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「……これは聞いた話ですが、かつてある東洋の君主は、側近の賢者たちに、すべての時代と状況に真実かつ適切にあてはまるひとことを案出するように、と命じました。賢者たちはこんな言葉を君主に捧げました―― 『そしてこれもまた過ぎ去るであろう』……」

 というかつての大統領リンカーンが語ったとされる話を聞いたのは我が魂の師匠カート・ヴォネガットの『タイムクエイク』の中でだったけれど、今朝(もといついさっき)ニュース番組をザッピングしながら薄ら寒い程度の関心しか抱けない自分に気付き、軽い慄然を覚えると共に、この言葉を思い出していた。

 これは直後に、『困難な時代であれば慰みになる言葉だ』と続いた後、『しかしそれが真実で無いと信じよう』となって、現代に生きる人々への友愛と関心を呼び掛けるのだが、しかし哀しいかな嬉しいかな、気分として何とも相応しい言葉である。勿論今は困難な時代かもしれないし、若干意味合いが違っているとも思うのだが、“けれど、だからこそ”(全くの余談:基本曲のみで音楽を評価する人間でありながら、実質的にこのフレーズのみによって、同人バンド:少女病の『refrain』評価がストップ高である。丁度トーマス・マンが伝える所の“にも関わらず”と同じ塩梅で)私の曼荼羅にしっくり収まる台詞だ。

 繰り返してみましょうか? 『そしてこれもまた過ぎ去るであろう』

 まぁ、情報媒体を通して世界を眺め渡すだけの無能な傍観者を現代社会の人間に見出すだなんて児戯は、それこそこの記事のタイトル元であるパトレイバー劇場版二作目、二十年以上も前から、或いはもっと昔から言われている事だし、目新しさも何も無いだろう。

 けれど、だからこそ、或いは、にも関わらず、今の時代なのでその児戯が通用するのだと感じてしまうのは、自分もまた当事者である筈の現代社会の人間であるが故の自戒なのだと思う。全く安っぽい自戒だと鼻で笑ってしまうが、何、たまに早く起きたのだから、こういうのも良いだろう。

 話を飛躍させて宜しいですか? 北欧でも希臘でもケルトでも埃及でも日本でも、神々は人間と同じ様に死ぬ存在なのだ。無論の事、その死はまた我々のものとは幾分か違うものだけれど、根本的には相違無い。そして彼の者、全知全能である彼の者ですら死んでしまう事は、二十世紀の頭に叫ばれた――それは迫真の演技による死んだふりかもしれないが、だが無能な傍観者がどうやって見極めるのだ? それが死んだふりなのか、或いは本当に死んでいるか、と――我々が逃れ得る道理が何処にある。

 ……だがまぁ、こんな戯言も、所詮過ぎ去る事であるのは間違いなく。

 とりあえず語りたい事は語ったので、そろそろ大学へ行く事にします。今日はバイトも無いので、日がな一日、プレインズウォーカーか、時代錯誤の哲学者(この手の話題を出す度にギリシャへ帰れと言われる。帰れるものなら帰りたい)か、はたまた貯古齢糖は明治産まれの似非文学青年か、まぁ大体そんな感じの過ぎ去り方をしたいと思う――そういえば、問題児/Disruptive Studentこと鏡写しの青使い御用達テフェリーさんも言っていたっけ。子供の頃は神になれると思っていたが、今は違うと解っている、と。
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