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4.先の手紙のその中身
  ■□■□

 唯都(ザ・シティ)グァラ=グァラには、古くからこんな言い回しがある。
 即ち――雨は変化の兆し、雫落ちれば何かが変わる、と。
 これが本来何を意味するのか、何処から出た言葉なのかは、良く解っていない。床屋、角研ぎと並んで世界最古の職業の一つに数えられる紙職が、丹精込めて作った自作の味わいの変化を恐れた言葉だとか、あの流れ穏やかなディルカの古来の有様、磨羯(マカラ)降臨の真相を示しているのだとか、説だけで宜しければ好きなだけ、そこら辺に転がっている。そのどれが真実かは解らない。或いは、どれもが真実で無く、神代、いやそれ以前の何かへと通じている言葉なのかも知れない――誰が正しく知っていようか。
 ただ現代人にとってこの言葉は何の事は無い、ただの事実である。匂い立つ酸性の雫から身を守る為には傘が、頭巾(フード)が、合羽(カッパ)が必要不可欠であり、雨の日ともなれば、人々の姿、景観は一変する――本当に北と南、黒と白を見分ける事が不可能となる程度には。
 けれど、サイカ・ネルレラクの場合はもっと個人的なものであり、何故か、それこそ何故か知らないが、彼の人生の転機、で無くとも印象深い思い出は、何らかの形で雨と繋がり合っている。振り返れば首を傾げたくなる程、あの匂いと音と光景が付いて回る――

  ■□■□

 だらり零れ落ちる浅黒い腕に泣き縋る白い背中――北の方へと去って行く二つの雨外套(レインコート)、の片方は時折ちらと振り返り――差し出される傘の柄は固く、掌は柔らかく――香り高いが素は半分までが限界だった、濾過紙仕立て(フィルタードリップ)の珈琲――そして去って行く雨外套――後に残る震えと寒気――交わる雫――もう居ない。
 もう居ない――

  ■□■□

 この数日間、サイカ・ネルレラクは集合住宅(アパルトメント)の自室に閉じ篭っていた――外へと向けていた視線を内へ、内へと向ける為、鍵では無く、探し物そのものを見つける為。
 その発案者は彼で無く、勿論ドン=ラーシュ・バフォメトでも無い。郵便受けには『L』印の封筒が何回か入れられたけれど、サイカはそれを無視し、エリ=ファス・ガゼット紙の朝刊や広告類と同じ処遇を与えている――全て迷惑便(スパム)と断じ、一切手に付けなかったのだ。やがてモノ=クロームか、或いは他の者が直接訪れるかもしれないが、構うものか。端からそうしなかった様に、報告の義務は無いのだから、好き勝手にやらせて貰おう。
 けれど本当に好き勝手か、と自問して胸が掻き乱れるのは、これを促した相手が、彼女であるという事だ。雌山羊(バクリー)っ、羊非羊(メェルド)っ、と唸って見ても、それは変わらないし、口惜しいけれど、もし助言が無かったら、今頃まだ当て所無い彷徨を繰り返していたに違いない――繰り返しを抜けた先に待っているのが吉か凶かは、まだ解らないけれど。
 そんな出会いは既に四日も前であり、そして今は雨が降っている――
 何時に無い量を持ってカーテンも無い窓を叩き付ける水滴は一種の幕となり、硝子の上を伝って行く。それを通して見える唯都は人の気配乏しく、まるで水の中に沈んでしまった様で、物悲しくもまた美しくもある――実際は兎も角、人々の営みとは無縁の世界。
 雨――と、サイカはそんな様子をじっと眺める――ただ、じっと。窓一枚を隔てた向こう側は幻画(キノ)の中の街であり、そこに纏わる何もかも自分と一切関係無い――伸ばすに任せられた顎鬚を撫でながら、彼はそう考え、そっと眼を瞑る――黒の頭目も、白の頭目も、その部下達も、市民達も、彼女も、『パルプグラマトン』も、何もかも関係無い――と、思い込めれば、そこに在るのは、ただ自分だけであり、感覚は鋭く、感じ易くなり――雨か、と、外界を隔絶し始めてからずっとそうして来た様に、サイカの意識は深みへと行き――脳裏に浮かび上がるのは、レーフ=ノマーとは関係の無い記憶ばかりだったが、与えられた役目もまた遠ければ、ただただ浮かぶに任せる――泡の様に、息の様に――あの時も雨だった、その時も雨だった、と――運命とか何とか、そんな御大層なものでは無く、ただ事実そうであるものとして――軋む根元に馳せれば巡る、そう、行為を他愛も無く感じていたという意味で無邪気な子供達が、この片方の角を圧し折った時も――
 時も――時、は?
 そこで翻る灰色の少女髪の姿に、サイカは思い出し、思い返し、何故そんな勘違いを、と気付いた瞬間、思わずに吹き出してしまう――余りの荒唐無稽さ、諸々の台無しで――何も必死に歩き回る事も、意味は違うだろうが、隠れ潜む事も無かったのだ。既にそれは手にしていたのだから。忌み数たる十三を数える日々の、思えば最初の方、邪魔と唾棄したものと共に、とっくに取り戻していたのである。他ならぬ彼だからこその勘違いによって、その事実に気付かなかっただけで――そしてまた、気付かされただけであって――
 木を隠すなら森の中、聖なる言葉を隠すなら?
 羊非羊――サイカはそう自身の愚かさ加減を笑ってから、深い深い吐息を漏らす――と、眼に映る外の世界は未だ水の中にあり、雫は新たな記憶の背景として流れ込んで――

  ■□■□

「間抜け話なのは良く解った、けど兄さん、あんた正気かい?」
 そしてその雨は、サイカ・ネルレラクがモノ=クロームと古典的方法――屋外に出た後、高々とその名前を叫んだのだ――で落ち合い、彼女と始めて出会った場所であり、彼女との思い出を誘う場所であり、死せるレーフ=ノマーが告げる場所であるカルナイン管理塔(ミナレット)のお膝元、形骸化した知識の殿堂の傍にある真の聖堂目指して進んでいるこの最中であっても尚健在で、止む気配等まるで無く、
「……それこそ何の話だい……僕は正気だ、至って見ての通り……」
 元々寂れていたが故に、降り注ぐ雫の中にあっては正に背景の如き灰色の通りを、黒い頭巾(フード)目深に被るサイカはモノと並んで歩いていたが、片手と背筋を一心に伸ばし、黒白の蛇の目傘を二人の頭上に掲げる彼女は、その傘布と頭巾の下から鋭い非難を唾と飛ばして、
「モノの見立てが正しいなら、ね、兄さん、あんた至って逝っちゃってる……ドンは探し出せと言ったんだ……持って来いなんて言って無い……失われた記憶を取り戻した、その時点で検体役は御免の筈だよ……『パルプグラマトン』があるのは紙の遺跡だぜドン、って、一言、それだけ言えばいいんだ……それだけで、もう、めでたしめでたし……なのに兄さん、レーフ=ノマーの末路まで再現なんて、どんな神経の繋がりだい」
 けれどそんな言葉をサイカはまるで意に介さず、ただ前を向いて吐き捨てる様に、
「……だったら君だけ戻ればいい……それが役目だろう、連絡役(メッセンジャー)……」
 と返せば、黒い瞳がきっと吊り上がって睨みを利かせ、
「だけじゃないからここに居るんだよこの間抜けっ……モノはドンに見守れって言われてるんだ……見て、守るだ……言葉の意味の一つ位解れってのさ間抜け……大間抜けっ」
 大地を叩き打つ水音の上からでも通る声に、ほろ苦い笑みが自然と灯り、
「……それは、いやしかし、一つ忘れてるんじゃないかな……」
「何だいそりゃ……モノは兄さんみたく間抜けじゃないんだよ……」
「……いいや忘れてる……影から、だよ……これの何処が影だというんだ守護悪魔……」
「そりゃあんた、影は何時だって付き従うのさ……光に、ね……それが悪魔ってもので、別に可笑しい事じゃぁ無いさ。だからモノは、兄さん、一緒に行くんだよ……で、一緒にドンの元へ戻る……解ったかい、それこそモノが望んで引っ被ったモノの役割さね」
「……良い奴だな、君は……」
「黙りな、死に損ない志願」
 笑みの後からそう溜息が続くけれど、やがて消え去り、辺りにはまた沈黙の幕がそっと降り掛かる。全て何もかもを飲み込む、雨の音の騒々しい静寂――
「……ま、もういいよ、察しは付くから、さ……あの女だ、ってね……そこはいいさ……どうせ、言っても聞かないし、何でもいい……だが、これは気付いてるかい、兄さん?」
「……もう一度言おう、何の事だい……?」
 それを破ったのはモノであり、今度のサイカは視線落として、彼女の頭巾に隠れた横顔を見下ろす――言われずとも、また聞かずとも解っているのは二人の足並みが徐々に早まっている通りだけれど、その心配が少なからず嬉しくて、サイカはついと応えてしまう。
 モノもそれに合わせて首を回せば、紅と黒の視線が交わり、
「知ってる癖に解ってる癖に……ここに居るのはモノと兄さんだけじゃないって……敵さんも目星は一緒なのさ。ま、ここ最近はちょっと尋常じゃ無かったから、ね」
「……尋常じゃない……?」
「新聞位読んだら、いや、空位眺めたらどうだい兄さん、この引き篭もり……いいんだけどさ、別に……あちらも必死こちらも必死……ただ、それだけの話なんだから」
「……嗚呼そうだ、する事は変わらない……何人居ると解っている……?」
「少なくとも四人……だったら、終末の騎士(フォウ・ホースメン)っぽくていいんだが、ね……生憎違う」
「……と、言うと……」
 その瞳も直ぐに離れ、再び前を向いた時には、二人はもう走り始めていて、
「五人だよ、兄さん……五人だ。一人離れて、別行動、と」
「……良く解るね、僕はてっきり四人だと……」
「匂いだよ兄さん……モノは鼻が効くんだい」
「……こんな汚れた雨の中でも……?」
「言葉の綾さ、気にする無い、と、あちらさんも覚悟決めたね……」
 その速度は次第に上がり疾走へと近付けば、何時の間にかモノの片手に傘は無く、ちらと振り向けばそれは遥か後ろを飛んでいて、黒手袋に覆われた片手には代わりにあの拳銃――黒く大きく、鈍器にも似た回転式拳銃が納まっており、と、そこでサイカが何気無く気付いたのは、こんな文句が銃身に刻まれていた事である。
 即ち――世に永遠に(ノー・ワン)生くる(・リヴズ・)もの無し(フォー・エヴァー)、と。
「……素敵な銘だ、気に、入った……」
「モノが知ってる、最上の箴言さね、盗ったら怒るよ、本気で、ねっ、とっ」
 そうして途切れ途切れと、言葉と笑みを交し合えば、サイカは滑り込み、モノは留まる――片手添えられた分厚い銃身を持って、降り放たれた刃をしかと受け止めながら、
「お行きっ」
 紙切刀剣(ペーパーブレイド)の下を頭上過ぎるままに潜り抜け、姿勢戻した彼の背に、激昂の声が届いた――ちらと視線を後ろへやれば、降って出たか沸いて出たか、手に手に刀握る四人の白の者達が佇み、モノを、一人の黒の者を取り囲もうとしている。その構えに隙は無く、全員が全員手練と解れば、サイカは一瞬戸惑いを感じたけれど、耳を劈く轟音がその迷いを露と掻き消し、後に続く言葉に押される形で、ただ前へ、前へと駆け始める――
「お行き、お行き、お行きな兄さん、使徒の尻拭いこそ、悪魔の大事な役割だからねっ」

  ■□■□

 そして耳障りな脚音を上げながら、サイカ・ネルレラクは走る――途中で頭巾(フード)が後ろに捲れ、まともに雫降り掛かって来るのも、髪が肌に張り付くのもそのままに、既視感(デジャビュ)、即ち両の眼の前で目障りにも浮かび上がろうとするレーフ=ノマーが見た光景を目指し、黙々と――狭い通りと通りと通りを抜けて、曲がり、また抜けて、その歴史と意義を思えば正しく遺跡である製紙工場(パルプミル)跡に辿り付く――その一歩手前で、彼はぴたと立ち止まった。
 睨む――交差する道の中央に佇む、いや立ち塞がる人影へと向けて。
 予感はあった。
 きっと現れるだろうと――寧ろその為に、ここまで来たと言っても過言では無く――
「……」
「久し振り……管理塔(ミナレット)で逢って以来ね、サイカ……ずぶ濡れじゃないの、大丈夫?」
 彼女はそう微笑を浮かべるが、珈琲の実色の眼は変わらない――見れば今日の格好は白い頭巾付きの外套であり、腰まである波打つ髪も中へと無理矢理仕舞い込まれている様だが、その水滴弾く表面の照り具合は蘇生紙(リサイクル)製である事を示している。
「……僕の事はどうでもいい、と……今日は用心だな、動き難いだろう、それ……」
「そうね、私達には関係無いけど……念には念を、よ、それが生きる為に大事な一手間」
「……くだらない事だよ、雌山羊(バクリー)……」
「貴方ならそういうでしょうね、サイカ。せざるを得ぬ時だって、お構いなく……」
 彼我の距離を一定と留めたまま、サイカと彼女は紅と紅の視線絡ませ、そう言い合う。
 二人の頭上に、体に、間に降り注がれる雨は、また一層激しさを増させ――
「……ここまで僕を付けて来たのかい……それともちゃんと、自分達の力で……?」
「さぁ、どうだか……参考にはさせて貰ったかも、だけど、今となってはどうでもいい事」
「……だったら、さっさと、行ったらどうだい……言うでもいいね……こんな所で突っ立って無いで、さ……追い駆けっこ、というのもそれはそれで悪く無いだろう……?」
「昔みたいに、ね……でも駄目……と、違う……嫌よね、そんなものは」
「……僕は構わないが……」
「嘘ね、嫌と言ってる」
「……誰もそんな事言って無い……嫌なのは、あんたの方だろ……」
「いいえ、言っているわ、貴方の瞳が……」
「……言って無い……」
「言ってる」
「……言って無い……」
「言ってる」
「……解らず屋め……」
「貴方こそ……」
「……」
 合わせる様に忙しなく言葉が紡がれるが、やがてそれも途絶えれば、サイカは一度瞳閉じ、それから再び開ける――その時、対峙する彼女の両手には黒白一対の紙切短刀(ペーパークリス)が刃逆さと握られていて、それを見据える彼の姿もまた鏡の様、水面の様――
「……嗚呼、そうさ……こうじゃ無いと、決まりが悪い……僕の主の為にも、ね……」
 そしてサイカが、黒刃握る拳を突き出す様に構えを取れば、左右の刃と、外套の色彩を反転させる形で、彼女の一挙手一投足が彼の動作を寸分違わず倣って見せ、
「えぇ、それでいいのよサイカ……これ以上の馴れ合いは、どちらにも無用だわ……」
 二人は対と並び立つ――雨紐によって結び合わされた、毒を含む灰色の天と地の間、白でも無ければ黒でも無い、が、しかし今やその一端を担う存在として、敵同士として――

  ■□■□

 そうして幾許かの瞬間が流れて過ぎた後、全く同じ時を以って、サイカ・ネルレラクと彼女は動いた――堕ちて行く雨を玉と砕きつつ、その雫が大地に触れるより速く彼我の距離を零する、と、始まるのは刃と刃の完璧な舞いであり、互いが互いに相応しい相手を得た様に、それは目的を超えて美しく――周囲の状態等まるで意に介さない軽やかな足取りで滑る様に、跳ぶ様に地面を蹴れば、四本の刃は紙の一重と、獲物掠めず虚空を過ぎり、二人の位置は、向かい合う存在に合わせて刻一刻と変わって行く――黒、白、黒、白、と、右へ、左へ、二つの衣が翻り、その都度紙切短刀(ペーパークリス)のどれかが首を刈ろうと、四肢を断とうと、胴を斬ろうと煌くけれど、代わりに触れるのは水ばかり風ばかりで、それに悪態を付く暇も、気を休める暇も無ければ、次から次と頁を捲る様に腕は振られ、脚は伸ばされ、二匹の磨羯(マカラ)が流れを渡る――それ自体が一つの体系と化した彼等の挙動は留まる所を露知らず、永遠に続くかの様な錯覚すら覚えさせるが、しかしこの世に永遠等ある訳が無く、サイカの不意を付いて変化、一つの、決定的な変化が訪れる――嗚呼、という声が喉から出るが、それが大気を奮わせるより早く、白の刃が彼の手から飛び出す――と、廻りながら離れて行くそれが何処へ辿り付くかと知る事も、もっと直接に再び手に収める事も、今一度迫り来る黒刃に拠って断固不可能と切り捨てられ、
「私から眼を離すなっ」
「……誰がっ……僕はっ……」
 ずっとっ……――黒に黒を、白にも黒を、また黒に黒を、と、続く斬撃を残った一振りだけで受け流してから、反撃と共にサイカはそう叫びたい衝動に駆られるが、二対一とあっては防ぐだけで、避けるだけで正に手一杯であり、とてもとても、切り出せない――均衡は崩れ、彼女が先と、彼が続く――何時かの様に、それは懐かしさと憤りを同時に感じさせ――けれどその状況すら一つの調和と相成れば、持ち手を正しつつ、サイカは見詰める――彼女の動きを、その先を、その先の先を――未だ未熟なれど師父から教わったものは体の動かし方だけで無く、そこに連なる意味、心構えもまた同様で、ならば縦令黒の刃一振りであろうとも、浅い、だがもう少しで深くなる傷を無数に受けようとも諦めなんて無く、紅い眼は食い入る様に、流れを読もうと眼窩の中を縦横に縦横に飛び交い――そうして見付けた一瞬の隙を、サイカは逃さず一歩を刻む――空いた掌で白き刃そのものを握り締めながら、黒き刃が来たるよりも早くに懐へ――その手に握られた刃が衝撃と共に彼女の胸の真ん中へと貫き通れば、結末はまるで呆気無く訪れる――そして、辺りにはまたしても沈黙の幕が、全て何もかもを飲み込む、雨の音の騒々しい静寂が降り立った。
 耳の痛くなる様なその静けさの中で、白黒二本の刃で結ばれた二人は、互いに互いの瞳に映る自分自身の姿を眺め――それから、感情に乏しい表情の元に、サイカが紙切短刀の柄を半回させれば、彼女の唇から呼気と共に血が吹き出され、震える拳は黒の短刀をぽろり落とし、それは二つの色の水滴と同じ様に、大地に引かれて堕ちて行く――その刃先が地面へ辿り突いたのと、紅く濡れる唇が横一文字から微笑みに変わったのはほぼ同じ時であり、それは唇同士触れ合いかねない距離を持って、頬を通り、耳に近付き、
「……サイカ……」
 そして四角四面(スクウェア)の紅い瞳閉じると共に、囁かれるのは四文字(テトラ)なる一つの言葉――
「……■□■□……」

  ■□■□

 彼女を横たえ、掌の応急を済ませてから、ぐっと紙切短刀(ペーパークリス)の刃を抜き取ると、既に蘇生紙(リサイクル)は元に戻ろうと傷を塞ぎ始めていた――科学技術(サイエンス)とは云々、と言いたい所だが、それはあくまで布地に置いてであり、彼女の体に出来たものまではどうにもならない――傷が塞がるのと並ぶ形で、内側から滲み出る血は白い外套を赤く、赤くと染め上げて行く。
「……本当、必要無かったみたいだね、兄さん……」
 と、声が掛かり、気付けばサイカ・ネルレラクの直ぐ後ろにモノ=クロームが立っていた。その姿はびしょ濡れ且つ泥塗れな上に血塗れとも来ていたが、どうやら本人に怪我は無いらしい――サイカは立ち上がると、未だ視線投げ掛けたままのモノを見下ろし、
「……まぁ、ね……君の方は……大丈夫そうだが、本当に大丈夫かい……」
「こんな所で死ぬ様な配役(キャラ)じゃないんだよ、モノは……そんな事よりそいつ……」
 彼女はふんと鼻で笑い声を上げるが、直ぐにその褐色の表情を真顔に戻して、
「嫌らしいな……死んでるってのに、凄く満ち足りた感じ……」
「……」
 黒い視線を死体へ向けて言うが、サイカは何も答えず、と、それがまた彼の方へ向き、
「ちらっと見えたよ……兄さん、何か言ってたね、そいつ……何て言ってたんだい……」
「……それは……いいや……いや、大した事じゃない……ただの戯言だよ……」
「そう、そうかい……だったら、別に、いいんだけど……さ」
「……嗚呼……と、モノ、ちょっといいかな……」
「……何だい、兄さん?」
 問い掛けにそう首を一度二度と小さく振った後、サイカは紅い視線を周囲へと走らせ、
「……悪いが、短刀を捜してくれないか? 多分、そこら辺に転がってる筈なんだが……」

  ■□■□

 結局、もとい、何故か飛んでいった紙切短刀(ペーパークリス)は見つからず、仕方無しと、サイカ・ネルレラクは一本だけで行く事にした――「今の所は残存零、と、別に必要は無いさね」と言うモノ=クロームの言葉を信じ、幾分かは弱まった雨の中、彼女の屍と一緒に置き去りにする――が、実際の所、その時の彼の脳髄はろくすっぽ廻っておらず、胸中もまた何も感じていなかった――感じていない、と、その事自体を感じていない程に――
 そうして彼等は先へと進み、『パルプグラマトン』を見つけ出す――人の、いや生物の気配消え去って久しい製紙工場(パルプミル)の奥深く、元が何であったか解らない空間の中央、取って付けた台座の上に無造作に置かれたそれを、サイカは見付けたのだ――意図も容易く、これまでの道程は何であったのかと首を傾げたくなる程、簡単に――
 それは成る程、聞かされていた、と思っていた様な代物だった――当然の事だが、この場所も、この代物も、レーフ=ノマーに取って始めてのものならば、既視感は全く伴われず――独特の光沢をしているが、見た目は一枚の古びた羊皮紙で、古過ぎる為か、その端々は所々破れている。そこに刻まれているのは、アルファベットに似ているが、しかし見た事の無い言葉であり、モノ=クロームに促されるまま、サイカは濡らさぬ様気を付けつつ、『パルプグラマトン』を手に持った。これまで触れたどの紙とも違う感触――と、その瞬間、十本の指を通して何かが脳髄へと這い上がり、標本のそれを超える衝撃が全身を迸れば、彼は言葉を、声を理解する――この紙片に刻まれた万物全てへの言葉を、何処か幼い少年の様な印象を与える声として――それはこんな事を書き込まれていたのだ――

  ■□■□

 ――君達の望みを叶えて上げられたら、どれだけ良かっただろう。君達が僕に願う全てを、君達が僕に訴える全てを、その一つ一つを、君達が望む形で叶えて上げられたら……

 ――けれど、残念な事に、それは不可能だ。君達がどれだけ願おうと、君達がどれだけ訴えようと、僕が叶えて上げられるのは、君達が君達の力で出来る事に他ならない……

 ――創造主なのにね、と僕自身思うが、でも本当だ。何故と言って、残念な事に、僕は無限で無く有限であり、また全知全能でも無いからさ。君達が僕をその様な存在と信じてくれるのは凄く有難いし、感謝もしているが、それで何かが変わる訳では無い……

 ――だから君達がこれを見ているという事は、僕はもう死んでいるという事なんだ……

 ――寿命が差し迫ってる。今この言葉を創っている最中にも、それはどんどん近付いている。僕が生きている間に、これが君達の元へ届く事はあるまい。悲しい事に、それが現実なんだ。創造主だって何だって、死から逃れられる訳じゃない、と……

 ――そして、この宇宙も、また君達も例外では無い。僕が去った後も、ここは残るけれど、それは終わらないという事では無いんだ。今これを創っている目的の半分は、その事実を告げる為でもあり、それが何時なのかを君達に告げる為でもあるんだよ……

 ――そら、世界が終わるのは■□■□だ、間違い無い。その時が来たならば、この宇宙は跡形も無く消えて無くなるだろう。そこに生きる君達もまた、一緒に……

 ――多分これを知った時、君達は僕に文句を言うに違いない。色々な文句をね、うん、解ってる解ってる。僕だって僕に対してそう思うのだから、僕の創った君達がそう感じて当然だ。それを咎める気は無いし、だから、何と罵ってくれたっていい。気の済むまで悪態を付いてくれたっていい。何なら別に、呪ってくれたって構わないんだからね……

 ――ただその時にはもう、僕はこの宇宙に存在していない、というだけであって……

 ――本当、不甲斐無い創造主で申し訳無い。もっと僕がしっかりしていたならば良かったのにね。そうしたら、君達に不愉快な思いをさせずに済んだものを……

 ――でも、これだけはどうか覚えておいて欲しい。僕はそんな思いをさせる為に、君達を創った訳じゃ無いんだ、って。僕はどうしようも無い奴だが、君達を愛している、本当だ、僕は君達を愛している。信じてくれなくてもいいし、哂ってくれたって構わないけれど、それが僕の、僕の孤独を癒してくれた君達への、嘘偽り無い気持ちなんだ……

 ――そう、だから、目的のもう半分をここに告げよう……

 ――僕は居なくなる。君達も居なくなる。皆全員居なくなる。真理だね、でも、それがどうした、だよ。喜びも与えてやれないし、苦しみも除けてはやれないが、それでもどうか気にせず、どうか仲良く、どうかお元気で、終わりの時まで生きて欲しい……

 ――それが僕の望みだ。君達に望みがあるなら、僕にだってあってもいいだろう。勿論、僕がただ言っているだけだから、別にどう扱われようと勝手なんだけどさ……

 ――まぁそういう事で、さようなら、機会があれば、また何処かで逢おうっ……

  ■□■□

「……何だ、これは……」
 震える両手で『パルプグラマトン』を握りながら、サイカ・ネルレラクはそう呟いた――神からの贈り物と聞かされていた、大事なものはそれ自体で無く、書かれている言葉だ、とも――だが、これは、これではまるで――まるで――
 そして、その思いが鍵となれば、聞いた途端に深く、深くと封じ込めた記憶が解き放たれる――あの時、あの瞬間、あの死の間際に、彼女は彼に何と囁いていたのか――

  ■□■□

「……サイカ……」

「……ごめんね……」

  ■□■□

「……何だ、それは……」
 その四文字――何も語っていないというのに全てを物語っているその四文字(テトラ)の言葉を思い出し、思い返し、サイカ・ネルレラクは笑った――笑い、笑い、笑い震え、震え増させて泣いた。未だ湿ったままの頬に熱い滴が垂れ、ぽたりぽたりと紙片に垂れるが、お構い無しに彼は泣いた――幸いにも、その涙は染み込む事無く、表面を滑り落ちて行くけれど、そこで傍と気付くのは、『パルプグラマトン』の欠けた部分であり――底辺の右端、手紙で言えば署名でも入れられるその部分が、明らかに無くなっている。代わりにその空白を産めているのは、何かの動物の歯型だった。しかもそれは一つで無しに、二つで――
 そこでサイカは、思わずしゃくり上げる様にして吹き出してしまう。それは言葉以上に雄弁に、あの問い掛けの解答を示していたのだから――始祖アダムは何色なのか――いや、それはやはり解らないが、最早どうでもいい事だ。そう、どうでも――考えて見れば当たり前だが、アダムには伴侶(イヴ)が必要なのである。突然降って沸いて出て来たのが真相で無ければ、彼女もまた山羊で無くてはならず、となれば――名前も定かで無い我等が創造主――黒と白と灰に拠る、長い年月を掛けた世代実験――旧き人々が恐れた真相――
 そう、そしてサイカは理解した――確かに彼は取り戻した。求めていたものを、失われていたものを――それは失われておらず、ただ気付いていなかっただけであり、けれど気付いた時には、もう何処にも無い――それは本当に失われてしまったのだ、と。
 羊非羊(メェルド)――今この時程、そうと言うに相応しい頃合もあるまい。嗚呼何という愚かしさだろう、これではあの『猿』を罵れない――今や鏡となった、あの空想の生き物を。
 訝しがるモノ=クロームが恐る恐ると手を伸ばす中、サイカはそう笑い、そして泣いた――と、その時、耳を劈く様な轟音と共に光が、空間が軋み揺れ、甲高い彼女の悲鳴が、恐らくグァラ=グァラの市民達がそうした様に木霊するけれど、しかし彼は驚かない。
 サイカは知っているのだ――今更じたばたした所でもう手遅れだ、と。
 それは『パルプグラマトン』に、しっかりと書かれていた――間違い無い、と、付け加えた上でしっかりと――御丁寧な事に、秒まで略さず書き込んであったのである。
 この宇宙の、この世界の終わる時。
 荒唐無稽な、だが信じるに足るそれが訪れるのは、今から凡そ三日後の事であった――
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