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3.忘却図書館蜜月旅行
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 そのサイカ・ネルレラクの自称守護悪魔、少女の様な女性乃至女性の様な少女は、モノ=クロームと名乗った。まず偽名だろうが、不思議と違和を感じさせないのは、ちょっと奇異な見た目か、長年その名で通して来た貫禄か、或いはその両方の所為か――まさか本名ではあるまい、とサイカが問うと、彼女はけらけらと笑い声を上げ、
「まずは鏡に聞くべきだね、兄さん、御同輩。え? 由来はどれだい、精神(サイコ)なのか逝かれ(サイケ)なのか……でも家名と比べれば大分マシ、と、偽名を疑ったのはこっちの方……」
 片手で口元を抑えつつ、黒の手袋で覆われた人差し指で、虚空に文字を刻み込む。
 『N・E・L・L・E・R・A・K』――
「これでネルレラク、ね……ちょいと聞いた事無いが、どういう意味さね?」
「……僕が知る訳無いだろう……両親にでも聞いてくれよ……」
 そこでサイカは肩を竦め、興味深げに飛ばされる視線から眼を逸らす。
 尤もその両親とやらは、もうこの地上の何処にも居ない訳であるけれど。
 所で、今二人が居るのは黒の側のディルカ川沿いにある場末のパルプ&チップス屋台であり、サイカはモノから話を聞いている最中だった――彼女の事、彼女がドン=ラーシュ・バフォメトから命ぜられた役割の事、その他諸々の事を――
「……で……君は何時から僕の傍に居たんだい……」
 美味くも無い紙コップ入りの珈琲を啜りつつ――半分行く前に羊乳(ミルク)と砂糖が欲しいと切実に思ったけれど、どちらの容器も品切れで、しかも中年店主に補充する意思は無い様だ――サイカがそう尋ねると、モノは、パルプ&チップスを交互に口へと押し込みつつ、
「そんなの決まってるだろ、最初からさ。正確には、幻画館出た後から、ね」
「……羊非羊(メェルド)……ちっとも気付かなかった……」
「だろうねぇ。凄く楽させて貰ったよ、うん、命要らないのかって位……」
「……まぁ、と、じゃ、北側に居る時もか? どうやって……」
「当たり前さね。そこは良く覚えとき、兄さん……悪魔というのはね、」
 と、何時代えたのか――そもそも代えた事があるのか無いか――解らない油で揚げられた紙と芋の山をごくり珈琲で一気に洗い流してから、彼女は唇を歪めてこう応える。
「何時でも何処でも居るものなのさ……誰にも、何にも悟られない形で、ね」

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 そしてモノ=クロームの良く動く赤い舌によって、サイカ・ネルレラクは理解する――曰く、と、何処まで信用して良いか解らないが、彼女は確かに彼の同輩、ドン=ラーシュ・バフォメトの雇われ者が一人であり、業務内容もまた同じく何でも御座れだが、今回はサイカを影から見守る様に言われていたらしい。ただ、それは彼の、彼の人種の、または彼の職務の信用とは全く無関係の要因からで、もし仮にサイカが何らかの失態を、離反を起こしたとしても、黒の頭目は眉一つ動かさずに次の処置へと移るだけだが、レーフ=ノマーがまたしても失われる、もとい憑本(ノミコン)が無駄に終わる事だけは困るのだ、と。
 それはサイカが口にしたあの紙片の事で、その意図や目的は彼が想起した内容と変わらなかった――という事は、不完全な技術であるという点もその通りであり、彼の前に既に七人の哀れな者達が命を散らしたとかで、生き残ったのは彼だけらしい。「多分、兄さんが灰の者だったからじゃないかな、詳しくは科学者じゃないから解んないけどさ。でも、ま、運がいいよね、八人目」とはモノの言葉だけれど、喜んで良いのか悪いのか――詰まる所、ドン=ラーシュにとっては、そういうものであるらしい、サイカの存在なんてものは。
「腐らない腐らない……何であれ、大事に扱われてる事には変わり無いんだよ、兄さん」
 モノはそう語り終えると、懐から取り出した紙で紅薄い唇をささっと拭う。
 サイカはまだたっぷり入ったコップを卓上に置きつつ、その仕草を横目で眺め、
「……それは者の様にか、物の様にか……それとも何だ、君の様に……?」
「少なくともモノの様に、というのは違う。あんたが死んだらドンはちょっと困るが、モノの場合は全く困らないし、それに意思だね、意思……そこがあんたと決定的に違う所」
「……意思……?」
「鏡を見ろって事さ。モノは、あんた、自分の意思で、好き好んでこういう事してる。生きてるって感じは大事じゃないかい? でも兄さん、あんたの眼はそうじゃないって言ってるよ……ね、本当、酷い眼。真っ赤じゃないか、そこだけ出せば立派な恐怖幻画だよ」
「……悪かったね……だが紅いのは生まれ付きさ……」
 また鏡か、と今度は斜めに目線動かせば、にしゃにしゃ笑いの気配が肌に当たり、
「知ってるよ、と、置いといて、兄さん、これ食べないのかい? それこそ、少しだって食べた方がいいって顔色だけど、要らないと言うならあんたの払いだ、遠慮なんて無い」
「……好きにすると、」
 いいさ、と言うが早いか既に手は伸びていて、冷め掛け且つ山盛りのパルプ&チップスは見る間にサイカの半分程度しかない体の中へ消えて行く――飛んだ監視人も居たものだ、とそう半ば呆れていると、「だから悪魔なのさ」という声が耳に飛び込み、思わず振り向いた時にはもう容器は空であり、モノは何時の間にか奪っていた彼の珈琲を勝手にごくごくとやってから満面の笑みを浮かべる事で、サイカを更に呆れさせて見せ――

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 けれどモノ=クロームの登場は決して悪い事では無い、と、探索を再開したサイカ・ネルレラクは直ぐに感じ始める――当然だが、だからと行って陽光の、世界の異常が薄れた訳では無いし、やる事だって、そのままだ。サイカは唯都(ザ・シティ)グァラ=グァラを北へ南へと行き交い、モノはモノで彼の後を隠れながら追い掛ける――と言うのは、憑本(ノミコン)被験者の観察の為と、敵方に気取られぬ様にする為であり、止むを得ない遭遇の後はもう一度姿を消している――それだけだけの事。何も、何も変わって等いない。
 ただ、多少収まったとは言え、既視感(デジャビュ)の頭痛に苛まれている間は、初対面の相手――どうも、レーフ=ノマーはモノを知らなかった様だ、逆もまた然りに――との感覚は新鮮である。それに常に誰かに見守られているというのも、悪くない気分だ。意識を集中させても、群集の、もしくは物影の、何処からモノが見ているか解らないし、目的だって目的であるが、それでも奇妙な安心を覚える――何とも言えぬ、懐かしさと共に。
 何とも言えぬ、憤りもまた同時に――

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 ただ、行為が直接変わらなければ結果もまた変わらぬものであり、モノ=クロームという間接的立場での直接的味方を得た後でも、サイカ・ネルレラクは芳しい結果を得られないでいた――前にも増して大胆に立ち回っているは居るにも関わらず、鍵は一向に出て来ないのである。ここまで来ると、俄かにこんな疑問も沸き始める。権力やら義務やらで抑えられていたものが――やはり『パルプグラマトン』なんて最初から無かったのではあるまいか、レーフ=ノマーの記憶、思い出すべき何かを忘れているという記憶自体が錯覚であり、白の者も黒の者も、その錯覚に絡め取られているだけでは無いか、全て何もかもは、荒唐無稽な絵空事に過ぎないのではあるまいか、と――
 集合住宅(アパルトメント)の自室前郵便受けに例の封蝋を押した封筒が入っていたのはそんな時、白の者の襲撃とモノとの出会いを迎えた日から経つ事三日、最初から数えれば八日目の朝であり、正に始まりと同じ様にシャワーから着替えに取り掛かろうとしている所で、彼はそれに傍と気付く。レーフもまた味わった事があるのだろう、覚えの深い二重の既視感(デジャビュ)に片角ごと頭を抱えながら封筒を破り開けると、入っていたのは何時かと良く似た一枚の付箋であり、そこに書き込まれている文字の筆跡も、まだ脳裏に新しい――
『木を隠すなら森の中、紙を隠すなら何処の中?』
 一瞬きの間に読み終えられる一文に眼を通して、サイカは溜息と共に羊非羊(メェルド)と呟く、と、それから窓も無い壁を見つめれば、その先に天高く聳え立つのはこの街の中心の中核。
 カルナイン管理塔(ミナレット)。

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 その唯都(ザ・シティ)グァラ=グァラの概観上の象徴に冠せられた名は、伝説に現れる原初の王アリス=カンダルフ・ドゥル――近代風に言えばドン――=カルナイン王に由来している。
 神の贈り物が届けられた聖地たるこの場所に街を築いた者を評して、と、やがてそれが発展し、今に至ったとされるが、彼の実在を信じる者は、殆ど、少なくともこの唯都では殆ど居ない――これも、どうでもいいと言えばどうでもいい細部の一つであり、都市自体の由来になっている英雄同様、カルナイン王が白の者だったのかそれとも黒の者だったかのは、余り気にされていない。神に先立つ人は無く、始祖に先立つ人は無し、である。
 中の状況も、この白黒問わぬ様を反映するものだ――しかも二通りの派生(パターン)として。
 カルナイン管理塔(ミナレット)の一階から三階までは都を表から動かす役場であり、白黒問わぬ役人達が、職務に付いている。互いに互いの色は許せないが、唯都そのものは重要である為、この場所は公式の不可侵地帯、中立地帯として昔から定められているのだ――という御題目に拠って、一つ屋根の下、役場は完全に二つに分けられている。概念としての地図上でしか見られない光景、白一色と黒一色が現実として眼の前に広がっているのは、傍目にはなかなか面白い。片方が片方の事を完全に無視しながら、それでも問題無く回っている様も含めて、だ。
 そうして四階から上は全て書庫となっており、そこには有史以来印刷されて来た、ありとあらゆる書物が眠っているとされている――特筆すべきは理されている訳では無いという事で、成る程、平等の知識の保存という意味で、確かにここには無数の本が、白も黒も無く集められているけれど、それは見境無く、どれもこれもただ置かれているという意味に他ならない――正確に言うと、かつてはちゃんとした分類の元で、保管が行われていたらしい。だが積もるばかりの歳月と知識と埃の中、焚書しない事で焚書させぬ様、白黒区別付けなかった結果、その仕方も失われてしまったという。下の階層ならば兎も角、上の階層は最早紙の遺跡である。ありとあらゆる書物があったとして、特定の一冊を探し出すのが不可能に近いならば、誰がそれを証明出来るというのか――

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 八日目に至る間、サイカ・ネルレラクは一度もカルナイン管理塔(ミナレット)に出向かなかったけれど、それは管理塔に纏わるこれらの話を知っていたからで――別名を混乱塔(バイブル)と呼ぶならば、女子供とて知っている話である――どうせ無駄脚になると、考えていたからだ。それにもし何か重大な事があれば、管理塔を見る度にレーフ=ノマーの記憶が告げてくれただろうし、ドン=ラーシュ・バフォメトが本気を出せば、無限近い読書に、数多居る部下達の生涯を費やす程度の事は出来るだろうし、恐らくはしている筈だ――勿論、悪い意味で白でも無ければ黒でも無い場所ならば、ドン=クラリス・アザゼル一派が黙っている筈も無いが、群れでどうにかなるなら、はぐれ羊なんて端から必要あるまいて――
 こうしてちょっと挙げるだけでも、管理塔を避ける理由は幾らでも存在する。こんな所を調べる位だったら、もっと他を捜した方が良い、とサイカは思ったし、また思っている訳だが、実際探索を始めてから、外縁区を抜かすグァラ=グァラの地域は粗方出向いてしまっている。『パルプグラマトン』の逸話からして、もし在るとすれば、それは中心区に在る筈である、と、考えれば遺された場所である管理塔へ行く事を指示した――あの最も目立つ建造物に行っていないのは、モノ=クロームを通じて知ったのだろう――ドン=ラーシュの考えは、理解出来なくも無い――憂鬱である事に、変わりは無いけれど。
 だから管理塔へ行く為、ディルカの川沿いを歩む――先日襲われた地帯ではあるが、今は守護悪魔が居ると解っている――サイカの足取りは何時もより重かった。黒の頭目が御所望されるならば仕方もあるまい、と、ただでさえ浮かぬ顔を更に沈ませて、彼は槍の様に突き出た円錐状の屋根の方へと進んで行ったのだけれど――

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 後にサイカ・ネルレラクはこう考える――ああだこうだと理由を付けて行きたがらなかったのは、無意識の内に予感していたのではあるまいか。そう、カルナイン管理塔(ミナレット)へ行く事が、彼にとって何を意味しているのかを。もっとはっきり言えば、もし仮に、管理塔で彼女に出会うと解っていたならば、自分は決して近付かなかったに違いない、と――

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 けれど今北橋を渡って中州に至り、北門を潜って黒と白の役場前を通り過ぎたサイカ・ネルレラクは何も知らず何も気付かず、ただ、他の場所とやはり変わらない既視感を覚えながら、ただ言われるがまま、望まれるがままに、カルナイン管理塔(ミナレット)の上層部目指して、ぐるりぐるりと、縁回りを巡る様取り付けられた螺旋階段を昇って行く。
 幾度も幾度も増改築が行われ、その都度、古き書物を上へと押し遣り、天の頂きへと矛先を近付ける管理塔の中は、昇れば昇る程に据えた大気で満ち始める。それは近年光り苔から採取出来る様になった、火を使わない蛍光照明の独特な刺激臭と相俟り、製紙工場(パルプミル)の排煙と比べても遜色無い程度の異臭を帯びる――歴史の新古今が攪拌された匂い。
 一体ここの司書は――それが名目だけで無く、ちゃんと実在の人物として存在するとして――どんな気分でこの塔を昇ったり降ったりするのだろうか。いやそれを言うならば、ここを訪れる全ての者、どんな理由でだっていい、全ての者の気分を聞いてみたい――時折、本当に時折擦れ違う、白か黒か良く解らない利用者を尻目にサイカはそう進み、進み、進み続ける事一時間近く経ってから、漸くと現在の所の最上階へ辿り付く。
 壁の向こうは何も無い虚空が広がっている、という所で、脇道に逸れる様に階段から書庫に入った彼は、まずこれまで異常に酷い異臭に眉を潜めてから、書棚と書棚の間へと脚を運ぶ――床と言わず、壁に天井、棚の縁に塗り込まれた蛍光照明の色合いは、青と緑に染まった月明かりであり、幻想的と言えば確かに幻想的と言え無くも無いが、匂いが全てを大無しとするし、目に付くものも、古過ぎる余り半ばを塵と化した巻譜の山――かつては何か重要な事柄を刻んでいたのかもしれないが、今となっては何の意味も無い屑紙の束のみとなれば、寧ろ気が滅入ってくるだけである。
 レーフ=ノマーの記憶も、お決まりの身に覚えしか告げてくれぬならば、やはり徒労だったか――サイカは、羊非羊(メェルド)、と首を二度、三度横に振るいつつ、こんな所に遣わしたドン=ラーシュ・バフォメトへの恨み言を呟き、元来た道を舞い戻って行こうとうする。
 書棚の一つから巻譜(スクロール)を取り出し、しゅるしゅると横に広げて眼を通している人影に気付いたのはその途中であり、自分以外にも誰か居る事実に、おやと思いながら、サイカはその人物の居る通りから階段へと行く事にした――本当に読んでいるとして、一体何を読んでいるのか、ちゃんと読めているのかと、ちょっとした好奇心を抱きながら。
 そうして彼は近付き、やがてその場に凍り付いた、と言うのも、仄かに輝く明かりの中から浮かび上って来たのが、見覚えの、余りに見覚えのある姿だったからで――腰まで伸ばされた波打つ灰色の髪、と、それからあの珈琲の実色に紅い両の瞳、と――
「久し振り……幻画館で逢って以来ね、サイカ……顔色良くないけど、体は無事?」
 そこで鈴の様に透き通った声が、凝り固まった大気を通じてサイカの鼓膜を揺さぶれば、彼ははっと我に帰り、こう考える――何で、こんな所に彼女が居るんだ、と――
「……何で、こんな所にあんたが居るんだ……」
 そんな思考が、そのまま口を割って出た事を直後に気付き、サイカは喉の奥で、羊非羊と悪態を付く。と、それを受けて彼女は向きを変えるや――純白の外套の裾がひらり翻れば漆黒の裏地が見え、きっと恐らく両面仕立て(リバーシブル)だ――片手で巻譜を握ったままに微笑みを、眼だけは四角四面(スクウェア)から決して変わる事の無い微笑みを唇に宿し、
「それはきっと同じ理由……『パルプグラマトン』……だったわね、我が女主人も望んでいるの。だったら従者は断固手に入れるより他あるまい、と……そこまで聡明じゃないんだけどね、実際は……ここは腐臭酷い知識の墓場で、無駄骨も良い所だし、」
 表情を変える事無く巻譜を放り捨てる事で、それを黄ばんだ粉塵に変え、
「何日も何日も唯都(シティ)を彷徨う羽目に陥るわ、偶然手に掛けた相手は、実は一番真相に近かったりするわで、もう最悪よ……でも一番最悪だったのは、やっぱり貴方の存在、ね……」
 そこで微笑みもまた同乗すれば、後に残るは刃物の様に鋭く厳しい一瞥であり、
「カプリ座じゃ驚いた……ねぇ、本当に驚いたのよ、私は。サイカ、何で貴方がここに居るの、って……しかも私が殺した男の後釜な上に、同じくノーマッド先生の教え子、と……先走った馬鹿達をやった手で直ぐ解った……鮮やかなもの。それは認めるわ、でも……」
「……でも……でも、何だ……」
 サイカもまたそれに応え、険しい視線を送り付ければ、
「でも……ねぇ教えてサイカ。貴方はどうして、あの男の下に居るの……どうして、」
 紅と紅の瞳が一つに交わり、瞬間が、そっと二人の間を掛け抜け、
「……黙れ……」
「え?」
「……黙れ雌山羊(バクリー)……」
 サイカが発した一言に拠って、その均衡は脆くも崩れる。
「……今更どの口がそれを言うんだい……今更……誰の下に居ようが、僕の勝手で、あんたの勝手じゃない……あんたが、あの女の下に居る様に、僕もそうしているだけだ……」
「……サイカ……そう、そうね、そう、その通り……」
 吐息交じりに彼女は首を横に振ると、再びあの微笑みを態度変わらぬサイカへ向け、
「今の無し、無得点(ノーカウント)、ね、忘れて頂戴サイカ……ちょっと、感傷に過ぎただけだから……」
「……」
 彼はその視線を真っ向から受け止める――本当は、逸らしたくてたまらない所だったが、自分からそうする事だけは出来ない、と、思っている間に、彼女の視線はそっと逸れ、
「まぁ……お互い、相手の事を改めて理解した上で、私はそろそろ行くわね? サイカ……さようなら、またきっと逢える事を、神にでも祈りましょうよぅ……」
「……」
 何処か遠くを見ながらくすくすと笑った後、背中を向けて歩き始める――それは何とも無防備であり、今ならば簡単に仕留められそうだったが勿論それは見せ掛けに過ぎず、
「と、そうそう、一つ言い忘れてたわ……」
 と、その背が、螺旋階段の入口でぴたと止まり、
「……何だい、まだ何か……」
「貴方、憑本(ノミコン)を受けたそうね? 他でも無い、あの男の……」
「……どうしてそれを知っている……一体誰から聞いたんだ……」
「どうでもいいじゃない、それこそ野暮よ……重要なのは、そう、この先の事……」
 サイカの一睨みに疑惑の念が加わる中、彼女は微動だにせずに言葉を紡ぐ。
「……その昔、開拓熱狂(フロンティア)がグァラ=グァラを襲った時、外へ外へと向かった者達を待っていたのは、残酷な夢の目覚めだった……木々の生えぬ荒野、魚も住まぬ塩の湖、そして虚空を覗かせる絶壁、と……だから、彼等は舞い戻った。中には留まった変わり者も居たけれど所詮変わり者は変わり者で、多くの者はこの唯都へ……故郷へと帰って来た……今じゃ、開拓者なんてものは、変態か罪人か、灰の者の偽善ぶった言い回し……」
「……だから、何だ……どうでもいい、何が言いたいんだ……」
 その横顔からちらと見える口端に再三の笑みを灯しつつ、彼女はこう続け、
「私が言いたいのは、こういう事よサイカ……もしこれ以上、捜す場所が無いとすれば……と言うのは勿論、そうだと知ってるからだけど……己の内側を見詰めなさい。外へ、外へと向かった先に何も無いのだとすれば、目指す先はその反対だけ……」
「……それを教えて、あんたはどうするんだい……」
「どうもこうも……言うだけ野暮じゃない、と……じゃぁね? 頑張りなさい……」
 それから、はらと掌を背後へ振れば歩みを再開し、今度こそ階段へと降りて行く。

  ■□■□

「……」
 そうしてサイカ・ネルレラクは彼女の気配が完全に途絶え、彼女の足音が完全に聞こえ無くなるまで、去って行ったその先を睨み付ける。
「で……兄さん、ありゃ誰だい、知り合いかい? 灰の者だが、どう見ても白の手先……」
「……」
 と、何時の間にかその直ぐ傍にはモノ=クロームが立っていて、黒手袋の手には例の拳銃を握り込んでいるならば、彼とその視線の先を交互に見返し、
「どうするんだい、あんた、兄さん……殺れってんなら、今からでも殺ってくるが……」
「……必要無い……」
「いいのかね? 色々、不味い事知ってたと思うんだけど、さ。後で絶対面倒になると思うよ、本当、あの手の女は。匂いだよ、モノには解る。ああいうのは、ね、放って置くと、」
「……必要無い……」
「……兄さん?」
「……必要無い……」
 けれどサイカは、そんな彼女など意に介さず、思い詰めた瞳で、同じ言葉を繰り返す。
 その顔は、彼女と出会ってからここまで、ずっと変わらぬままであった――
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