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【AVALON】――――――――アヴァロン

 広義にはシミュレーションをふくむ体感ゲームを総称して<アヴァロン>と称する。
 一九八○年代に米陸軍が開発したコンバットシミュレーターをその原型とし、二○世紀初頭に飛躍的な発展を遂げた大脳生理学の成果を導入することで、所謂《ブレインストームタイプ》のシステムとしての実現をみた。
 プレイヤーは視覚や聴覚を経由せず、大脳皮質への低周波による直接励起によってゲーム内の時空間を体感し、プログラムされたシナリオの蓋然性の内部でその戦技を競う。戦闘は任意に選択された状況下において、個人またはその所属する集団単位で設定され、《フラグ》と呼ばれる特定の標的、またはプログラムの支配下にある標的の全てを倒すか、あるいはプレイヤー自身が<死ぬ>ことにより終了する。
 ゲーム内の現実はプレイヤーによって擬似的に体感された架空の世界に過ぎない。しかし、その戦闘行為が覚醒後の被験者におよぼす影響、とりわけその<死>の体験の心理的、生理的影響の危険性は早くから指摘され、多くの地域で非合法化されながら、しかし今世紀中葉の不安定な政治経済状況下に熱狂的ブームを巻き起こし、若者たちの間に《パーティー》と称する非合法集団を頂点とした無数のゲームフリークスを生みだした。

(ノベライズ版 押井守『Avalon 灰色の貴婦人』より)



そして“アヴァロン”を生み出した伝説のプログラマーたち――

“九姉妹”はそのフィールドに新たな試行領域をつけ加えた。

獲物を求めて荒野を彷徨う孤高の猟師たちの世界

人々はそれを“アヴァロン(f)”と呼んだ――




 と言う訳で、マイ・フェイバリット・ムービー『アヴァロン』の世界観的続編、アサルトガールズを見る……世界観的続編、と言ったのは、まぁ予告を見て貰えば解るだろうけれど――KOTOKOだしなぁ――思い起こせばもう十年近く前、今は亡き、と言うのも今は昔な特撮雑誌『宇宙船』でその存在を知り、深夜にテレビで遣っていたのを食い入る様に見たのが、始めての押井映画だった『アヴァロン』、ビデオに録画して映像が磨耗するまで何度も見た『アヴァロン』、始めてサウンドトラックなるものを自費で購入した映画だった『アヴァロン』、手垢が付く程、ノベライズを繰り返し読みふけった『アヴァロン』、ネットゲームの話題が出る度に「しかし、そろそろ『アヴァロン』オンラインゲーム化しないものか」「ドラグノフ抱えてアッシュごっこ……胸が熱くなるな」「○○だぁ、やばいぜっ、どぉすんだよぉ!!」と言い続けた『アヴァロン』、目玉焼きの黄身にパンをぐじゅぐじゅと付けて、くっちゃくちゃ喰う旨さを教えてくれた『アヴァロン』、そしてテーマ的に最早無理と知りつつもその続編を夢想していた『アヴァロン』……ストーリ的な繋がりが無いとは言え、そんな『アヴァロン』の続編が、よもやこの様な形で出されるとは、中学生の頃の俺は、想像すらしていなかったに違いない。正しく、コレジャナイアヴァロンである……あの蠱惑的な、黄昏色の世界は、何処へ言ってしまったのやら。

 まぁしかし、明らかに某狩猟ゲームの影響を仄めかすこの映画、蓋を開けて見れば――匂い立つ予算不足の香りは否めないとは言え――また実に押井映画であると共に押井映画で無く――スラップスティックなオチに大ゴケしつつもこう思う。嗚呼この作品――インタビューでもほろっと言っていたが――『アヴァロン』を始めとする、これまでの作品への一種のアンチテーゼ、それこそパロディなのだな、と。

 冒頭数分程度のナレーションに纏められ、後は僅かに台詞内でだけ言明されるゲーム外の世界(尚、冒頭部はノベライズからの引用であると共に、今作唯一の押井節である)、中欧的画一的街並みから一変、黒い砂ばかりが何処までも続く荒野と化した戦場、威厳も糞も無く、ただ暴れ、ただ狩られるだけのモンスター、浪漫のみを糧に独り獲物を求め続ける放浪者イェーガーは、三人の女達(グレイ=灰の名を冠する、リアルでは親のスネカジリな狙撃手、夫と子供を養う為、日々の生活の為にゲームで稼ぐ屈強な女戦士、奇行と奇声しか上げぬ黒衣の魔導師(ブラックウィドゥ)という組み合わせは、『アヴァロン』主人公にして、『灰色の貴婦人』の重要人物アッシュの要素をそれぞれ想起させる)に翻弄され、徒党を組んで終端標的(フラグ)=フィールド・ボス、マダラスナクジラを狩るも――この件が、またある意味象徴的だ。犬と鳥が手を組み、魚を倒す、という――最後には出し抜かれ、そして巻き起こるあの結末――

 ここにはあの、古典的RPG『ウィザードリィ』に意匠を置いた、現実と虚構、二つの世界を行きつ戻りつ揺れ動き続ける苦悩者、己の中の真実を得るが為に半ば永遠の求道を認め、神に等しき者へすら銃口を向けた彷徨い人の姿は皆無であり、どころか、そう言った姿勢を否定している様に映る。

 特に中盤(ここは、イェーガーが砂漠を歩き続けるシーンの次に、お気に入りの場面でもあるが)、砂に半ば埋もれた、学び且つ歩む学童(二宮尊徳では無い)二宮金次郎像と、その上に置かれた(螺旋をその背に背負う)蝸牛に対して、イェーガーと三人の女達がそれぞれの反応を示す場面は、『アヴァロン』と『アサルトガールズ』の相違を端的に表したシーンであると思う――蝸牛と戯れる三人の女達と、それを食すイェーガー、そして金次郎像の上に遺された“殻”を打ち砕くグレイ――だから『アヴァロン』では無い、深みも何も無いB級映画だ、というのは、ある種尤もであると思う訳だ――何時までも悩むだけでは意味も無い。いい加減、目を覚ましてもいいんじゃないか、と。

 とは言え、ヴィルヘルム・マイスター的な、トニオ・クレーゲル的な気質を本懐とする私みたいな人間としては、それでも尚、あの理屈で積み上げられた後ろ暗い世界が望ましいのであり、そして何よりも重要な事は、スカイクロラから継続されるある種前向きなそのテーマがどうであれ、それが作品として面白いかどうかは、全く別の次元であるという事だろう――うぅむ。セピア色に染まる、虚実綯い交ぜな都市風景、「脚力のパラメータを限界まで上げた俺の走りはマジオリンピック級」というノベライズの描写にニヤニヤした人間としては、黒い荒野と白い雲海ばかりが広がる風景に忽然と浮かぶ球状のGMや、台詞の随所にあるゲーム的内容(そして当然だが、結局どうしても漂ってくる押井らしい雰囲気に)、まぁこれはこれで、とそれなりに愉しむ事は出来たのだけれど――予備情報も、その手の感性も持たなければ、ただの冗長で『解っていない』B級SFアクション映画に過ぎないに違いない。

 尤も、そんな奴がこんな映画を見る訳も無いか――ある意味では『立喰師』の、つまり完全に趣味の映画として、ファンであれば、愉しむ事が出来る映画、と、言った所であろうか。

 そうそう、後今作、結構『アヴァロン』を思わすシーンがあって、そこでもにやっとするのだが(冒頭ナレーションで映されるツィタデルとか)、スタナーの犬喰い(件の目玉焼きぐちゃぐちゃ)を遣ってくれた事は、個人的にとても素晴らしかった。やっぱ目玉焼きはこうでなくっちゃ。
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