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 と言う訳で、ちょっと早い気もするけれど(隠しトラックも今の所発見されて無いみたいだしなぁ)、『Märchen』考察である。が、始める前に幾つか。これは個人的理解の為の個人的解釈であり、真実は陛下のみぞ知るが故、あくまでもそのつもりで読んで貰いたい。また、基本的に作品として、全体としての解釈の為、細かい設定については余り扱わない方向で行く……という言い訳は何時もの事として、今回、自分は以下のスタンスを取って書いている。

・SHがハッピーエンドだなんて在り得ない。これは何か裏があるに違いない。

・これではエリーゼが余りに不憫だ。どうにか彼女を救わねば=あれは幸福な結末では無い。


 要するに、私は最初から疑って掛かっている。勿論、そうするに足る根拠はあるのだけれど、それすら個人的なものとして、著者は恣意的に見ている事を、念頭に置いておいて頂きたい。
【光と闇の童話】
 まず始めに上げるべきは、『Märchen』全体の構成である。これを出さねば話にならない。

 尤も流れ……一見での流れだけなら割合と簡単に上げられよう。

 イド的な何かの遣いとして記憶を失ったままに蘇ったメルヒェンと彼に付き従う人形エリーゼ。二人は夜な夜なこの地平を巡り歩きながら、七人の死者達の恨みを聞き、それに応えて復讐を促し、衝動のままに後押しをしてやる。その果てに出会ったかつての恋人エリーザベトによってメルヒェンはメルツの記憶を取り戻し、怨念と復讐を捨て去って、朝日の中へと昇華する。めでたし、めでたし。

 めでたし、めでたし――

 これだけならば成る程、良い話であり、それこそ『めでたし、めでたし』で終わらせたい位だ(実際自分もラストには涙が……尤も、ちょっと笑いが込み上げて来たのは内緒だが)。

 けれどこれは童話……作られた物語である。額面通りに受け取る訳には行くまい。

 実際に『Märchen』冒頭でも、その様に唄っている。

 此の物語は虚構である。然し、其の総てが虚偽であるとは限らない。

 逆に言えば、どれが真実かも解らないという事である。

 そしてまた『宵闇の唄』の中でも、この様に唄っている。

 墓所から始まる 七つの童話 イドの底に潜む 矛盾の罠

 物語の著者は 作為的な嘘で 錯落なる幻想を紡ぐ


 『Märchen』が童話の体裁を取ると共に、実際に頁を綴り、捲る音が聞こえている、歌詞のタイトルこそが『光と闇の童話』であるならば、『Märchen』もまた何者かによって紡がれた幻想である事を忘れるべきでは無いだろう。縦令その物語の結末が、どれ程めでたくとも、だ。

【肉なるものと霊なるもの】
 所で『Märchen』を聞き、その筋を纏めて、自分が真っ先に思い浮かべたのは、独逸が産んだ天才ゲーテが書いたあの『ファウスト』である。要素としては『神曲』もだけれど、救済を求めて彷徨う男(そういえばトーマス・マン版のファウスト博士は、音楽家、作曲家だった)と彼に従う魔の者、その旅路の末に愛する者によって遂に天上へと救われるという構図の為であるが、まだ理由がある。

 ファウストは第一章と第二章とに分かれているが、第一章は独逸の地上を舞台に生身の女性たるマルガレーテとの恋と死別で終わり、その悲しみを妖精達の楽園で忘れる所から始まる第二章では時間を超え、空間を超え、縦横無尽に行動に勤しんだ末、悪魔の手に掛かる所を天上へと召されたマルガレーテ=グレートヒェンの愛によって救われるという結末を迎える……地上から天上へ、肉から霊へ、俗から聖へとファウスト博士の物語は進む訳だが、『Märchen』の九つの楽曲、七人の女優達の物語もまた、その様に二つに――唯一の例外を抜かして――分別する事が出来る。

 即ち『生と死を別つ境界の古井戸』を境界として、宵闇に近い前半の三曲は肉なるものが、暁光に近い後半の三曲は霊なるものが主題となっているのである。それは対になっているものと比べると解り易いだろう……一方の王子が雪白姫の美しい死体こそを求めるならば、一方の王子は、野薔薇姫の運命的な境遇にこそ惹き付けられる、という按配で。

 イド=idとは感情、欲求、本能、そして衝動であり、またそれに対する作用として自我=エゴがあり、イドはエゴによって昇華され、表へと現れるという。闇から光を目指して進み、遂に昇天したメルヒェン≒『Märchen』は、その移ろいを示しているのだ。『宵闇』にて、正にこの様に唄われた様に、である。

 「黒き死を遡るかのように、旋律は東を目指す」

 と、なると、この移ろい、肉から霊への変化は、メルヒェンの救いの過程と言えるのだろうか。

 いや、そんな事はあるまい。

 何故ならば、暁光に近い霊なるものの側であれ復讐劇は確かに行われているのであり、また上の歌詞でも、『黒き死を遡るかのように』だなんて、不吉な例えが言われているのである。

 そして最も重要なのは、メルヒェンの救済である筈のエリーザベトもまた、七人の女優が一人という事である。確かに彼女はメルヒェンの誘いを一見拒絶している。だが、もし本当に彼女が救済であるなら、『暁光の唄』こそエリーザベトの唄で無ければなるまい。丁度あの『ファウスト』が、グレートヒェンの愛する者を救ってくれという願いによって終わる様に、である。そうで無いとすれば、それが一人善がりで勘違いな救い――実際の『暁光の唄』は、ヴァルプルギスの宴が如く騒々しい『宵闇の唄』とは打って変わって、メルツ独りにしか唄われない――自身の墓穴を掘っている音では無い、だなんて、誰にも否定など出来ないのだ。
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