を挙げ、その正体に気付いたジェフリーは、危うく発狂しそうになった――闇の中で何かが動いたのでは無い、闇そのものが何かなのだという事に気付いて。
 それは、隠れ潜んでなど居なかった。人の身と比べれば余りに大き過ぎた為、その一部、影としてでしか解らなかっただけであり、実際は最初からずっとそこに居たのである。
 ジェフリーは意識の内で生唾を飲み込むと、震える声でそれの名を呟く。
「……アモン……」
 ――嗚呼、また世界の内に幸福を見出せぬ子が一人……。
 と、その呟きに反応する様に、彼の脳裏に声が響いた。虚ろで、定まりの無い、低音から高音へと順繰りに何処までも巡って行く奇妙な声が。ジェフリーは、置いてきぼりにした心臓を鷲掴みにされた思いで、声の出所を探った。
「……アモン……あんたが……あの……」
 ――良く私の元に辿り着いたな、我が子よ……歓迎しよう……。
 視線は上へ、上へと何処までも向かい、やがて一つの点で止まる。巨大と実感しても尚、その輪郭の掴めなかった存在の全体像を、彼は始めて捉えた――先とは別の戦慄と共に。
 虚空に影を投げ掛ける彼の者は、その大きさを除けば――かつてジェフリーが忌み嫌った祖母や祖父の様な――性別不詳の、薄汚れた老人であった。ドロシー・ダルウィッシュの神堂にあった神像とは似ても似つかぬもので、ただ色合いだけが多少面影を残している――骨と皮ばかりの痩せ細った墨色の肌、無毛の頭部より伸びる、くすんだ赤と淀んだ青の螺子くれた角――眼球は既に無く、眼窩だけがぽっかりと何よりも深い闇を称えており、その下で開かれた口の中に歯は少なくて、あっても黄ばんだ、汚らしいものに過ぎず、その口自体も、今は何の言葉も紡ぐ事無ければ、あの黒い雨と同じ、言い様の無い匂いに満ちた暴風の如き凄まじい吐息を吐き出し続けるだけの、萎んだ穴と化している。
 これが、これこそが、螺旋なる世界を創造し、メリアムン探求王が終生追い求め、巫女マハに寵愛を、聖者(プリースト)ジョゼフ・リーに啓蒙を齎し、暗黒王ネフレンカを魅入らせた神、『祈りを聞く者』『生命の息』『自らの時を完了する者』『計り知れぬ者』『悪意司る者』『焔纏う者』『その姿、神秘なる者』『枝葉を伸ばす者』『底の知れぬ者』『詩を歌う者』『自らを生む永遠の神』『太陽の神』『利己的なる者』そして『隠された者』――『多くの名を持つ者』と呼ばれながら、変わる事無く尊敬され、信奉されて来たアモンの姿であった。
 |何という事だろう(オー・マイ・アモン)……。
 その姿が無数にあるとは当然知っていたが、しかしそれでも尚、余りに予想外のその姿にジェフリーは愕然とし、滑稽な調子で彼はこう尋ねた。
「あ……あんたが、あんたが……神……なのか……? 螺旋角、の……?」
 ――そうだ、我が子よ。私はアモン、幾つもの名と姿を持つ、この世全ての創造主……。
 しかしアモンは特に気を煩わせた節も無く、小さな、それに取っては砂粒程に小さな人間の青年へと光無き視線を向けつつ、奇妙ではあるが先と変化の無い声音で返す。
「だ、だが……あんた、あんたのその姿は、まるで、まるで……」
 だからこそ、ジェフリーは言ってしまった。己の中の何処からそんな言葉が出て来たのかまるで解らない、自分自身聞いた事も無く、何を意味するのかも知らぬその言葉を。
「まるで……そうだ、あんたそれじゃ、まるで悪魔(デーモン)みたいじゃないか……」
 それに返って来たのは先よりもずっと酷い螺旋カノンの狂った笑い声であり、ジェフリーは昏倒し掛けた。同時に言葉紡がれていなければ、間違い無く、だったろう。
 ――悪魔(デーモン)、悪魔(デーモン)とは……なかなか言うじゃないか、我が子よ……巣晴らしい……。
 だが、その笑い声も直ぐに消え、代わりに耳障りな咳をアモンはし始める。手で押さえる暇も無く、口から吐き出されたのは、どろりとした黒い液体であり、それが滝となって降って来た為、ジェフリーは慌てて脇へと飛び退いた。その墜ち行く先を目で追えば、遥か彼方にテーブル状の世界が垣間見える――ここからでは掌に収まる程しかない世界が、ジェフリー自身しかと見た事は無い、無限に広がる虚無の海に浮かんでいる。
 脂汗が滴るのを感じながら、彼が視線を戻すと、アモンは唇を拭いながら、首を傾け、その頭上を見詰めている。たったそれだけの挙動で既に折れそうになる心をどうにか支えつつ、ジェフリーも首を上げた。無数の星座、そして一つの月が浮かぶ頭上を。
 ――いやいや……全く、素晴らしい……私はそんなものを造った覚えは無いのに……ここに来た我が子等の皆が私をそう呼ぶ……まるで外の世界の者達の様に……。
「……外の、世界……だ?」
 そうして紡がれた、拭い切れない苦渋と自嘲を秘めた言葉の中の矛盾に、ジェフリーははっと我を取り戻した。外の世界とは一体どういう事だ。ここは世界の外の筈で、だとすれば、その更に外側には虚無以外の何が存在しているというのか。
 ジェフリーは疑問と共にアモンを見詰め、自身の似姿として人間を想像したとは到底思えぬ醜悪な容貌に、慌てて視線を舞い戻し――そこで、はたと気付く。今まで何だか知れぬ、星々の連なりと思っていた星座が、良く良くと目を凝らせば何か巨大なる者達の骨である事に。それらは長い歳月の為に朽ち果てて久しく、石の様な物体と化して、黒光りしている――人らしき骨格に幾つもの顔、正確には顔の骨が垣間見えた。羊、狼、渡り鴉、鵞鳥、梟、猿、蛇などからゼンマイシダと無数にある顔は、しかし一つだけ一貫しており、それらは皆、頭部に螺旋角を宿していた――アモンと同じ、あの螺旋角を。
 そしてもう一つ、それらの骨を黒く鈍く光らせている唯一の光源は月であるけれど、常識を金繰り捨てて凝視すれば、それは太陽の様な、天を転がる球体では無かった。孔だったのである。虚空の中にぽっかりと、丁度アモンの眼窩の様にそれは開かれ、向こうから青白い光を溢れ出させている。その先には薄っすらと、不吉な――そういう事になっている――十字架状の文様が見出される――しかし、何という光だろう。何物にも遮られる事無く、こうして至近より見れば、その光の神々しさ、力強さがジェフリーにも良く理解出来た。これと比べれば、黄銅色の太陽の光など酷い紛い物にしか感じられず――直感が雷の様に彼を襲った。何故そう思ったのかは解らない。月光が啓蒙でも齎したのか。しかし彼は突如として理解した、してしまったのである。
 |何という事だろう(オー・マイ・アモン)……。
「……あんた……まさか……」
 その事実に思い至ったジェフリーは、震え出す体を抑えられなかった。ぱくぱくと勝手に開閉し始める口も止められず、無言の内に沈んだアモンを見詰める事しか出来ない。
 彼の脳裏に浮かび上がるのは、かつて聞いた事のある西方の伝承だ。他の神々と戦い、勝利したアモンが、この世界を創造する権利を手にしたのだ、と。氷静者(アメイミン)の様な者が居ないどころか、熱騒者(アメイモス)なんて者が居る様な残りの地方では、それすら語られる事無く、アモンの偉大さが述べられているのみなのに――だが、それは嘘だ。間違いである。この場に散らばる眷属達の屍が、世界の外の外から差し込む光が、嫌が応も無く示している――戦はあったのだ。だが、勝ったのはアモンでは無い。勝ったのは、本当に勝ったのは――
 そういう事だったのだ。
「……あんたは……本当は……神じゃない、んだな……?」
 ――……。
 ぞっとする様な沈黙が響いた。
「……あんた……あんたは悪魔(デーモン)、って呼ばれている奴で……それじゃここ、は……」
 継いで紡がれたジェフリーの呻く様な声に、アモンも漸くと唇を開いた。
 ――そうだ……そうだよ、そうだとも我が子よ……私は悪魔……悪魔アモン……そしてここは箱庭……七十一に及ぶ我が同胞と共に地の底に封ぜられた私が、ほんの僅かな、一握りの空間を利用して造った、私の箱庭……愛しい愛しい、慰みの場所……だ……。
 そうして神は虚ろな眼を細めると、再びあの耳障りな咳を上げる。
 その様の、何と哀れで、悲しげな事だろう。今度は間に合った掌の隙間を通って垂れる黒い液体――それがアモンの血であるのは最早明らかである――が、また世界へ向けて墜ちて行くのを眺めながら、ジェフリーはその顔を大いに顰めた。
 更に彼は、自分が、もう祈り聞かせ、それが叶えられるのを望んではいない事に気が付いた――一体誰が望めるというのか、こんな老いた、醜い生き物に? まるで末期の人間が如く、病んだ息を吐き続けている――きっとそうだと、ジェフリーはまた理解した。アモンは、この偽りの神は老い、そして病んでいるのだ。かつて、どうであったかは知らないけれど、しかし少なくとも今はもう、どうしようも無い状態に陥っている――世界の外の、この虚空にて、隠れ潜まなければならない程に。その異変が黒い雨となってマハ・ザ・エルの地に降り注ぎ、歪曲病として人々を死に至らしめているのである。
 そういう事だったのだ。
 ジェフリーは呆然とアモンを見詰めた。何も言えなかったし、また出来なかった。救いを求めてここまで来たというのに、求める相手が救いを必要として、しかもそこに至る為の元凶であったとは、笑い話にもならない。
 彼は唇を噛み、そっと俯くと、その視界からアモンを追い出そうと努力した。この空間において、それは到底不可能な事だったけれど、しかしこれ以上は耐えられなかったのである。真実を直視し続けねばならない事に。
 アモン探求を下らぬ事と断じた者達の声が、その脳裏に木霊する。
 ――やはり失望させた様だね……すまないな、我が子よ……すまない……だが……。
 その為に、ジェフリーは見逃してしまった。アモンの次の挙動を、謝罪の文句を繰り返しながらゆっくりと身を乗り出し、枯れ木の様な両手を彼の方へ向け始めた、その瞬間を。
 影が動く気配にジェフリーははっと顔を上げると、アモンは大仰な動作で頭を横に奮っていて、その唇を気味の悪い三日月形に変容させながら、こう語り掛けて来た。
 ――……だが私はお前の祈りを知っているよ、我が子よ……お前は苦しんでいるね……私の乱れが、お前の乱れを齎したのだ……すまない……すまない……許してくれ、とは言わないよ……代わりにお前の苦しみを取り除こう……お前の祈りを聞き届けよう……。
 そこまで言うや、アモンは更に両腕を伸ばし始める。骨を鳴らしながらのその様子に、ジェフリーはぎょっとし、反射的に叫び返していた。
「何を……いいっ、いいんだっ、もういいアモンっ、俺はそんな事もう望んじゃいないっ」
 ――嗚呼……確かに私は悪魔だ……そう呼ばれている……だが、それでも尚、私はお前達の主なのだ……私が世界を創り、また、お前達を創ったのだ……かつて私が居た所の地上を模して……泥にも満たぬ砂の一粒一粒から……このいじけた地の底で……同胞や盟主(ルシファー)には、無益な事と言われたけれど……それでも私はそこに慰みを見出した……そうだ……お前……まだ名も知らぬ人間の一人……悠久の時の苦痛を癒してくれた、私の創造物よ……これは……これだけは言わせてくれ……。
 けれどアモンは、もう聞く耳を持っていなかった。半ばうわ言の、半ば独り言の様な言葉を繰り返しながら、それはジェフリーへと迫って来る。彼は後ずさり、逃げ出そうとしたが、それこそ無駄だった。その身の何千倍何万倍何億倍もの巨体を誇るアモンからどうやって逃げろと言うのか――アモン自身ですら、決して逃げられはしないというのに。
 彼の神は愚かであると称した者の声が、その脳裏に木霊する。
 それでも尚、ジェフリーは逃れようと走り、だが結局、幾許も行かぬ所で、捕えられてしまった。そっと優しく包み込む様に、しかし比べ物にもならぬ彼我の差の為、威圧感しか与えない――それは、自分の外見、少なくとも今の自分の外見が、人間の身にどう映るのか、本当に知っているのだろうか――両の手の中で、彼はアモンを見る。
 それは光無き虚ろな孔から黒い涙を流しながら、ジェフリーの元に顔を寄せると、もう一度唇に三日月状の笑みを浮かべてから、こう彼に言った。
 ――私は愛している……本当だ、私はお前を、お前達を愛しているよ……。
 それからアモンは、ジェフリーの静止などまるで無視して、歯無き口元からふぅと息吹を吐き出す。この場にあっては絶えて久しかった、螺旋なる生命の息吹を。
 ジェフリーはそれを全身に浴び、己が内にある発条が再び巻かれて行くのを、偽りの太陽――本物と思っていた太陽自体がそもそも偽りだったが――とは比べ物にならぬ力が溢れるのを感じながら、悲痛な叫び声を上げた――彼はまた同時に感じていたのである。受け止めきれぬその息吹が、余波となって広がって行くのを、乱れ正したそれ自体が、新たな乱れの元となるのを、それによって彼以外の、何人もの人間が、死に瀕する事となるのを。
 そしてまた、苦しみ喘ぐその人々が、天に両腕を掲げて何と叫ぶかと言う事も、だ。
 それは即ち、この様なものだった。
 神よ、我等を救い給え、と。
 だが、その時神はもう倒れ付していて、こう言い返すより他無いのである。
 すまない人間達よ。私はもうお前達の祈りを聞き届けてやれはしないんだ――

「苦しみ喘ぐ人々が祈るならば、神は彼等を救うでしょう」
 渦巻く奔流に意識飲み込まれる刹那、ジェフリーはふと声を聞いた気がした。
 それはドロシーのものであり、また彼女がかつて言った言葉でもあった。
「ですが……」
 しかし、その言葉は続きがあった。彼の知らない、彼が聞かなかった続きが。
 含みを持った沈黙が一拍程続いた後で、ドロシーの声はこうジェフリーの耳に届いた。

「苦しみ喘ぐ神を誰も救えはしないのに、誰が本当に救われるというのでしょうか?」
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