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2.単彩螺鈿の死者と悪魔
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 ――始祖アダムの昇格神話、即ち人類発祥に纏わる伝説の数限りない派生(パターン)が一つに拠ると、神は、あの『猿』との一件が無くとも、そもそも山羊を人間へと生まれ変わらせるつもりであったらしい。その理由は、我々の先祖の中に、やがて芽吹かんとする自身の近似を垣間見たからであり、かつてこの説を主張した一派は、神からの品を珈琲豆の事であるとした――創造主は、他の地上の生き物と並んで未加工の粗末な紙、即ち、樹木とその枝葉のみを食べて生きる山羊を、未来の同胞を、お哀れみになられたのだ、と。
 現代に置いてこの説は、冗句の由来として非常に有名である。
 如何なる時と場でも居る道化は語る――つまり神はこう伝えたかったに違いない、と。
 やぁそこのお友達、僕と一緒に喫茶式限界突破(コーヒーブレイク)と洒落込まないか―― 

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 この冗句から解るのは、今の御時勢、神話を真実であると思っている者は殆ど、少なくともこの唯都(
ザ・シティ)では殆ど居ないという事である――誤解の無き様に言って置くと、だから神話が、宗教が重要で無いという事では決して無い。あくまで神の似姿であり、神自身には決して成れない人類には、礎が必要なのである――縦令それが嘘であるとしても、だ。
 故に問題なのは――あえて言葉を悪くすると、今を生きる者に取って、どれが一番都合が良いか、という事で、しかもその者、起源を神代まで遡れる者は、現代に、そして歴代に二人、絶えず二人存在して来たのである――問われているのはその礎の礎であり、積み上げられた細部――神の品が何であったかなんて、余り関係が無い。いやもっとはっきり言うと、神が実際に居ようが居まいが、だ。神若しくは神足り得る何か――最新の学説は、古代に蔓延した疫病を挙げている――に拠って、遺伝的に、学術的に証明された様に、人類は山羊から進化した、と、これだけ解っていれば、もう充分――充分である筈なのだ。
 けれど黒の頭目は、ドン=ラーシュ・バフォメトは、言っていた――その品は『パルプグラマトン』と名付けられるものであり、君にはそれを探し出して貰いたい、と。
 荒唐無稽だ――その言葉を授けられたサイカ・ネルレラクは、湧き上がる頭痛に顔を顰めつつ、今でもそう思う――荒唐無稽だ、それ以外のどんな言い方がある?

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 ただ実の所、『パルプグラマトン』の正体とそれに纏わる事態、少なくともその一端はもう既に理解していて、それを知った今では、あながち馬鹿にするものでも無い。

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 翻れば三日前、サイカ・ネルレラクがグァラ=カプリ座から集合住宅(アパルトメント)の自室に戻った時、箱はテーブルの上に置かれていた――他は出た時と何ら変わり無いままに。
 聞かされていたとは言え、慣れているとは言え、余り気持ちの良いものでも無い――サイカは今日何度目かの溜息を漏らしながら、その前へとやって来る。
 それは全身を黒く染められた正方形の紙箱であり、大きさは、我ながら嫌な例えをすると、頭蓋骨が入るか入らないかという程度。ただ持って見ると重さは余り無くて、そこは安心したのだけれど、隙間無くみっちりと中身が入っている感触がする。
 ドン=ラーシュ・バフォメトはこれが必要なものと言っていた筈だが――中を全く想像出来ぬまま、サイカは蓋を開いた。魔が出るか蛇が出るか、と詰まる所は怪しみながら。
 そして結果はというと、開けて驚愕、道化の筐体(ジャックインボックス)――黒い箱の中には、白い箱が入って居た。その色彩と一段小さくした形状以外は、外側と変わらない、紙製の箱が。
 何だこれは、とサイカは首を傾げ、更に白い箱を取り出し、蓋を開けて見る、と、次に出て来たのは黒い箱で、一番目と二番目の箱の関係をそのまま適応した姿に、この時点で嫌な予感がしていたのだけれど、更に蓋を開けて、開けて、開けて行けば、それが見事的中していたのを確認する――黒、白、黒、白、と箱の中には別の色の箱があり、それが交互に繰り返し繰り返し、徐々に小さくなりながらも延々と続いて行く――
 それが意味する事を、知りたく無くともサイカは知っている――これもまたドン=ラーシュ御得意の手の込んだ適当さ、或いはいい加減な周到さの一環だ。口で言えば直ぐに済むものを、七面倒な行動によって暗に仄めかそうとする――羊非羊(メェルド)。
 こうして彼は自身が何をしなくてはならないのかを嫌が応も無く察せられた訳だけれど、箱の中に入っていたのは箱だけでは無かった――テーブルの上に大小の箱を散らばらせつつ、掌に乗る程度の大きさになった箱の蓋を開ければ、出て来たのは巻紙で覆われた透ける程に薄い紫の紙片で、巻紙にはこんな文字が書かれている――『私を食べて(イート・ミー)』。
 サイカはひらり指で摘むと、巻紙を外し、その紙片を天井へ向けて掲げた。見た目や感触は食紙(ミール)に近いが匂いは無く、色合いだけならば寧ろ――つい最近見たので間違い無いけれど、狂紙(ウィード)に似ている。人の体を、心を容赦無く蝕む事を目的とする、悪夢の薬――
 自分から被虐を求める様なものにろくなものがある筈が無く、正直、口にするのは御免被りたかったが、これを贈って来た相手が了承してくれる訳も無く。
 指と指の間でひらひらと暫し弄んだ後、意を決してサイカはそっと舌に乗せた――瞬間、何とも言えぬ苦味と甘味が口一杯にぶわっと広がり、彼は口直しの飲み物を用意してなかった事を悔いたけれど、直ぐにその後悔を食した事自体に変えて、がたと床に倒れ込んだ。
 そして味覚を伝って悪寒が脊髄の中へと入り込み、神経を軋ませながら這いずり上がれば、頭蓋に満ちるのは耐え難い熱と痛みであり、ぐらり視界が揺れた次に広がるのは妙に白々しい幾多の光景で、走馬灯の如く巡り回るそれを背景に、意味を成さぬ微細で黒い文字の群れが、騒々しい羽音を立てて両の目の中をぶぅんぶぅんと好き勝手に飛び回る――
 清潔という言葉とは縁遠い床の上で、サイカは羊非羊っ、羊非羊っ、とのた打ち回り、本能的に二本の指を喉の奥へ突っ込んで朝食という名の昼食ごと、毒か、或いは毒となった紙片を吐き出そうとしたけれど、寸での所でただの嗚咽に留めたのは、ドン=ラーシュの聞き覚えの無い言葉を唐突に思い出した、気になったからであり、

「――捜して貰いたいのはね、レーフ=ノマー(と、年経た幼児が呼ぶ名を、サイカは何故か自分の事と感じている)、『パルプグラマトン』というものだ……正式な名前は無いから、便宜上そう呼ばせて貰うけれど、我ながらこれが一番的を射ている、というのも、これこそは噂に名高い神の贈り物で、その姿は実際の所、広く語り継がれているものとは大分違う。かろうじて似ているのは巻譜位だが、残念な事に無限の長さは持っていない。でもこれは喜ぶべきだろう、無限の読書に生涯を費やす必要も無いという事だから……」

 そうして次々に台詞と映像が沸き上がれば、サイカは胃液と共に納得を腑に落とす――つまりあの紙片は、死者の書の断章、志半ばで倒れた先任者の魂の写し紙(コピー)なのだ、と。
 科学技術(サイエンス)とは末恐ろしい――無理かもしれないが、自分は火葬して貰わねば。

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 それから暫し意識を失い、目覚めた時にはこの新しい手段――余りに新し過ぎる為に表裏どの風説(ゴシップ)にも流れていない異様な手段を持ってして、サイカ・ネルレラクはレーフ=ノマーの後を継ぎ、遺憾ながらにその知識を譲り受けた。
 その知識が語るに曰く――『パルプグラマトン』は、ドン=ラーシュ・バフォメトが呼ぶ所の神の贈り物は、名前通りの製紙(パルプ)であり、そこには神聖なる御言葉(グラマトン)が書き込まれている。この世ならぬ素材で出来た媒体も重要と言えば重要だが、真に尊重すべきはこの御言葉の方で、それは人類の、いや万物全てに関わる何事かについてを語っている、と残された記録は述べている――そう、記録。ここまで詳細に、また確信を持って正体が言われているのは、贈り物が現に存在し、代々管理されて来たからだと、ドン=ラーシュはレーフに伝えている――白と黒、その両者の長老達の手に拠って、だ。反目する者同士の共同作業には概ね二つの理由があり、どちらに取っても些細であるか、どちらに取っても重大であるかで、例えば前者ならば、白黒平等にコケおろすエリ=ファス・ガゼット紙が、後者ならば、唯都(ザ・シティ)グァラ=グァラの市政を名目上統べるカルナイン管理塔(ミナレット)が上げられるが、この場合はどちらもで、彼等は贈り物を敬うと共に恐れても居り、語られざる歴史の裏側にそれを仕舞い込んだ理由がそれだ、と。その扱いは管理というよりも封印と呼ぶに相応しく、何故そこまで、といえば、御言葉の内容に関わって来るのだが、現在の所在と共に、その事を知る者はもう誰もこの地上には居ない――レーフへの依頼はここに端を発する。誰も彼もが腫れ物を扱う様に『パルプグラマトン』に接して来た結果、表側の雑事に紛れて記憶、何処に何があるのかという記録の大部分は失われてしまった、と――間抜けといえばこれ程間抜けな話も無い。事実は失われ、失われた事実だけが残っている、とは――

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 けれど、それを馬鹿にする事が出来ないのは、レーフ=ノマー、即ちサイカ・ネルレラクに与えられた役目が、そんな失われた事実を取り戻すという事だからで、
「――つまり今だからこそなんだ……解るだろう……?」
 記憶の中の黒の頭目はそう説明する。思っていた通り、あの陽光の異常を挙げ、
「――実際にどうかは関係無い。それが本当に世界の終わりの兆しなのか? 皆が本当にそれを恐れているのか? どうでも良い事だよ、そんな事は、ね、レーフ=ノマー、重要なのはね、今、神からの贈り物っ、と来たらどうだ、という話だよ……」
 そして彼の立場から見れば至極当然な言葉で締め括る。
「――内容がどうかは関係無い……だが、それには神が付く……な、解るだろう……?」

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 そこでレーフ=ノマーは頷き、『パルプグラマトン』を追って、そして死んだ――
 だからサイカ・ネルレラクはここに居て、『パルプグラマトン』を求めている――

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 成る程、一応の筋は通ろうか。『パルプグラマトン』の正体はやはり俄かには信じ難いとは言え、信じなければならぬ者が信じていて、その者を信じる者の信仰を、立場を譲り受けたならば信じざるを得ぬ訳だし、そこを認めねば話にもならない。
 だから荒唐無稽という言葉は、それこそ言葉以上の何物でも無く、容易に別の言葉へと置き換えられる程度の意味しか持たない――即ち『羊非羊(メェルド)』と、だ。
 だが意味は兎も角、それを今でも呟いてしまうのは、虫に喰われた様に所々失われているのが、何も事実だけでは無いという点である。どうやらこの魂の転写(コピー)技術はまだ不完全なものであるらしく――考えて見れば当然だ、完全であればもう広まっていても可笑しくは無い――レーフ=ノマーの記憶は虚ろで、はっきりとしない。もとい、在るには在るのだが、脳髄の中でサイカ・ネルレラクの記憶とぐちゃぐちゃと交わり合ってしまい、ちゃんとした形で取り出す事が出来ないのである。思考か経験か、何か鍵となるものがあれば――転写の際の苦痛はそれに纏わるもの、先任者が何に同意したのかを知らせてくれ、『パルプグラマトン』への疑問符は、皮肉げな感嘆符へと変化した――明白に思い出す事も出来るのだが、悲しい事に、そもそも何が鍵であるのかが解らない。
 これこそ本当に笑えない話で、喪失を馬鹿にする事が出来ない理由である――レーフは、後少しで事態を解決に導ける所まで行った。それは知っている。『隠れ潜む者』は『パルプグラマトン』の在り処を理解し、それを手にする直前まで到達した。それも知っている。結局は辿り付く事無く、何者か――白の者であるのは確定的だろうが、閃光の様な冷たい感触は、深入りする気を削がせる――に拠って殺された事だって、サイカは知っている。
 知っている知っている知っている――けれど肝心要のあの部分、『パルプグラマトン』が何処にあるかが、解らない。解った事は解っているのに、何を解ったかが解らない――
 そう、だからドン=ラーシュ・バフォメトは、不愉快にも信じるに足るという訳だ。
 サイカがしなければならないのは捜す事では無い、取り戻す事であったのだから――

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 これが三日前であり、以来サイカ・ネルレラクは、レーフ=ノマーの写し身、何を忘れているのかを良く覚えている記憶喪失の男として、未だ収まらない苦痛に眉を顰めつつ、唯都(ザ・シティ)グァラ=グァラを彷徨う事と相成ったのだが、その成果は芳しく無い。神話の中に名を残す物の痕跡が、早々転がっていてたまるかという話だが、兎に角芳しく無い。
 つまり、これも正しかったという事だろう――レーフは優秀だった、と。
 それが自身程であったかは定かで無いが――ドン=ラーシュ・バフォメトの言を省みるに、サイカが自力で見つけるとは思っていない様だが、多分無理では無かろうか。
 とは言え、レーフと違い、サイカには解決の糸口が見えている、という事はかつて解決出来なかったという事であるし、またそれだけではあるが、何も無いよりは遥かに良く、それから彼は先任者と完全に違う、この探求に置ける利を一つだけ持っている。
 その利とは即ち、サイカが灰の者であるという事だ。
 本来であれば、それはただの障害でしか有り得まい――白でも無ければ黒でも無い、と一つの種として数えられていないのには理由があり、混血という存在が歴史上、社会上成立し難いのは勿論だが、それよりも問題は生物上のものである。原因は不明だが、灰の者同士の生殖能力は限りなく低く――かつては禁忌が故と言われていたが今それを真実と思っている者は、殆ど、少なくともこの唯都では殆ど居ない――また彼等が白か黒と交わった場合、運良く産まれて来る子供は、灰の者で無い場合が圧倒的に多いのである。
 この事実の大半は、白と黒の対立が激しかった昔から、強姦と言う名の忌むべき世代実験によって真実と認められている――『真理』は結構そこら辺で泣いているものだ。
 と、話は逸れたが、これ故に灰の者は第三の存在として決起出来ないのであり、その立場は少数の常として頼りなく弱々しい。彼等の住処は往々にして異臭の酷い川沿いの製紙工場(パルプミル)近くであるし、仕事と言えば最下層の工場員か当て所無い開拓者かお決まりの売春婦か、或いは権力者の囲われ者か――と、サイカが半ばそうである様な、白と黒の狭間でほそぼそと生きて行くしか無いのだけれど、逆に言えば白黒両方に属している事でもある。
 だからサイカがグァラ=グァラの最初のグァラ、唯都の北側、という事はつまり白の者の領地を歩いていても、何も可笑しな事では無い――両面仕立て外套(リバーシブルコート)をひょいと翻し、表面を黒から白へと変えてやれば、それだけでもう十二分。後はそ知らぬ顔を浮かべ、自分がドン=ラーシュの下で働いていると知る者が目の前に現れない事を神に祈ってやるだけでいい。尤もその相手は、十中八九白の頭目、ドン=クラリス・アザゼルの元で働いている筈で、そんな輩がそこら辺に転がっているとは考え難い訳だが、念には念を、だ。
 そう、たったこれだけで、サイカはすっかり白の側の人間であり、何処か覚えのある街並みを勝手気ままに出歩く事が出来る。雑貨屋へ立ち寄って貯古齢糖(チョコレート)皮膜仕立て(コーティング)の食巻譜(スクロール)と、こちら側でも普通に並んでいる漫画雑誌(コミック)『キック』を買い込んだり、ふらり喫茶店に入って珈琲を何時もの方法で――半分まで素で、半分から砂糖と羊乳(ミルク)を入れて――堪能したり、グァラ=カプル(・)座の前に平然と並んで、皆と共に幻画(キノ)だって見る事が出来る――蒸気の力で動く人形とその相棒の警官が怪奇的(オカルト)事件を追う、奇妙な探偵幻画(キノ)をやっていたが、途中で寝てしまった為にその結末は解らない――当然、そこには不精な灰色の髪を、黄色じみた肌を、紅く輝く瞳を、付け加えるならば片方だけの角を、訝しがる視線が付いて回る訳だが、それはグァラ=グァラの最後のグァラ、唯都の南側、黒の者の領地であっても、大して変わるものでは無いのである――サイカにとってはそういうものである、白と黒の違いなんて。

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 この地の、或いは血とでも言えばいいのか、ともあれ利を生かし、サイカ・ネルレラクはディルカ川に無数にある橋を渡って、白と黒と白と黒と白と黒と白と黒とと、記憶の器として、かつての記憶の器である箱の様、北と南とを行き来し、街の彼方此方を巡り歩いたのだが、収穫は無かった。何が忘却の鍵となるか解らないという名目で、やれる事は幾らもした――カプル座でだって仕事はこなしたつもりだ、ちょっと便所が赤く成り過ぎたが――のに、大したものは沸いて来ない。既視感(デジャビュ)ならばうんざりする程現れたが、そんなもの幾らあった所で仕様が無い。既視感を見た既視感……と積み重なれば尚更の話である。
 こんな調子が三日と続けば、流石に気持ちも萎えて来るけれど、それでもレーフ=ノマー譲りの確信、此処に其れは在るのだという確信は揺るがないから、七面倒臭い。
「……羊非羊(メェルド)……」
 という呟きも、何度出た事か――口癖だが、普段はここまで多いものでも無い。

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 そうして悪態と同じ程度には繰り返し繰り返し行った往復の末、鉛筆の先を上に向けた様なカルナイン管理塔(ミナレット)を今どちら側から見ているのか、両面仕立て外套(リバーシブルコート)の表の色と自身の体の向きを見なければ一瞬では判別出来なくなった四日目に、漸くと変化、些細ながら、しかし、サイカ・ネルレラクが望んでいた変化が訪れる――
 それはグァラ=グァラでも殊更に古い、遺棄された製紙工場(パルプミル)の立ち並ぶ、うらぶれた狭い通りでの事、時刻は太陽が世界の下に沈もうとしているその頃合で、外套の色は黒であった訳たが、全て一様にくすんだ黄昏色に染まっていては、それを区別する事に意味があるのやらないのやら。但し、今サイカの行く道と戻る道を塞いでいる者達を思えば、全くの無意味という訳ではあるまい――斜陽に照らされるその姿は、見難いが故の白であり、と同時に、彼等の着込む外套から放たれる独特の光沢は、それが蘇生紙(リサイクル)、ある特殊な薬剤に拠って、並大抵の損傷であれば自動的に元通りになる紙――科学技術(サイエンス)とは末恐ろしい――で出来ている事を、荒事を目的として造られた事を示しており、わざわざ手に手に何を握ってるか確認する手間も無く、それはある事実を雄弁に語ってくれる。
 要するに、神への祈りは無駄であったという訳だ――羊非羊(メェルド)。
 そうサイカは溜息を零し、無言の内に近付いて来る連中へと一瞥をくれるが、その四角四面(スクウェア)な瞳孔には不満等余り無く、あるとすれば嫌気位か――彼とレーフ=ノマーの二重的既視感(デジャビュ)は、これもまた当たり前の事であるとしか捉えない。

 そうして銃口が彼の身体へと狙いを定めればその精神は翻り、ある記憶を呼び覚ます。

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 東の果て、穢れ無き太陽の昇る地で、師父はこう教えてくれた――

「ディルカに放たれた神の角有る魚(マカラ)の様に、だ、サイカ……流れだ、解っている、ね……」

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 その言葉は、取り戻す事無く常にある意識の鍵であり、サイカ・ネルレラクの技を、ドン=ラーシュ・バフォメトが称する所の優秀さを引き出すものであり、彼は正にその通り、一切の迷いを脇へ退かし、自身を神魚、磨羯(マカラ)と思い成す――と、次の瞬間には、不用意にも近付いて来た男の手首が握り締めた拳銃ごとぽろり床へ落ちていて、間の抜けた事に裾だけが何事も無く元に通って紅い染みを滲ませれば、眼を四角から円に変えた彼が見る先は、血の雫舞い散らす幅の広い黒の刀身――
 それを冥土の土産と、もう一本の白刃が振り払われ、男の首がくるりくるり宙に刈り上げられれば、サイカは数のみを利とする白の者の群れ、彼の紅い瞳から見れば、子羊と言っても差し支えない連中の間へと一歩を踏み込むのだが、後から続くのはそれこそ酷い既視感(デジャビュ)の積み重ね――白黒一対の紙切短刀(ペーパークリス)を、諸共に逆手と握り締めた彼の動きは、まるで見えない誰かと組んでいる舞の様であり、眼中にも無い烏合の中を押されては引き、引かれては押し、行きつ戻りつ、飛び交う銃弾を紙一重と避けながら、白と白の間を縫う様に走り、確実にその色を紅く、紅くと染め上げて行く――
 それは体系化された動作で、傍目には美しくさえある挙動だったが、及ぼす成果は御覧の有様、一つ、また一つと積み上げられる屍以上でも以下でも無い――それでも息一つ、顔色一つ変えず、淡々とサイカは事を成し、血が、肉が大地へと注がれて――予想外の衝撃が脳裏を、胸中襲ったのは、まだ生きて立っている最後の一人へ肉薄したその時だった。

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 妙に白々とした素地に黒い文字の群れが犇めき合い、記憶が、光景が、掠れた灰色となって浮かび上がる――今にも一雨来そうな曇り空の下に佇む、廃墟同然の製紙工場(パルプミル)――それが一瞬の砂塵の後に掻き消えれば、次に広がるのは路地を逃げて行く黒だか白だか解らない少年達の背と、地面に転がっている無残に折れた小さな角、それから――
 それから――腰まで伸ばされた波打つ灰色の少女髪が揺れて翻り、憤怒と悲哀を雫と宿した珈琲の実の赤い瞳が彼に向けられ、静かに灯る安堵の微笑み――

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 思い返せば不思議でも何でも無い――ただ鍵が揃ったと、それだけの話である。不安定で好調とは言い難く、そして良く似た製紙工場(パルプミル)近くの路地だ――けれど瞳の四角が、銃口の虚空と転じた時、彼は心の底から思ったものである――何故こんな時にっ、と。
 静止する一拍の時を持って、サイカ・ネルレラクは死を改めて覚悟した。ただ一つ願う心残りは、自身の死体がちゃんと荼毘に付される事だけれど、それはきっと叶うまい――
 けれど覚悟した瞬間は訪れる事無く過ぎ去り、別の瞬間が轟音として間に割り込む。
 先に踏み込んだままの姿勢で、襲撃者が前のめりに倒れるのを見ていたサイカは、その背後、距離を経た先に居る人影に気付く――黒く大きく、筐状の銃身持つ回転式拳銃を片手で掲げる姿こそ少女のものだが、その顔立ちは明らかに成人した女性のそれであり、
「危機一髪だったねお兄さん……間に合って良かったよ。あんた、ドンが言ってた通り、角は立つけどちょいと間抜け……行き成り止まって、どういう神経の繋がりだい……」
 そうして歩み寄る度に良く揺れる波型の黒髪は、その下で開かれている大きな石版じみた黒い瞳と、歯を見せびらす微笑みと相俟り、自身名乗る通りの印象を彼に与えた――
「まぁともあれ安心をし……守護悪魔の御降臨さね……」
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