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 と言う訳で続きである。前回から繋がっているので、初見の方はそちらからどうぞ。
【小さな口の七人の復讐者】
 ところで、そのエリーザベトが属する七人の女優達とはどの様な存在であろうか?

 最初と最期を抜かした、七つの曲の主役を張る彼女達に共通しているのは、それぞれがグリム童話をモチーフとした物語を持っている事、またその物語に合わせる形で所謂七つの大罪(それぞれの曲の冒頭にて囁かれている独逸語が、それという)も当て嵌められている事、誰かに対して憾みを持ったままに死んでいった女たちである事、そして、どの楽曲も、そんな彼女達の元にメルヒェンとエリーゼが訪れ、物語を聞いた後に復讐の手助けをしている事である。

 歴史として、現実として世に遺された童話の裏に、今一人の童話が隠れ潜んでいるという構図であろうか、ともあれ、屍揮者としてメルヒェンは彼女達に力を貸し、そして、彼の手により復讐劇は――ただ一つの例外を抜かして――成就される。かくて悪役は滅び、憾みは消えて、彼女等にも救済が訪れる訳だ。めでたし、めでたし――

 本当にそれで終わりだろうか? イドからモリ乃至モリからイドに戻ろう。疑いは、やはり『宵闇の唄』で唄われている。それは曲の最後、エリーゼの口から出たものだ。

 オ馬鹿サンノ復讐ヲ手伝ウ事コソ、私達ノ復讐!

 『お馬鹿さん』人形は女優達をそう称している。その詳細な正体が何であれ、イド的存在の化身と言えるエリーゼの言葉を鵜呑みにしていいかは解らないが、もしこの復讐劇に思う所が何も無いのだとすれば、そうは呼ぶまい。またそれとは別にメルヒェンも、この様に語っている。

 小さな口 七の苦悩 忘れぬ間に紡ぎなさい さあ――

 今回の歌詞、よくよくと見ると、『七』が中に潜んでいる漢字の『七』の部分が薄っすら赤く塗られているのだが(何と言う凝り様だ)、その中の一つに『嘘』もまた含まれているのである。『小さな口』そして『七』とくれば、それは正しく嘘の訳であり、そして彼女達もまたそれぞれの物語の語り手、作者と呼べるならば、その中に虚偽が、矛盾が交じっていても可笑しくは無い訳である。

 そしてもう一つ、忘れてはならないのが、幾つもの地平にあって語られて来た『輪廻』や『繰り返し』、そして『連鎖』『流転』という主題である。そう、対になる存在が在るならば、その立場は容易に変わってしまう。加害者が被害者に、被害者が加害者になる様に、侵略する者がまたされる者でもある様に、だ。

 そうと考えれば、七人の女性達が一方的に虐げられた被害者であり、加害者に対して凄惨な復讐をする権利を持つ者である、だなんて、おめでたい話がある訳も無いだろう。復讐する者はされる者だ。彼女達の話には虚偽か、或いは矛盾がある。と、同時に、メルヒェン曰く『復讐は罪』であるならば、彼女達にも罪があると考える方が自然だろう。勿論、その罪状は復讐する相手と同じ類であるのは何の疑い様も無い。立場は変わる。そして、罪状は、彼女達の物語の頭にこそ述べられているのだからだ。

 では、女優達の罪とは如何なるものか。『Märchen』の、エリーザベトの、そしてメルヒェン≒メルツの真相へと至る為に、一先ずは順繰りと、それぞれの物語を取り上げていってみよう。

【誰が本当に豚なのか】
 さて、一曲目『火刑の魔女』である。

 この曲は『ヘンゼルとグレーテル』を題材にVöllerei、即ち暴食の罪を扱っている。

 宵闇=本能的肉欲的衝動=イドに最も近しい為だろう、その内容は何とも生々しい。捨てられた娘の母に対する一途な想い、正気を失わせる程の飢餓。裏切られた愛が憎しみを産み、只管食料を欲する余り、実の子を手に掛けた魔女は、無邪気な子供達……ヘンゼルとグレーテルによって火の釜に突き落とされ、かくて復讐は身を結び、二人の兄弟は魔女が隠していた宝を手に入れる。めでたし、めでたし――

 本当にそれで終わりだろうか?

 イドからモリ乃至モリからイドに戻ろう。そもそもの事の発端は何だったか、と。

 そう、それは単に娘の積年の疑念に置いて他ならない。彼女はこう唄っている。

  それでも 嗚呼 ねぇ 母さん 私は幸せだったよ
 その理由を ねえ 知ってた? 貴女が一緒だったから

 それなのに 何故 母は 私を捨てたのか?
   どうしても それが 知りたくて……


 知りたくて、母を尋ね、そして結果として奉られてしまう訳で、何とも物悲しい限りなのだが、この言葉には裏がある。彼女は暗にこう言っているのだ、一緒に居るだけで幸せな位私は貴女の事を愛していたのに、貴方はそうではなかったのか?=私の事を愛してくれていなかったのか? と。要するにこの娘は、愛するという行為に、愛するという報酬を求めている訳である。無償の行為では無いのだ。

 そして更に言い換えれば、彼女は自身の現在の状況=母に捨てられ、離れ離れに暮らしているという事を、不遇である、母に愛されていない、と捕らえている訳だが……果たして、実際の所はどうだろうか?

 その端的な理由、そして答えを、他ならぬ母、魔女自身がこう唄っている。

 改宗したけれど時は既に遅く、一人の食い扶持さえもう侭ならなかった。
 懺悔を哂う逆十字。
 祈りは届かない。
 許しも得られぬまま、罪だけが増えてゆく……。


 娘殺しを犯した後のこの言葉は悔恨の故だろうか狂気は無く、だからこそ正しいのだろう。単純明快な飢えに拠って母は娘を捨てた訳である……尤も、この部分だけ取り上げれば、自分が飢えから逃れる為であると捉えられよう。だがヘンゼルとグレーテルを迎え入れた老婆は、こうも唄っているのだ。

 嗚呼 遠慮は要らないよ
 子供に腹一杯食べさせるのが 私のささやかな夢だった


 これから考えられるのは概ね一つの訳だけれど、示された事実は推測を深めてくれる。彼女の生家は『入り組んだ森の奥』にあるという。もし仮に、母が自身の食い扶持を稼ぐ為に娘を捨てたならば、誰が見ている訳でもあるまいに、その場で殺すか、それこそ森の更に奥に捨てればいいのである。小さな彼女が帰って来られる可能性は低いだろう。けれど、実際の娘は『大きな街にある修道院』に拾われた。それも、その街から故郷までは、旅と呼べる距離を隔てている事が示唆されている。母は、そんな手間隙を掛けて、娘を捨てに行った訳だ。勿論万に一つの可能性――娘が帰って来てしまう事――を考えて、とも考えられるが、自身の飢えに苛まれる女に、他人の為に使う余力があるとは到底思えない。

 そしてよくよく考えると奇妙なのが、『改宗したけれど時は既に遅く、一人の食い扶持さえもう侭ならなかった。』という部分である。彼女はここで、肉と霊、信仰と食料を結び付けているのだ。心変わりして神を替えようとて、腹が満たされる訳が無いだろうに、改宗する事で侭なら無いまでも食い扶持を稼げると老婆は言っている――それが意味する所は悔い改める事で村の共同社会に受け入れられたか――だが、森に住む寡婦が、宗教を変えた位でそう易々と解け込められるとは考えられず、であれば一つ、地上に置ける神の担い手、宗教組織の援助を――ささやかながらに――受けられる様になった、という事に他なるまい。それが援助と呼べるものでは無かったにしろ、少なくとも、同じ宗教である。異教徒に対する扱いよりはマシであるに違い無い……増してやそれが子供であるならば、だ。

 と、ここまで言えば、自ずと答えは明らかだろう――母は娘を、愛してなかったから捨てたのでは無い。愛していたからこそ、彼女は彼女を捨てたのである。このまま一緒に居ては、一人分の食い扶持を稼ぐ事も出来ないから、せめて子供だけでもお腹一杯食べさせてやりたいから、と――肉体的欲求を満たしてやる事こそ、乃至は、別離(わかれ)こそが、母の娘に対する愛であった訳である。

 けれど、娘にはその愛が解らない。それは彼女が修道女……俗では無く聖、霊なるものである為に、肉なるものを軽視していたから、というのが要因の一つか。実際彼女が唄っている事はただ愛によって人は救われるというものであり、またその様な考えだからこそ、異教徒が迫害される=自分達とは違う者に対する衝動も、新教徒が起こる理由=カソリックの腐敗にも眼が行ってなかったのかもしれない。それこそ己が信仰が総てだからだ。

 そして再会の時も、彼女は変わり果てた母の姿を信じられないでいた――思い出の、想像の、自身がそうと望む母の姿とはかけ離れていたからである。それは餓えに起因する訳だが、娘がその事を理解していたとは考え難い。肉=生を尊ばない彼女に、その辛さなんて想像の埒外だろう。と、同時に、何故母が娘である自分を理解出来なかったかも解らなかったのでは無いか……まさか餓えを凌がせる為、愛の為に捨てた娘が歳月を経た後に己の元に帰って来るとは、母からすれば思いも寄らないだなんて事を。

 とは言え、それらは彼女が担う罪に由来しよう――母が与える愛を愛と容認せず、ただただ自身が望む愛をくれ、もっと愛をと欲し続ける娘は『暴食』の名に相応しいと呼べるのでは無いか。

 そして彼女の復讐劇は、もっと、もっとと欲し続ける思慮の無い子供に拠って執り行われるのである――愛するという行為に愛するという報酬を求める娘は、憎むという行為に憎むという代償を支払う訳だが、それもかなり手前勝手だ。『殺られる前に 殺らなきゃ ヤ・バ・イ!』そう、彼女からすれば、殺そうとしたのは(まぁ実際に殺されてしまったのだが)、自分を愛してくれなかったのは母が先なのであろう。自分はこれだけ母を愛してたのに、母が私を愛してくれずに私を殺そうとするならば、と。そもそもの前提が食い違っている事にも気付かずに。捨てられた子の悲しい気持ちは理解出来ても、子供を捨てた親の悲しい気持ちを理解出来ないが故の、餓えに殺された娘の愛の餓えによる㐂劇である。

 最後にエリーゼが子供の事をこう言っているが……それはこの娘にこそ当て嵌まるものであろう。

「モォー、子供ナンテ図々シクテ嘘吐キデ、私ハ大嫌イ……ニャハハハハハハ!」

 ……思いの他長くなってしまった。眠気も危ういので今日はここまで……何か、衝動に任せて書き殴った感があるので、ぐーてんもるげんして読み返したら、色々訂正する羽目になりそうだな、いやはや。
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