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 Frohes neues Jahr! もとい気が付けば年が明けていたけれど、気にせず書いちゃう『Märchen』考察。いや本当は開ける前に書き上げて、衝動を昇華させたかったのだけれど……年末忙しかったからなぁ。

 ともあれ今回は『磔刑の聖女』、そしてメルツの救いについてを上げたく思う。前回はこちらから。
【エリーザベトの罪】
 七人の女優達の最後を告げる『磔刑の聖女』、その元ネタは(『黒き女将の宿』と同じ様に、ここで始めて知ったのだけれど)『憂悶聖女』――第七版にて削除された、という項目を見た時は鳥肌が立ったもので――そして扱う罪、唄と仮面で示される罪はZorn、『憤怒』である。

 さて、最初に書いた通り、この唄は何とも感動的だ。メルツ≒メルヒェンへの想いが故に政略結婚を拒み続けたエリーザベト。その為に兄か父か良く解らぬ『陛下』(この辺りは、当たらないので、他の人に考察を任せよう……)の怒りを買って磔にされてしまう訳だけれど、その想いは死して尚変わる事無く、メルヒェンが促す復讐すら拒んだ彼女は笑いながら逝く道を選択する。その姿に感化されたメルヒェンもまた復讐を捨て去り、闇なるエリーゼの叫びを背に東へ進み、遂に『暁光』へと至る――『M醇Brchen』の物語は、これにてめでたし、めでたし、という訳である。

 けれど、本当に? というのが、この考察のそもそもの出発点な訳だけれど、その様な見掛けの裏に一体何が潜んでいるのかについてはこれまで六人の女優達の唄にて、散々書き連ねて来た――繰り返しとなるが、エリーザベトもまた七人の女優達の一人であり、彼女だけが特別ならば、エリーザベトの唄こそ『暁光の唄』であるべきだ。そうで無いとすれば――と、言う所で、『聖女』を良く良くと聞き返せば、二通りの意味によって、実は彼女もまた他の女優達と変わらない事が解って来る。

 まず一つはその構成としてである。エリーザベトは復讐劇を拒絶した。確かに、そこは他の女優達と違う点だろう。けれど『結婚を拒み続けた結果、怒りを買って磔にされた』というその在り方自体は、元となった童話『憂悶聖女』の通りなのである。更に言うと、彼女がその様な行為に出たのは一重にメルツの為であるし、その想いが報われ、聖女足りえたのも、死した彼女の元に『約束を守ってくれた』メルツたるメルヒェンが現れたからである(少し脇に逸れて言い換えれば――もしここに彼が現れなかったら、もし彼が記憶を取り戻さなかったら、彼女は『聖女』で居られただろうか? 「ごめん、覚えていない」とか言い出してたら……)――『歴史として、現実として世に遺された童話の裏に、今一人の童話が隠れ潜んでいる』、そう、メルヒェン(とエリーゼ)の手こそ借りてはいないけれど、この構図は実は『聖女』も同じなのである。他の女優達と違ってなんて居ないのだ。

 そしてもう一つは、ここで掲げられる罪が『憤怒』という事である。エリーザベトが磔にされたのは、『陛下』の怒りを買ったからであるが、彼女がそんな行動に出たのは、そもそも彼女自体が憤りを覚えていたからに他ならない。何に対して、と言えば、愛する人メルツと結ばれ0501い世界に、彼に対する想いを踏み躙るかの様に女である自分を『政治の道具』に利用しようとする貴族社会に、だ。(その正否の程は兎も角として)だから彼女は熱っぽく、感情も露に婚礼を拒絶し、叶わぬ彼への想いを抱えて磔にされる――己が抱える罪によって死を迎えるという点もまた、他の女優達と違わないのである。

 この様に、本質的な意味で、エリーザベトは六人の女優達と同じである――ただ唯一、彼女等に違いがあるとすれば、一人だけメルヒェンの誘いを断った、というその一点に集約される。そう確かに、構図が、罪状が、と言った所で、それだけは否定出来ない事実である。現にそうしているのだから。

 しかしそれも、『磔刑の聖女』に直接続く『この狭い鳥籠の中で』を聞けば、どういう意味か理解出来る。

 衝動は枯れるまで 欲情を湛えるけど 

 自我は知っている 《彼以外もう愛せない》と

 狭い鳥籠の中 翼を亡くした この世界で

 地に墜ちるその刻まで 月光のように 羽ばたいてみせよう……


 そう、エリーザベトの行為は、愛する者と結ばれたいという衝動がメルツの死に拠って叶わないものとなったからこそ、自我がそれを制した結果である――そして成熟した大人の女性として、或いは聖女として霊なるものとして――ある意味では衝動に支配された為として――メルツを奪った『立場』や『運命』、総じてこの世界への恨み憾みに曇らされる事無く、復讐に囚われる事無く、自分の人生にすら意図も容易く終止符を付けて、ただただ一途に純粋に、彼に対する愛を貫く事のみを彼女は選んだ――言ってしまえば、復讐しない事こそが彼女の復讐なのである。復讐しない、そうする事で彼女は己が愛の純粋さをより一層高いものとし、それ以外の全て一切合財を些事と、無意味なものと(自我が意識され得るもので無ければ、半ば無意識としてでも)捨て去っているのだ。

 成る程、そんな風にメルツへの愛しか持たないエリーザベトの姿は実に清らかで美しいものである――けれど、それは愛という名の『御象』としての美しさだ。死せる者に操を立て続ける限り、その幸福は決して地上には無く、それ故に彼女は死ぬより他ならない。メルツ≠メルヒェンが言っている様に、死と引き換えにまで愛を貫く事の賛否は論じて然るべきだろう。また、復讐をしない、愛以外に囚われ無いというその考えでは、何故メルツが死なねばならなかったのかという根本的な問題の解決には至れない。また同じ事が繰り返される可能性があるという意味で、これはある種の諦めであり、逃げの思想なのである。

 勿論、それでもエリーザベトは美しい――当然だ、醜いものなど持っていないのだから――し、彼女自身がそれを望んでいるのだから、別に構わないかもしれない。だが、復讐をしないという復讐を行っている時点で彼女ははっきりと七人の女優の一人であると言える訳であり――その意味で言えば、彼女の復讐パートは、『この狭い鳥籠の中で』と出来ようか――他の女優達がそうであった様に、復讐の報いは必ず齎されるものである。だが古井戸の娘の様に霊なるものとして極まった彼女を汚す事出来ず、ならばこそ、その皺寄せは別の所に遣って来る――そう、エリーゼに、だ。

 エリーザベトと同じ姿をした人形、であった少女が結局何なのか、その詳しい所は解らない(『宵闇の唄』の井戸が唄う部分が解れば、或いは?)。『宵闇』冒頭で引用された『エリーゼの為に』が本来『テレーゼの為に』であった事やその部分に二人の声が重なる事を始めとして、その言動、救いの手を差し出さなかった神の代わりに死者達へ救いの手を差し出す=復讐の手助けをする様子等を見るに、テレーゼの怨念的なものも感じる。だが、それ以上に、その感情のままに復讐を促し、感情のままに地上での生を望み続ける様子こそは、聖女が捨てた衝動、その一端であり、そしてメルヒェン≠メルツがエリーザベトの愛を選んだという事はエリーゼの愛、『唯 君だけを愛した』事には変わり無い彼女の愛を否定する事へと繋がって行く――思い返して欲しい、メルヒェン≒メルツとエリーザベトが半ば息の合ったデュエットを唄っている傍で、もう一人の少女がずっとそこに居たのだという事を――対となる『火刑の魔女』でも語られた、ある一つの愛が別の愛を拒むという喜劇がここでまた繰り返されるのだ。それもその片棒を担うのがメルヒェン≒メルツ――復讐を望む者に救いの手を差し伸べて来た男が、復讐を捨てる事で、復讐を望む者の気持ちを踏み躙った、ともすれば理不尽にその愛を否定された自身の母親テレーゼが受けた事と同じ行いを他ならぬ彼がしているというのだから、何とも酷い限りだろう。

 ともあれ、己が憤りから復讐を拒み、ただ在るがままに愛する事のみを望む……その事によって復讐という別の形の愛を拒み、また生自体をも否定してしまう――それがどれだけ華麗であろうとも、彼女自身がそれを望もうと望まざるとも、そうなってしまう以上は、これがエリーザベトの罪なのである。確かに、彼女が唄うのは『憾みの唄』では無いだろう――だがその一方で『恨みの唄』は唄われ続けるのである――『宵闇』で無ければ、そう、『暁光』にて、だ。 

【イドの底に潜む矛盾の罠】
 さて、この様にエリーザベトもまた七人の女優達の一人であり、復讐もしていれば罪もある事を述べた訳だが、これだけでは、メルヒェン≒メルツの救済は揺らがぬだろう。エリーゼが犠牲となったのは切ないし哀しい事であるけれど、救いには痛みが伴うものだ――それでお終いである。これは本意では無い。

 だが幸いにも、皮肉にも事はそれで終わらない――『イドの底に潜む矛盾の罠』、この物語最大の㐂劇は、正しく底、『Märchen』の最期の最後にこそ待ち受けているのだから。

 「おかあさん。ひかり、あったかいね」

 この一見すると何の変哲も無く素晴らしい(そして『おかあさん』をムッティと読むならば、十三文字と数える事も出来なくは無い)台詞を遺してメルヒェン≠メルツは光の中へと消えて行き、そして童話の本は閉ざされる――感動的な終わりだが、しかし良く良くと考えるとこの台詞は少し可笑しなものである。

 メルヒェン≠メルツを救ったのは――それが救いであるとすれば――エリーザベトである。テレーゼでは無い。ならば、締め括りの言葉も、エリーザベトに対するものでなければならないし、それに彼の母親は……という所で思い出して貰いたいのは『彼女が魔女になった理由』冒頭の一節である。

 母にして姉であり、断罪者にして贖罪者であった。
 Therese von Ludowingの知られざる物語……。


 『知られざる物語』……そう、自分の母親が世界を呪う『魔女』と化した事を、メルツは知らないのである。或いは知る筈が無い、というべきか。ずっと井戸の底で眠っていた=死んでいた彼には、井戸の外で起こっていた出来事を知る機会なんて無かったのである。

 そしてそれは、メルヒェンとなって井戸の外に出た後でも何一つ変わっていない。『記述が抜け落ちた』彼は、自分がメルツであった事を忘れている。その為、童話が時間と空間を超越(無視)する様に、自身の死に至る過程を見に行っても、メルヒェンからすれば、それは唯の物語であり童話であり、他人事でしか無い。イドイド初回限定版ジャケットを見れば、『鳥籠』も『魔女』も見に行っていたのかもしれないが、だとしても同様である。エリーザベトに復讐劇を拒まれ、メルと呼ばれるその瞬間まで、自分がメルツである事を想い出せなかった彼が『世界を呪う魔女』=自分の母親と考えられる筈もあるまい。

 或いは、あの瞬間にエリーザベトが告げている可能性もある。だが『知られざる物語』にして『「後に私は彼の死を知る」』ならば、エリーザベトもテレーゼの身に起きた事を知らなかった(怨念の声を高らかに上げる火刑の場に居合わせていなかった)可能性の方が高い。少なくとも詳しくは。若しくはメルツは知っていると思っていたのかもしれない。何にせよ、曲を聞く限りでは、その様な遣り取りは無い。

 そしてこの様にテレーゼの死を理解していないという事は、同時にメルツが自分の復讐の動機、その一つを理解していないという事でもある。『復讐は誰が為に』と唄っているけれど、それは自分の為だけではあるまいし、エリーザベトの為だけでもあるまい。愛していた(よりも愛されていたの方が強いか)母親が無惨な最期を遂げたのである。それを忘れて復讐はもとい昇天等出来るものか。

 これだけでも、もう充分と言えば充分な気もするが、イドから続く『Märchen』の主題から考えれば、追い討ちがもう一つある。エリーザベトの昇天(救済)の中で彼があの様な言葉を紡いだのは、テレーゼの身に起きた事を知らなかったからだが、それは即ち、聖女の中に優しげな母親の面影を見た、突き詰めればエリーザベト≒テレーゼと考えているからに他ならない。けれど、それが勘違いなのは上の通りとして――ではそれは何に由来するかと言えば、戻って『光と闇の童話』の中にその答えがある。

 盲いた闇で彼が 光だと思っていたのは 誤りで
 その温もりの名は 愛だと 後に知った

 初めての友達は 碧い瞳の可愛い女の子 お別れさ
 その切なさの名が 恋だと 遂に知らず


 忘れがちだが、ここは重要な箇所であろう。そう、世の中には二つの愛情が……肉親の、母親の、痴の繋がりに由来する愛と、異性の、恋人の、心の繋がりに由来する愛が存在する事を、肉と霊と、二つに分かれたものがあるという事を、根本的にメルツは解っていなかったのである――恐らくメルヒェンで無い彼の中で心地良いものとは、全て『ひかり』であるに違いない。『《恩寵》《愛情》《幸福》《未来》』これら全てを一繋がりに、何の疑いも無く『ひかり』と呼んだ様に。

 その為メルツは『暁光』を、エリーザベトを求め、その上でテレーゼに語り掛けた――彼女が救われたという事は、母親もまた救われたと、その心地良さはかつての母親のそれと変わり無いものだと、これから向かう先に恋人と同時に母親も居るのだと、そう思いながら。けれど違う。そこにテレーゼは居ない。彼女が居るのは『宵闇』の側であり、そうしてそれはエリーゼの側――彼がエリーザベトを選んだが為に捨てられたあの少女の側なのだ。或いは人形の中に、聖女の衝動だけで無く母親の妄執が注ぎ込まれているとすれば、本人そのものを否定したという事にも繋がる――何であれこれは矛盾に他ならない。

 だからこそ、ここで『メルツは本当に救われたのか?』という最初の疑問に、こう応えたい――それは、である、と。彼は確かに昇天を、救済を迎えたかに見える。だが、彼が思い描いているものと、実際のそれの間に明確な違いがある以上、それは見掛けだけのものに過ぎず、実際に何が起きたかと言え、かつてエリーゼ≒テレーゼと共にあった時は忘れていたエリーザベトの事を思い出し、今度は彼女(達)を捨てる事となった、言うなれば、肉から霊へ、エリーゼの『宵闇』からエリーザベトの『暁光』に移った、それ以上でもそれ以下でも無い――メルツの状態だけを言えば、ただ元に戻っただけだとも言えるけれど、だが失ったものを考えれば、零では無くマイナスである。

 そうして彼のこの有様こそ、自分はイドから続く『Märchen』の主題なのでは無いか、と考える。即ち、表に潜む裏の存在である。光と闇、衝動と自我、肉と霊――一つの物事には複数の見方がある。そこに気付かず一方にただ良しとして偏るならば、もう一方が犠牲となってしまう。それは七人の女優達で、或いはエリーゼ≒テレーゼ、メルヒェン≒メルツ、そしてエリーザベトの三者の象徴的関係で示した様にで――だからこそ、その事に気付く事無く歩み続ける限り、この㐂――七が三つと積み上がった――劇は、繰り返されるものであるに相違無い。
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