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 かく訳で、『イドへ至る森へ至るイド』考察の続きをば。前回は、ネタを孕んだ形而上的なものであった為、今回は予告通り『イド』と言う、一つの物語を中心に語って見ようと思う。延々と聞き続けた結果、どうにかこうにか自分なりの解釈が導き出せたので、断定口調で語らせて貰うが、あくまで一個人の解釈、ともすれば妄想とこじ付けのパレードであるので、そのつもりでお聞き願いたい。
<三つの物語と発達する自我、そして母親の狂気>

 さて、前回『イド』のイドとは井戸であると共にid=無意識であると述べたけれど、今回語られた三つの物語を聞いて行けば、そこに心理学的な方で言うイド、それと対になる自我というものが、一貫したテーマとして秘められているのが解る――未だ自我の未発達な、純粋無垢なる少年の非業の死、彼との出会いと別離によって自我を芽生えさせ、何かを覚悟した少女、何物にも変える事の出来ぬ程に愛していた息子を奪われ、世界を呪う本物の《魔女》と化した母親――と。

 それと同時に、その自我というものが、曲の順番に発達し、進行しているのもお解かり頂けるだろう。少年から少女そして母親へ、子供から娘にそして大人へ――だからこそ、第一の曲では『復讐劇の始まり』が告げられ、第二の曲では『やがて疾りだす』『物語は続く』とその先を案じさせ、第三の曲で漸く『【第七の喜劇】は繰り返され続けるだろう』と語られているのである。『繰り返され続ける』のは大人として、母親として成熟した自我を持つ『魔女』=テレーゼの『喜劇』であり、メルツとエリザベートの物語は、そこに至る過程に過ぎない――というのは言い過ぎにしても、『第七の地平線』へ至らんとする、『イド』の本質は、『魔女』にこそ在るに違いないのである。

 では、その母親を『魔女』に貶めた『喜劇』とは如何なるものであるのか?

<第七の『喜劇』>

 テレーゼを『魔女』に変えたのは、息子メルツを奪われた為である。しかも、ただ奪われた訳では無い。『戯れ』に奪われた上、自身は魔女として火刑台に送られようとしているのである……問題なのは、何故彼女が魔女にされたか? というものだ。

 テレーゼが元貴族であり、何らかの禁忌を犯したが為――父娘相姦はどうかと思いつつ、あの時代の貴族ならば考えられなくも無い上に、SHには、歪み無く歪んだ光源氏の先例が居るからなぁ――息子と共に出奔したのは描かれた通り、そして視力の無い息子をどうにか救おうと、森での隠遁生活を始め、一種の医者として過ごしたのも描かれた通りだ。全ては愛すべき息子の為に、である。

 だが、その姿は、共同体(村社会)から外れた森に潜む、奇怪な魔術(薬草学)を駆使する不吉な女としても映る訳で、史実がしばしばそうであった様に、魔女狩りの嵐にあっては真っ先に矛先を向けられる相手であった――その存在が知られるに至る経緯は後述するとして、彼女の行いは、魔女として狩り出されるに十二分だったのである。

 それを言い換えれば、こうと言える――母親としての息子への愛とそれに伴う行為は、魔女の仕業として断罪され、否定されてしまった――だけでなく、(『一度は冬に抱かれた~』の直前に被る台詞は、今回一番えぐいと思う)愛した息子と同じ位の子供達に取っては、子供達を喰らう化け物、魔女という人間の範疇にすら置かれていないのだ――得てして子供とは残酷なものだが、しかし、これを喜劇と言わずして何と言おう。母の愛が裏目となり、嘲られ、愛した息子共々葬り去られる――それがテレーゼの『物語』であれば、怒り狂って当然だ。『十一文字の伝言』を聞いたローランの双児がこの地平線に辿り着いたなら、彼は思わずこう呟いたに違いない。『嘘を付いたのは誰と誰と誰と……』

 ともあれ、これこそが『第七の喜劇』であると思うのだが、それが解れば、聊か不鮮明であった部分にも光が仄見えて来はしまいか――『アンネリーゼ』『侯妃』『侯女』との関係、そして件のメルヒェン、エリーゼの本当の正体に、である。

<繰り返す母の愛と、もう一人の……>

 今回、どうも歌詞の背後で台詞が語られている為、良く聞き取り難い――これもまた後で書くけれど、裏で語られる、というのは結構重要じゃないかと思う――のだけれど、『魔女』の冒頭は、貴族(方伯侯?)とアンネリーゼなる女性が何やら口論している所から始まる。

 断片的に聞き取れるのは、『世継ぎ』『妾腹』『不自由な体』『貴方をそんな子に産んだ、この母が悪い』――そして、その後に続くテレーゼらしき女性が『アンネリーゼ、貴女の気持ちは、痛い程解る……それでも私は、貴女を許さない……』と、恨み言を述べているに、このアンネリーゼこそが、テレーゼとメルツの運命を決めた者の様である。『妾腹』という所から、テレーゼとアンネリーゼの関係は、本妻と妾か――或いはもっと泥沼の――そこで具体的に何が在ったのかは解らない、が、先の『喜劇』と、以下の歌詞を見れば、自ずと見えて来るものがある。

 嗚呼 ごめんなさい ごめんなさい ごめんなさい 
 アナタを産んだのは 私です 私です 罪深い《私》です……

 ――そして、【第七の喜劇】は繰り返され続けるだろう……


 思うに、このアンネリーゼなる女性が、テレーゼ母子を(魔女と告訴する事で)貶めた背景には、表舞台に上げられていない彼女の息子、ともすればメルツの異母兄弟が絡んでいたのでは無いか(『世継ぎ』は後継者であり、女子には言うまい)。そしてその息子は、メルツと同じ様に何らかの身体的障害を持っていて、ともすればもう既に死んでいて、その母親は、もう一人の母親と同じく、その事に強い負い目を感じていた――故に、テレーゼはその気持ちを『痛い程解る』のであろう。同じ息子を想う母親だから。だがしかし、だからこそ、息子を死に至らしめたアンネリーゼが『許せない』――【歴史】が、或いはしばしば語られるありとあらゆるものが繰り返される様に、子を想う母が憎む者は子を想う母に他ならないのだ――正に『喜劇』に違いない。

 と、なれば、『侯妃』『侯女』はどうか?

 これもやはり上手く聞き取り難いのだが、どうもこの『侯妃』はアンネリーゼでは無く、ソフィと呼ばれているらしい。彼女は、『侯女』を救う為にテレーゼの元を訪れるが、しかしそこで何か、或いは『とても不思議な出来事』が起こる――ここもあくまで仄めかされる程度ではあるが、繰り返す『喜劇』を、それから次の歌詞を見れば、解って来るものがあろう。

 ――皮肉な運命を導く事となる……。

 救われる命があれば、奪われる命がある。
 それを因果応報と切り捨てても良いのだろうか……。


 ここで言う『皮肉な運命』とは、テレーゼと『侯妃』=ソフィとの関係だろうか? ……それは違うだろう。『救われる命が~』とある為、恐らくここで『侯女』は亡くなってしまった=故にこそ、テレーゼが魔女として告訴される(実際、赤子の死に関わる産婆の類は、魔女として狙われ易かった)理由の一つになったとは思う――子を想う母が憎む者は子を想う母、だ――けれど、どうも面識があった様には見えない。と、なれば、その関係は彼女達の子供達にこそあると思うが、それではここで亡くなったと思しき『侯女』とは誰なのか?

 解釈の道具は、泣き崩れるソフィの台詞である。

この子はまだ死んでなどおりません!私には、私にはわかるのです。
何故なら前日まであんなに元気だったですもの・・・。私は認めませんわ!
将来は必ずや美人になるはずの子です。私の娘ですもの。
帝国中の殿方が放っておきませんわ。困りましたわ。ふふ。
いえ、もうそんなことどうでもよいのです。生きてさえ! 生きてさえ……いてくれれば……


 これを見るにどうも彼女は、宮廷社会での立身=素晴らしい相手との婚姻をこそ、娘の幸福と考えていた節がある――勿論、それは生きている上で、の話だが、似た様な境遇の存在が居たでは無かろうか? そう、エリザベートである。しかし彼女は生きていて、メルツと出会っている――『とても不思議な出来事』が起きて蘇った、とも考えられるが、それで全てを片付けるのは良くあるまい――そこで気に成って来るのが、『鳥籠』に置けるこの歌詞である。

 冷たい土の下に 埋められたはずの
 歴史の闇の中に 葬られたはずの
 陰の存在

 無明の刻の果てに 暴かれるままの
 葦毛の馬の背なに 揺らされるままの
 弱き存在


 で、どうもこの部分、一節ごとに、SHに置ける舞台転換のあのSEが聞こえるのだね。それと共にある台詞も、それぞれ違う場面、そして人物――二つの場面と二人の人物或いは四つの場面と四人の人物――を差しているみたいなのだが、一番気になるのは二行目である――『冷たい土の下に 埋められたはずの』陰の存在とは、死者の事と思うが、では『歴史の闇の中に 葬られたはずの』陰の存在とは何者なのか?

 更に言えば、エリザベートの『鳥籠』は、拘束というよりも過保護に見える――『望みもしない婚礼』とあるからにして、『政治の道具』扱いとも考えられるが、決して酷い境遇という訳でも無かったらしい――何せ、メルツに出会うまでは、『鳥籠の中にいる事』すら知らなかったのだから。その上で、彼女が彼に差し出した人形――イラストが、あくまでも世界観を補足する為のものだと知った上で――は、エリザベートの姿に良く似ているけれど、果たしてそれは本当に彼女の姿を模して作られたのだろうか? 例えそうであるにしても、何の為にだろう? 『人形』は決して玩具という目的だけで作られるのではあるまい――それこそ人間の代理、身代わりというのも考えられようでは無いか。

 ――そろそろ本題に行かねば、くどいと言われそうなので、言ってしまうけれど、自分はあの『侯女』を、エリザベートの姉では無いかと思うのである。あの一夜に奪われた命――だからこそ、次女エリザベートが『歴史の闇』から表舞台に引っ張り上げられ、『望みもしない婚礼』を受ける事となり、『鳥籠』の中に入れられ、大事にされていたのではあるまいか――それもこれもまた子を想う母の愛が故に。

 その結果が、『やがて疾りだす → 夜の復讐劇』にならば、それこそまた『喜劇』だろう。

 そして、と一先ず結論を述べるが――子を想う母の愛、それが裏目となって繰り返される『喜劇』にて、表舞台に上げられる事無く消えて行った二人の存在――アンネリーゼの息子とエリザベートの姉――こそが、メルヒェンとエリーゼの正体だと思うのであり、そして『第七の地平線』が序章、この『イド』の物語のテーマは、彼等こそあると思うのである。

<――そして歴史だけが残り、童話が葬り去られた>

 そもそも『喜劇』が繰り返されるのは、ある想い、或いは行いが、別の想い、或いは行いによって、否定され、真逆のものとなるからだ――『痛い程解る。』『それでも私は、貴女を許さない』――それは井戸の中に何かが潜む様に、井戸、または森がしばしば聖と魔の両方の属性を持つ様に、自我の下に対となる無意識(イド)がある様に、そして光と闇が渾然となっている様にであり、詰まる所は表裏一体――表があれば裏があり、そして見えているものだけが全てでは無い。その『大地』に何が根付いているか、誰も解らないのと同じだ。

 例えば――少年は何も知らなかったけれど、それは本当に幸福だったのか? 彼が受けた愛は、彼だけが受けるものであるのか? 少女は『鳥籠』を否定したけれど、彼女の親はただ自分達の都合で彼女をそこに入れたのか? 子を奪われた『魔女』が呪った世界には、どれだけの母と子が居るというのか?

 ――そして歴史だけが残った……。

 ある意味で、この『イド』の物語は、『史実』である。――中世独逸、暗黒の中世、可哀想な少年、少女に自由は無く、賢い女性は魔女として燃やされる、嗚呼何と言う時代、何と言う事態、憎むべき世界よっ――彼等以外の世界、彼等と対峙した者達が何を想ったかなんて誰も気に掛けない。生者が死者をしばしば省みない様に、『童話』は無視される――ハーメルンの笛吹き男は居て、子供達を浚った(味気無い公文書等存在しないっ)。継母に、狼に、山賊達は因果応報の報いにより罰を受けた――そうでは無かったと誰が信じる? 虐げられた者を虐げていた者の想いなんて、誰が考えるというのだ? そら、鍵十字の軍隊が言語道断なる絶対の悪として否定を許さないのと同じ事である。

 だからこそ、彼の者の名は、『Marchen von Friedhof』=『墓所の童話』であり、『喜劇』の観客として現れるのだろう――未熟な自我しか持たぬメルツの対極が如く、嘲笑的口振りで――己の愛する者を第一とするが故に起こり続ける生者達の『復讐劇』を、『呪い』つまりは『病』の如く(病は魔女の起こすものと言われていたな)蔓延して何れは処女大陸、『歴史』を持たぬあの国へすら至らんとする『皮肉な運命』を愉しむが為に――『死体と土塊』が交互に積み上げられた様に、ある想いの裏に、行いの下に秘められた別の想いの裏に、行いの下に秘められた別の想いの裏に、行いの下に――願いというべきか……それこそがきっと『イドへ至る森へ至るイド』というものだと、私は想う――想う訳である。

 以上。大昔の『Roman』考察並みに長々と語った訳だが如何なものか。ちらと読み返して、まぁ本当、『くどいと言っている』と言われそうな内容だが、これが何処かのローランの助けになれば幸いである。
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