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2010.02.13 読書感想
 言い訳がましくも益体の無い話を一つ。

 見ての通り、自分はこのBlogで、本の事については殆ど取り上げていない。映画に関しては見る度にその記事を書き、偉そうに批評家面した感想を書いているにも関わらず、である。

 それが何故かといと、まぁ理由は幾つかあるのだが、一言で言ってしまえば、解らないのだ。この本はこの読み方でいいのか、この読み方で読んで、仮に面白かったとしても、それが作者の書きたかったものなのか、正しかったのか否かが解らない。もしかしたら全部丸ごと最初の前提からして間違っているかもしれないと思うと、迂闊に手を出せないのである。それだけの知識も無い。

 だから自分が特定の本について感想を述べると言う場合は、余程であるか、仕方の無い場合であり、後者の場合は有体に要素の善し悪しを挙げてから何がどう面白かったかどうかを単に述べるだけか、或いは剥き出しの原石そのままの思考を吐露する、いや吐露する事で研磨しようという、感想以前のものになるかのどちらかである。この後者の後者によって、甚だ不快な目に合わせてしまった方々は実に申し訳無く思う。まぁ、一部に関しては、それのそれ以前な独断と偏見があった事は否定出来ないが。

 さて、ならば映画なんかは良いのか、というとこれが良いのである。何せ、これは複合要素の作品だから。映像、音楽、脚本、演出、それから役者に監督等と、無数の要素が絡み合って出来ている映画というものは、それらを追っている内に確信(否誤字)へと至れる、とどのつまりは解り易いのだね。まだ読書というものに比べれば、遥かに。たった数万文字の記号の羅列から物事を正しく想像する事から始まる読書とは、その前提条件からして違うのだ。

 勿論その為に本を読む事は、空想の沃野は無限とも言える広がりを見せ、我々をここでは無い何処か、或いは何処かであるここへと我々を誘ってくれる。そこは歴史ある形式であり、流石と言わざるを得まいが、と同時に、だからこそ、容易に手出し出来ないのもまた確かな事で。

 だからこそ読書によって得た何かは、ぐっと胸に堪えたまま、それを真に糧と出来るその日まで取っておくべきであると、自分は考える。良く小中高生が夏休みの宿題として読書感想文を行なったりするけれど、これ程無意味な事も無いのではないか。たかだか十数年、読んだ本の数も両手で数えられる程度の者に、何を語れる事があるというのだろう。その倍を生きて尚、ろくに語る事が出来ないのだというのに(小学二年の頃、帰りの会で読み聞かせた本の感想を強制させ、本人判断でまともな事を言えなければ帰らせないという事をした女教師がいたが、彼奴はまだ元気であろうか)。何とも情けない事ではあるがね。

 と、ここまでが所謂一つの前口上として、先程フィリップ・K・ディックの『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』を読み終えた。上遠野がディック作品の中で一番好きと言っていたとかで、読んで見たのだが、成る程、実に歪曲王だった。まぁ逆なのだがね。そして実に面白かったのだけれど、それを上手く言う事は自分じゃとても出来そうにないので、ヴォネガットがティーンエイジャーのファンにたった数文字で己が作品の本質をずば抜かれ、何もこんな一杯作品を書く必要は無かったと(彼流に冗談めかして)書き記した逸話宜しく、またすこぶる納得し、首肯し、唸り、そうそうそうだよそういう事だよと呻いたものとして、作品冒頭に掲げられた一説を引用するに留めたい。

 これがそれだ。うっぉーん。

 つまりこうなんだ結局。人間が塵から作られたことを、諸君はよく考えてみなくちゃいかん。たしかに、元がこれではたかが知れとるし、それを忘れるべきじゃない。しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、人間はまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、われわれがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切りぬけられるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?

  ――パーキー・パット・レイアウト社で各部下の流行予測コンサルタントに配布された録音メモの一部。レオ・ビュレロが、火星から帰った直後に口述したもの。
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