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 唐突だが理は、血液型診断という奴を相応に信じている。

 理由としてはまず始めに感覚的なものだ。人間含む動物の生存に欠かす事の出来ない、宗教的にも重要視されている血液という代物に、明白な、異なるものと混合する事の出来ない明白な差異がある。これが事実として広く知れ渡った文化圏の中、その血液型という差異が、一個人の人格、人間形成上に何の影響も与えない――とするのは、ちょっと思えないのだ。これが、例えば他の動物、他の文化圏であるならば、話は別であるけれど、少なくともここ日本という地で、それは無理があるのではないか。少なくとも先行研究が無い、発端が疑わしいという理由だけで、断固として否定してしまうのはどうなんだろう、と。

 まぁここで、影響なんて無い、と断言されてしまうと元も子も無いが、そういう事を言う人には、歌の通りにこう返しておくとしよう――それなら君は、幸せなんだろうね、と。

 それから実体験としてある程度、血液型の差異というのは確かに感じる訳で――私は自他共に認める生粋のA型、という事は翻って、B型にも映る様なのだけれど、個人主義者たるB型とは基本的に相性最悪だし、無軌道良い所取りのAB型は理解が出来ないし、王国乃至王様のOは慣れるまでが辛い――そして、この手の話題を出した時、B型は何も言わずとも謙遜し、卑屈となり、産まれて来て御免なさいという空気を醸し出し、A型は(表面上は)話題に乗ってくれ、O型は賛否はともあれ最後は、『でも血液型とか関係無いよねー』で終わる感覚も、余り外れた事は無い。AB型? 放って置いても、構うまい。

 さてそう言った、信じるに値するだけの理由が出来た上で、それを受け入れてしまうのは、指針としてまた有効だからである――ここで言って置くが、理は別に、血液型だけで全てが決まるとは思っていない。どういう行動、性格を示したから、何型だ、等というレッテル張りもどうかと思っている。ただ、血液型は、人間の個というものを成り立たせる膨大な要素の内の一つ――誕生日とか星座とか髪の色とか体型とか体質とか両親とか先祖とか母国とか言語とか故郷とか教育とか食事とか衣服とか、そういった諸々と同じ様な――だと考えており、それを知っておく事で、理解と納得と安心と、その人への対応法を得る事が出来ると思っているのだ。最低限、その方向性なりは得られる、と。

 これを例えるならば――あれだ、ほら、ポケモンのタイプみたいなものだろうか? みずタイプのわざが効くからと言って、それがほのおタイプであるとは限らないが、ほのおタイプであるならば、みずタイプのわざも、じめんタイプのわざだって効くのである。予めそれを知っているならば、対処も可能、と。勿論それが全てでは無いと言った通り、変なとくせいを持っていたり、別タイプのわざを使ってきたり、見た目が素敵だったり、別種の戦法を取られたり、ステータス的にタイプとか余り関係なかったりと、困惑する事も間々あるが、とは言っても、知らないよりかは知っている方が、どうこう出来ようものがあるでは無いか。

 ――と、そんな理由で持って、理は結構血液型診断という奴を――妄信しない程度に――信じている訳だが、この感覚は、信じると言った様に信仰即ち宗教的で、まぁ科学だ非科学だ似非科学だと、どうこう言うのは可笑しいと思っていたりする――押し付けや、それを道具として扱う事は問題外だが、だが、遮二無二否定してしまうのは、宗教や信仰心を否定するのにも似た愚挙では無かろうか。無神論者は無神経とは良くぞ言ったものだが、正にその通りに、『宗教とは阿片である』という格言を――その先にまだ言葉があるにも関わらず――嬉々として語る様な按配である――まぁ、某所で見たコメントや、某茶室での遣り取りで思う所があったので、だだっと書いて見た訳だが、どうなのだろうね? こういう風に考えている人間は、決して少なく無いとは思っているのだけれど。
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