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 Frohes neues Jahr! もとい気が付けば年が明けていたけれど、気にせず書いちゃう『Märchen』考察。いや本当は開ける前に書き上げて、衝動を昇華させたかったのだけれど……年末忙しかったからなぁ。

 ともあれ今回は『磔刑の聖女』、そしてメルツの救いについてを上げたく思う。前回はこちらから。
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 聖夜等知った事では無い、と言う衝動に駆られて手前勝手な『Märchen』考察。

 今回は『薔薇の塔で眠る姫君』『青き伯爵の城』である。前回のは、こちらから。
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 今日はコンサート……アレが舞台でどうなるのか、とか物凄く気になるけれど、行けないものは仕方が無く。解釈はそれぞれと言う事で、今日も今日とて、考察を続けるのです。

 と言う訳で今回は『生と死を別つ境界の古井戸』で御座い。前回は、こちらから。
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 初回限定版の『七』折りのケースの順番は、あれ十字を切っているのだね、と今更に気付きつつ。

 『Märchen』考察続き、今日は『黒き宿の女将』と『硝子の棺で眠る姫君』である。

 前回から直接繋がっているので、まずはこちらからどうぞ。
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 と言う訳で続きである。前回から繋がっているので、初見の方はそちらからどうぞ。
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 と言う訳で、ちょっと早い気もするけれど(隠しトラックも今の所発見されて無いみたいだしなぁ)、『Märchen』考察である。が、始める前に幾つか。これは個人的理解の為の個人的解釈であり、真実は陛下のみぞ知るが故、あくまでもそのつもりで読んで貰いたい。また、基本的に作品として、全体としての解釈の為、細かい設定については余り扱わない方向で行く……という言い訳は何時もの事として、今回、自分は以下のスタンスを取って書いている。

・SHがハッピーエンドだなんて在り得ない。これは何か裏があるに違いない。

・これではエリーゼが余りに不憫だ。どうにか彼女を救わねば=あれは幸福な結末では無い。


 要するに、私は最初から疑って掛かっている。勿論、そうするに足る根拠はあるのだけれど、それすら個人的なものとして、著者は恣意的に見ている事を、念頭に置いておいて頂きたい。
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 ろりこんじゃないよ! 仮にろりこんだとしても(略)

 と言う訳で、恐ろしく久し振りのBlog更新。小説投稿抜かすと、これ実質的に数ヶ月ぶりになるのか。恐ろしい。タグとかタイトルとか設定し無くて良いから、お気楽ご気楽とTwitterで呟いたりはしてたのだが。まぁ色々……無いな。バイト掛け持ちして、もう直ぐ終了する、という位で。

 まぁ、そんな事はどうでも良くて、『Märchen』ですよ、お客さん。とうとうですよ、えぇ、はい。

 これもまた久し振りと、前日にフラゲして今日まで延々聞いている訳ですが、いやはや素晴らしいもとい、凄まじい。一期から二期までに遣って来た事のある種総集編的に、酸いも甘いも遣りたい放題という感じだ。まさかの十分越え+クラシック引用の大曲『宵闇の唄』から始まり、かまんぐに雪白ちゃんマジ雪白ちゃんで、変態という名の王子から明夫のロンギヌスとネタも満載だというのに、最期は……。正直曲としてどうなのかと思う部分も無きにしもあらずだが、ここまでやられてしまうと、グーの音も出ない。陛下の才能が何とも満開である。

 お陰で考察というか解釈というか妄想も膨らむ事膨らむ事……『最小限の公開情報を駆使して真実を捻りだす導き出す』のをフロム脳と呼ぶならば、SH脳とでも呼ぶべきか。嗚呼、エリーゼ……。

 と言う訳で、もう少し固まったら、妄想を上げて見るつもり……全体的に見方が卒論でやった『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』になりそうだが。そして前回のイドイドが、ストーリー的に掠りもしなかったのは小脇へ放置。まさか本当に詳細不明のまま終わるとは思って無かったのだが……方向性としては間違って無い、と思うので、これを発展させて『Märchen』も読み取って行くとしよう。
∀.あのエチオピアの空の下で
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5.この世の限り
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4.先の手紙のその中身
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3.忘却図書館蜜月旅行
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2.単彩螺鈿の死者と悪魔
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1.山上の羊達の都市
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 神の贈り物によって山羊からその似姿と相成った人類は、『白の者』と『黒の者』に分かれ、紙の文化と対立の歴史を深めていた。そんな白と黒の間に居る少数派=灰の者であるサイカ・ネルレラクに舞い込む黒の頭目からの依頼は、贈り物=『パルプグラマトン』を捜せというものであった。世界終末の兆しが陽光に乗って注がれ、合わせる様に白の代理人も動き始める最中、サイカは守護悪魔モノ=クロームと共に、唯都グァラ=グァラ探求へ赴く――彷徨える彼の行く先に、求めるものはあるのだろうか。
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 生存報告もかねて。生きてるよ、死んで無いよ、幽霊じゃないよ、って大概の幽霊は言いますよねぇ。

 ともあれこの話の原典(オリジン)は、私の父にあります。
「霊能力者は幽霊が見えるというけれど、しかし一体今までどれだけの人間が、生物が死んだと思っているのだ? 宇宙が誕生してから、今日に至るまで」
 超常現象特集のテレビを見ながら、彼は言いました。
 私もそう思います。
 だからちょっと、そんな風なものを描いて見ました。後輩から貰った御題でもあり、夏という事で――まぁ作品としては、別にそんなものはどうでもいいのですけれども。ゴゥンゴゥン。
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 かつて、スナッチの感想記事を上げた時、「残念ながら、うちのバイト先には無いみたいなんだけれども」と言ったが、あれは嘘だ。いや、ふらっと探して見たら、何と発見……うぅむ、無い無いとばっかり思っていたのだが、案外と侮れぬものだ。他の見たかったものも探して見ようかなぁ。

 まぁそういう訳で、ガイ・リッチーの初作品『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』である。

 黒木さんだったかな、自分にガイ・リッチーは合うだろうと言ってくれ(ちょっとドライでブラックな辺り、と)これを進めてくれたのは。他にもあれは面白いという後輩から聞いていたのだが、確かにこれは面白かった。英吉利のその年の年間興行成績一位を取ったそうだが、頷ける話である。

 登場人物達が自分達の都合と理屈で好き勝手に振舞った結果、自体がどんどん複雑になって行き、そしてそれがまた次々に解消されて結末へと至る様は、正に脚本の妙であるな。その状況を産み出す、出て来る連中出て来る連中のどうしようも無さも笑ったし、煙草の染みの様にフィルターがかった映像、スタイリッシュな演出、そして要所要所の音楽の使い方も素敵だった。

 ただ何と無く、それだけという感じを受けたのも、確かではあるのだが……見終えた後に残る『何か』というのはちょっと無かったな。娯楽映画にそういうのを求めても仕方が無いのかもしれないが、英国版タランティーノと呼ぶには、御洒落に過ぎる印象だな。いや、嫌いでは無いのだけどね。ちょっと納得が行かぬ感じである。『スナッチ』は、最後のブラピからのオチで上手く締めていたと思うに、これからではあるのだろうな、うん。リボルバー、は飛ばして、ホームズはどんな感じかな? 悪い話は聞いていないが、さて。
 実はつい先日まで、これがあのブラッチャーヤー・ピンゲーオ監督の、つまり『マッハ!』『七人のマッハ!』『トム・ヤム・クン』に続く、ムエタイ映画(しかも美少女アクションと来たものだ)である事を知らないで、すっかりスルーしていた『チョコレートファイター』を今更ながらに見る……矢鱈レンタルされてるので可笑しいなぁ、とは思ってたんですけどねっ。誰もそうだって言ってくれないんだもんっ、今畜生っ。

 そして、またこれが今まで見て無かったのを悔いるもので――主人公が男性から少女になった、という事で思い出すのは『ウルトラヴァイオレット』であり、あの『リベリオン』の(アクション的)続編という事で、ガン=カタっ、ガン=カタっ、と盆暗魂を滾らせて見てみれば、かなり微妙でがっかりしたものであるけれど、今作は正にその真逆であり、期待を裏切らない出来栄えであった。

 まず、何はともあれ、アクションが素晴らしい。毎度毎度良くぞここまで、と感心するより他無いその容赦の無さっぷりは、縦令少女が主人公であろうとも全く変わっておらず、実際、EDにて流れるメイキング映像は壮絶であり、痛々しくも凄まじい。この生の迫力は、本当に凄かった。

 話に関しては、有りがちと言えば有りがち――但し、タイのお国柄にしても随分生々しく、そして結構なタブーを破っている様は、凄いと思った――けれど、娘と母の絆を軸にしたそれは、素直に胸を突いた。同じアジア圏だからか、日本の描写も違和感無く(個人的には、要所で関心する程)見る事が出来たし、阿部ちゃんもまた格好良かった(実は彼をそう思ったのは、始めての事だったりするが)。

 ただまぁ、若干不満もあるにはあって、最初と最後の阿部ちゃんのナレーションは正直蛇足だったと思うし、それ以上に、主人公が余りに強過ぎて、カタルシスが寸止め気味になってしまったのは残念な所。闘う事への精神的葛藤も弱点らしい弱点も直ぐに解消され、実質的に無双状態(苦戦はするが、敗北は無い)というのは、ちょっとね。敵側に居た知的障害気味の少年が、テーマ的にもアクション的にももっと頑張ってくれるかと思ったのだけれど、意外とあっさり退場してしまった為、拍子抜けしてしまったし。やはり、対峙する存在というのは大事だと思う訳で、だからこそ、燃えるものも燃えるのだが、うぅむ。

 とは言え、これが素晴らしいアクション映画なのは間違い無しである。『闘う美少女』という形容がこれ程までに相応しい者も他には居ないだろう、主役たるジージャー・ヤーニンの、可憐且つ華麗なムエタイアクションを是非に堪能して貰いたい――所で、劇中重要な小道具として登場する『マッハ!』等の映像挿入を見て心躍った(本当はブルース・リーを使いたかったそうだけれど)身としては、トニー・ジャーとの共演を夢見てしまう訳だが、流石にもう無理かなぁ? やぁ、でも、だからこそ見てみたくもなるのだけれど。
【AVALON】――――――――アヴァロン

 広義にはシミュレーションをふくむ体感ゲームを総称して<アヴァロン>と称する。
 一九八○年代に米陸軍が開発したコンバットシミュレーターをその原型とし、二○世紀初頭に飛躍的な発展を遂げた大脳生理学の成果を導入することで、所謂《ブレインストームタイプ》のシステムとしての実現をみた。
 プレイヤーは視覚や聴覚を経由せず、大脳皮質への低周波による直接励起によってゲーム内の時空間を体感し、プログラムされたシナリオの蓋然性の内部でその戦技を競う。戦闘は任意に選択された状況下において、個人またはその所属する集団単位で設定され、《フラグ》と呼ばれる特定の標的、またはプログラムの支配下にある標的の全てを倒すか、あるいはプレイヤー自身が<死ぬ>ことにより終了する。
 ゲーム内の現実はプレイヤーによって擬似的に体感された架空の世界に過ぎない。しかし、その戦闘行為が覚醒後の被験者におよぼす影響、とりわけその<死>の体験の心理的、生理的影響の危険性は早くから指摘され、多くの地域で非合法化されながら、しかし今世紀中葉の不安定な政治経済状況下に熱狂的ブームを巻き起こし、若者たちの間に《パーティー》と称する非合法集団を頂点とした無数のゲームフリークスを生みだした。

(ノベライズ版 押井守『Avalon 灰色の貴婦人』より)



そして“アヴァロン”を生み出した伝説のプログラマーたち――

“九姉妹”はそのフィールドに新たな試行領域をつけ加えた。

獲物を求めて荒野を彷徨う孤高の猟師たちの世界

人々はそれを“アヴァロン(f)”と呼んだ――




 と言う訳で、マイ・フェイバリット・ムービー『アヴァロン』の世界観的続編、アサルトガールズを見る……世界観的続編、と言ったのは、まぁ予告を見て貰えば解るだろうけれど――KOTOKOだしなぁ――思い起こせばもう十年近く前、今は亡き、と言うのも今は昔な特撮雑誌『宇宙船』でその存在を知り、深夜にテレビで遣っていたのを食い入る様に見たのが、始めての押井映画だった『アヴァロン』、ビデオに録画して映像が磨耗するまで何度も見た『アヴァロン』、始めてサウンドトラックなるものを自費で購入した映画だった『アヴァロン』、手垢が付く程、ノベライズを繰り返し読みふけった『アヴァロン』、ネットゲームの話題が出る度に「しかし、そろそろ『アヴァロン』オンラインゲーム化しないものか」「ドラグノフ抱えてアッシュごっこ……胸が熱くなるな」「○○だぁ、やばいぜっ、どぉすんだよぉ!!」と言い続けた『アヴァロン』、目玉焼きの黄身にパンをぐじゅぐじゅと付けて、くっちゃくちゃ喰う旨さを教えてくれた『アヴァロン』、そしてテーマ的に最早無理と知りつつもその続編を夢想していた『アヴァロン』……ストーリ的な繋がりが無いとは言え、そんな『アヴァロン』の続編が、よもやこの様な形で出されるとは、中学生の頃の俺は、想像すらしていなかったに違いない。正しく、コレジャナイアヴァロンである……あの蠱惑的な、黄昏色の世界は、何処へ言ってしまったのやら。

 まぁしかし、明らかに某狩猟ゲームの影響を仄めかすこの映画、蓋を開けて見れば――匂い立つ予算不足の香りは否めないとは言え――また実に押井映画であると共に押井映画で無く――スラップスティックなオチに大ゴケしつつもこう思う。嗚呼この作品――インタビューでもほろっと言っていたが――『アヴァロン』を始めとする、これまでの作品への一種のアンチテーゼ、それこそパロディなのだな、と。

 冒頭数分程度のナレーションに纏められ、後は僅かに台詞内でだけ言明されるゲーム外の世界(尚、冒頭部はノベライズからの引用であると共に、今作唯一の押井節である)、中欧的画一的街並みから一変、黒い砂ばかりが何処までも続く荒野と化した戦場、威厳も糞も無く、ただ暴れ、ただ狩られるだけのモンスター、浪漫のみを糧に独り獲物を求め続ける放浪者イェーガーは、三人の女達(グレイ=灰の名を冠する、リアルでは親のスネカジリな狙撃手、夫と子供を養う為、日々の生活の為にゲームで稼ぐ屈強な女戦士、奇行と奇声しか上げぬ黒衣の魔導師(ブラックウィドゥ)という組み合わせは、『アヴァロン』主人公にして、『灰色の貴婦人』の重要人物アッシュの要素をそれぞれ想起させる)に翻弄され、徒党を組んで終端標的(フラグ)=フィールド・ボス、マダラスナクジラを狩るも――この件が、またある意味象徴的だ。犬と鳥が手を組み、魚を倒す、という――最後には出し抜かれ、そして巻き起こるあの結末――

 ここにはあの、古典的RPG『ウィザードリィ』に意匠を置いた、現実と虚構、二つの世界を行きつ戻りつ揺れ動き続ける苦悩者、己の中の真実を得るが為に半ば永遠の求道を認め、神に等しき者へすら銃口を向けた彷徨い人の姿は皆無であり、どころか、そう言った姿勢を否定している様に映る。

 特に中盤(ここは、イェーガーが砂漠を歩き続けるシーンの次に、お気に入りの場面でもあるが)、砂に半ば埋もれた、学び且つ歩む学童(二宮尊徳では無い)二宮金次郎像と、その上に置かれた(螺旋をその背に背負う)蝸牛に対して、イェーガーと三人の女達がそれぞれの反応を示す場面は、『アヴァロン』と『アサルトガールズ』の相違を端的に表したシーンであると思う――蝸牛と戯れる三人の女達と、それを食すイェーガー、そして金次郎像の上に遺された“殻”を打ち砕くグレイ――だから『アヴァロン』では無い、深みも何も無いB級映画だ、というのは、ある種尤もであると思う訳だ――何時までも悩むだけでは意味も無い。いい加減、目を覚ましてもいいんじゃないか、と。

 とは言え、ヴィルヘルム・マイスター的な、トニオ・クレーゲル的な気質を本懐とする私みたいな人間としては、それでも尚、あの理屈で積み上げられた後ろ暗い世界が望ましいのであり、そして何よりも重要な事は、スカイクロラから継続されるある種前向きなそのテーマがどうであれ、それが作品として面白いかどうかは、全く別の次元であるという事だろう――うぅむ。セピア色に染まる、虚実綯い交ぜな都市風景、「脚力のパラメータを限界まで上げた俺の走りはマジオリンピック級」というノベライズの描写にニヤニヤした人間としては、黒い荒野と白い雲海ばかりが広がる風景に忽然と浮かぶ球状のGMや、台詞の随所にあるゲーム的内容(そして当然だが、結局どうしても漂ってくる押井らしい雰囲気に)、まぁこれはこれで、とそれなりに愉しむ事は出来たのだけれど――予備情報も、その手の感性も持たなければ、ただの冗長で『解っていない』B級SFアクション映画に過ぎないに違いない。

 尤も、そんな奴がこんな映画を見る訳も無いか――ある意味では『立喰師』の、つまり完全に趣味の映画として、ファンであれば、愉しむ事が出来る映画、と、言った所であろうか。

 そうそう、後今作、結構『アヴァロン』を思わすシーンがあって、そこでもにやっとするのだが(冒頭ナレーションで映されるツィタデルとか)、スタナーの犬喰い(件の目玉焼きぐちゃぐちゃ)を遣ってくれた事は、個人的にとても素晴らしかった。やっぱ目玉焼きはこうでなくっちゃ。