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 かつてチャーリー・ゴードンは、我々にこう示してくれた。叡智とは、必ずしも人を幸福にするものではない、と。カインの末裔が、長い歴史の中で忘れ去ってしまった事実を、そもそも知恵の木の実は食べて良いものでは無かったのだという事実を、彼は思い出させてくれたのである。涙と、そして花束と共に。

 現代に置いて、この事実は彼の作品が発表された当時よりも、余程浸透している事であろう。それはある意味では化けの皮が剥がれた事でもある――頭蓋骨の中にぎっしり詰まったものが、その持主の幸不幸に関わり合いが無いとすれば、社会的通念によって隔てられている正気と狂気に皮一枚分もの差異は無く、最早人々はそれを理由に迫害する事も、迫害される事も無い……無論表向きは、だが裏での所作が発覚した日には、それこそ非難を向けられるのは迫害者であり、かつての立場は逆転する。丁度網膜に宿った幻影が、現実に触れる事の出来る姿形を持つと同じ位に有り触れたものとして――ここでもまた、危うい逆転がある訳だが――この逆転劇は顕著に行われる訳だ。

 さて、在りし日に気狂い、精神の病人と指さされた事が、今日に置いては意味も無く、また鏡に向けて立っているのだとするならば、とここまでを前提条件とした上で、私はこう訴えたい――最早タイトルが全てを物語っている訳だが――上なるものは下なるものと同じとくれば逆もまた然り、狂人が無罪と――完全に放免というのは、困難だとしても――されるならば、狂神も同様の措置を受けなければなるまい、と。

 大抵の者は、恐らくこう思うだろう。何を馬鹿な、人と神は違う――だが、何処が違うというのか。彼等もまた運命の奴隷である事に代わりはなく、そして神をその能力故に崇め、讃え、畏れ、敬うとするならば、我々は、何も解っていないという事に成る――好ましからざる状態にあるからと言って、それを蔑ろにする愚を犯すとは、何と愚かな事か。それはまた我々自身に舞い戻ってくるのだ――ぐるりぐるり、薄皮一枚の正気と狂気が逆転する様に、好ましからざる者として押しのけられるのである。誰がそんな事を望んでいようか? カインの末裔は、今しも機械技術によって神の下に集う者達を生み出そうとしているのに。

 だからこそ我々は、狂える神を、我々に目も向けず、耳も傾けず、恩恵どころか厄災しか振り撒かぬ名状し難き存在を、我々と同様に崇め、讃え、畏れ、敬わなければならない――何時の日にか、我々全体が自らの下なる者達によってそうされぬ為に。或いはもっと利己的に言えば――かような存在をかくの如く扱えるのだとすれば、最早我々が恐れるものなど皆無となるだろうから――

 ついしん
 そうゆうようなことをぼくが。レンタルディーブイディーみせではたらいているときにしたのごさんかたがた
があたまのなかにやってささやいてきてたいへんでした。ぼくはわらえばいーのかなけば、いーのか、よくわかりませんが、ついでがあったらだれかぼくにはごはんをあげてやってくださいおねがいします
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